第五十話:鉄の仮面の下で
後宮に鳴り響いた火事を知らせる鐘の音は、巧妙な陽動だった。
侍女たちが右往左往する混乱が収まった頃、洗濯場の火事はボヤ程度のものであったことが判明する。しかし、本当の惨劇は、誰にも気づかれず、静かに起きていた。
「……う……ん……」
組合の執務室の床で、アンナが最初に意識を取り戻した。首筋に走る鈍い痛み。ぼやける視界の中で、隣に倒れているサラの姿を認め、彼女は悲鳴を上げた。
「サラさん! しっかりして!」
その声に、サラもゆっくりと目を開ける。二人は互いの無事を確認し、安堵のため息をついたのも束の間、部屋の惨状に気づき、血の気が引いた。
窓は壊され、部屋は荒らされている。そして、帝国の未来そのものとも言える研究資料を収めていた木箱が、無残にもこじ開けられ、中身が空になっていた。
「……ない」
アンナの震える声が、静寂に響く。
「リディア様の、あの苔の研究メモが……ない……!」
全てを悟った二人の顔から、急速に色が失われていく。希望が、根こそぎ奪われた。その絶望的な事実に、二人はただ立ち尽くすことしかできなかった。
その時、執務室の扉が静かに開かれ、鉄の仮面を被ったかのような女官長が、数名の衛兵を伴って姿を現した。
「……やはり、火事ではなかったか」
彼女は部屋の惨状と、意識を失っていたアンナたちの様子から、瞬時に全てを看破していた。その瞳には、驚きではなく、冷たい怒りの炎が燃えていた。
「この部屋を完全に封鎖せよ。何人たりとも、私の許可なく立ち入ることは許さん」
彼女の的確な指示に、衛兵たちが即座に動く。アンナとサラを医務室へ運ばせると、女官長は自ら、床に残されたわずかな痕跡を調べ始めた。その目は、もはや後宮の管理者ではなく、熟練の捜査官のそれだった。
床に落ちていた、見慣れぬ布の切れ端。そして、窓枠に残された、微かな油の匂い。
「……ソラリスの者どもの仕業か。そして、この手引きをした者が、この後宮の中にいる……」
彼女の脳裏に、一つの顔が浮かんでいた。ここ数日、不審な動きを見せていた、忘れられた元妃。
女官長は、すぐさま皇帝の執務室へと向かった。彼女が、これほどの怒りと焦りをその身にまとうのは、後宮に仕えて数十年、初めてのことだった。
報告を聞いたアレクシスの反応は、静かだった。
だが、その静けさは、嵐の前の静けさそのものだった。
アンナとサラが襲われたこと。そして、私が命を懸けて見つけ出した希望の光が、敵の手に渡ったこと。その二つの事実が、彼の心に渦巻いていた嫉妬や迷いといった、ちっぽけな感情を、一瞬にして吹き飛ばした。
残ったのは、己の愚かさへの深い後悔と、見えざる敵への、底なしの怒り。
(……私が、彼女を疑っている間に。私が、不器用な嫉妬に身を焦がしている間に、彼女の仲間たちが傷つけられ、彼女の努力が踏みにじられたというのか……!)
彼は、自分の本当の気持ちを伝えられず、ただ君主としての冷たい命令を送ってしまった。あの時の自分の弱さが、この惨状を招いた一因なのではないか。その思いが、彼の胸を締め付けた。
「……リディアを、危険に晒すわけにはいかぬ」
アレクシスは、ゆっくりと立ち上がった。その紫紺の瞳には、もはや迷いはなかった。君主としての、そして一人の男としての、揺るぎない決意の光が宿っていた。
「近衛騎士団長を呼べ。至急だ」
彼は、側近にそう命じると、自らの手で一枚の羊皮紙にペンを走らせた。それは、命令書ではない。北の地で戦う、ただ一人の女性に宛てた、彼自身の言葉だった。
「――そして、女官長」
ペンを置いたアレクシスは、静かに、しかし氷のように冷たい声で続けた。
「イザベラの離宮を、完全に包囲せよ。……一匹の鼠も、外へ出すな」
帝都の夜の裏で、静かに進んでいた裏切りの円舞曲は、今、皇帝自身の怒りという不協和音によって、その終わりを告げようとしていた。
反撃の時は、来た。




