第四十八話:毒蜘蛛の糸
帝都、ソラリス使節団が滞在する壮麗な屋敷。
ジュリアン王子は、北の村から届いた密偵の報告書を読み、満足げに口元を綻ばせた。
「……黒穂病は順調に畑を蝕み、村人たちのリディアへの信頼は揺らぎ始めている、か。面白い」
彼の隣に控える腹心の側近が、もう一通の報告書を差し出す。
「後宮でも、イザベラ様の流した噂が効果を上げております。リディア妃の支持基盤であったはずの侍女たちの間に、疑心暗鬼が広がっている模様」
「上出来だ」
ジュリアンは、窓の外に広がる帝都の景色を見つめた。全ては、彼の描いた脚本通りに進んでいた。だが、彼はまだ満足していなかった。もう一押し、決定的な一撃が必要だった。
その一撃をもたらす使者が、その夜、彼の元を訪れた。
イザベラからの、新たな密会の申し入れだった。
「……して、次なる一手とは?」
深夜の後宮の庭園、再び同じ東屋で、ジュリアンの側近が問う。イザベラは、闇の中でも爛々と輝く瞳で、勝利を確信した笑みを浮かべた。
「あなた方が本当に知りたいのは、あの女の頭の中でしょう?」
「と、言うと?」
「リディアは、後宮に来てからの自身の研究成果……特に、土壌改良や植物栽培に関する記録を、全て詳細な日誌として書き留めております。それは、あの女の知識そのもの。そして、その写しの一部は、今も後宮内の、ある場所に保管されているはずですわ」
イザベラは、かつて自分がそうであったように、私もまた、信頼する腹心であるアンナやサラに重要な資料の管理を任せているはずだと睨んでいた。そして、長年この後宮に君臨してきた彼女だけが知る、警備が手薄になる時間、侍女たちの交代の隙間。
「わたくしが、ささやかな騒ぎを起こして差し上げます。その隙に、あなた方の腕の立つ者を忍び込ませ、それを盗み出せばよいのです」
それは、私の最も重要な武器である「知恵」そのものを奪い去るという、あまりにも悪辣な計画だった。その上、万が一計画が露見しても、実行犯はソラリスの者。イザベラ自身に嫌疑がかかることはない。
側近は、その冷徹なまでの計画性に舌を巻いた。
「……見事なものだ。王子も、きっとお喜びになる」
「ふふ。わたくしは、ただ、失われたものを取り戻したいだけですわ」
取引は、再び成立した。イザベラの憎悪は、今や帝国の未来を揺るがす、鋭利な刃と化していた。
その頃、遠く離れた北の村。
仮設の研究室では、一本のロウソクの灯りが、夜通し揺れていた。
「……フィン様、これを見て」
疲労困憊の私の声に、仮眠をとっていたフィンが飛び起きた。私が顕微鏡のレンズが捉えたもの、それは、病に侵された小麦の根に、寄り添うようにして自生する、名もなき小さな苔だった。
「この苔が生えている株だけが、病の進行がわずかに遅いのです。もしかすると、この苔の成分が、毒を中和しているのかもしれない……」
それは、まだ仮説に過ぎない、暗闇の中の、あまりにもか細い一筋の光だった。しかし、絶望の淵にいた私たちにとっては、何よりも大きな希望の光だった。
「すぐに、この苔の成分を分析しましょう。夜が明けるまでには、何かわかるかもしれない……!」
私たちは、互いの顔を見合わせ、力強く頷いた。
まだ、終わっていない。私たちの戦いは、まだこれからだ。
しかし、私たちは知らなかった。
私たちがようやく掴んだその小さな希望の光そのものが、帝都の深い闇の中で練られた次なる一手によって、根こそぎ奪い去られようとしていることを。




