第四十九話:奪われた叡智
帝都の後宮が、深い眠りについている頃。
『後宮生活改善組合』の小さな執務室では、まだ灯りが揺れていた。
「……リディア様、ご無事だといいのですが」
アンナは、北の地から届いたばかりの、私の走り書きのような研究メモを整理しながら、心配そうに呟いた。その羊皮紙には、顕微経で見た苔のスケッチと、専門的な化学式がびっしりと書き込まれている。私の知恵の結晶。それを守り、いつでも私が参照できるよう整理しておくことが、帝都に残ったアンナたちの最も重要な役目だった。
「大丈夫よ、アンナ。リディア様とフィン様が、きっと道を見つけてくださるわ」
サラは気丈にそう答えながらも、窓の外の闇に目を向けた。このところ、後宮内に漂う不穏な空気を、彼女も肌で感じていたのだ。
その時だった。
遠くから、甲高い鐘の音が響き渡り、静寂を切り裂いた。
「火事だ! 洗濯場のほうから火が出ているぞ!」
侍女たちの悲鳴と、衛兵たちの怒号。二人は顔を見合わせ、すぐさま部屋を飛び出した。
しかし、これは罠だった。
人々が洗濯場へと駆けつける混乱の裏で、数人の影が、まるで闇に溶け込むように、後宮の壁を乗り越えていた。ジュリアン王子が放った、ソラリスの特殊工作員たちだ。彼らの目的は、ただ一つ。私の叡智が眠る、あの執務室。
アンナとサラが、他の侍女たちと共に消火活動に加わろうとした、その時。
「……あなたたちは、こちらへ」
背後から、静かだが有無を言わせぬ声がした。振り返ると、そこには鉄の仮面を被ったかのような、女官長が立っていた。
「リディア様から預かったものを、何よりも優先して守りなさい。火事場は、わたくしと衛兵たちに任せればいい」
その的確な指示に、二人ははっと我に返り、急いで執務室へと引き返した。
執務室の扉を開けた瞬間、二人は凍りついた。
部屋の中は荒らされ、窓から侵入したであろう黒装束の男たちが、研究資料が収められた木箱をまさぐっている。
「な、あなたたちは……!」
「下がれ、小娘ども。命が惜しくばな」
男の一人が、冷たい声で言い放つ。その腰には、見慣れない形状の短剣が下げられていた。
アンナとサラは、恐怖に足がすくんだ。しかし、彼女たちに、帝国の未来そのものがかかっている。
「……させるものですか!」
アンナが、震える声で叫びながら、男の前に立ちはだかった。サラも、燭台を握りしめ、彼女の隣に並ぶ。
だが、抵抗はあまりにも無力だった。
男はため息一つつくと、瞬く間に二人の懐へ飛び込み、その首筋に的確な一撃を加えた。アンナとサラは、声もなくその場に崩れ落ち、意識を失った。
男たちは、目的の資料……苔に関する最新の研究メモが記された羊皮紙の束を手に取ると、来た時と同じように、音もなく闇の中へと消えていった。
……その頃、遠く離れた北の村。
仮設の研究室では、私とフィンが歓声を上げていた。
「間違いない……! この苔に含まれるアルカロイド成分が、病害の毒素を中和するんだ!」
夜を徹した分析の末、私たちはついに、治療法への確かな道筋を発見したのだ。絶望の闇の中に差し込んだ、眩いばかりの希望の光。私はすぐさま、この朗報をアレクシスと、そして帝都で待つアンナたちに知らせようと、ペンを取った。
しかし、その希望が、すでに帝都の闇の中で、根こそぎ奪い去られてしまったことを、私たちはまだ知る由もなかった。




