第四十六話:すれ違う心
北の村の夜は、冷たい沈黙に支配されていた。
ロウソクの灯りが揺れる仮設の研究室で、私とフィンは連日、顕微鏡を覗き込み、古文書をめくる日々を続けていた。しかし、解決の糸口はまだ見えない。村人たちの期待を一身に背負いながら、焦りだけが募っていく。
そんなある日の夜、帝都からアレクシスの親書が届いた。
私は、疲れた心に差し込む一筋の光を期待して、震える手で封蝋を解いた。しかし、そこに記されていたのは、私の心を温める言葉ではなかった。
『状況を、可及的速やかに報告せよ』
ただ、それだけ。
羊皮紙を持つ手が、力なく落ちた。温かい言葉を、労いの言葉を期待していたわけではない。だが、そのあまりにも冷たく、事務的な命令は、不眠不休で戦う私の心を、鋭い氷の刃のように深く傷つけた。
(……そう。わたくしは、あなたの妃である前に、この計画の責任者……)
込み上げてくる寂しさと、ほんの少しの怒り。アレクシスの立場を理解しているつもりだった。しかし、疲労は私の心を、いつもよりずっと脆くしていた。
隣で、私の顔色の変化に気づいたフィンが、静かに声をかけた。
「……リディア様。少し、お休みになられた方がいい。顔色が、ひどく悪い」
「大丈夫です、フィン様。わたくしは……」
「大丈夫ではない」
彼は、私の手から羊皮紙をそっと取ると、その場にいた村の女性に温かい薬草茶を用意させた。そして、私の肩に、彼が羽織っていた暖かい外套をそっとかけてくれた。
「あなたは一人で戦っているのではありません。私も、村の皆も、ここにいる」
その静かで、しかし揺るぎない優しさが、私の張り詰めていた心の琴線に触れた。私は、必死にこらえていた涙が、頬を伝うのを止めることができなかった。
その光景を、窓の外の闇の中から、一人の男が静かに見つめていた。
アレクシスが、私の身辺警護のために密かに村へ派遣していた、腹心の騎士だった。彼の任務は、私の安全を守ること、そして、その動向を逐一皇帝に報告すること。
その夜、騎士が帝都へ送った報告書には、こう記されていた。
『リディア様、連日の研究により、心身ともに極度に疲弊しておられるご様子。今宵、フィン様の気遣いに、涙をお見せになられた。お二人の信頼関係は、極めて強固なものと拝察いたします』
その報告書を、アレクシスは執務室で一人、何度も読み返していた。
「状況を報告せよ」。あの冷たい命令は、彼が苦悩の末に絞り出した、私を案じる気持ちの裏返しだった。嫉妬と、皇帝としての立場が、彼の言葉を不器用に歪めてしまったのだ。
彼は、今すぐにでも北へ駆けつけ、自分の本当の気持ちを伝えたい衝動に駆られた。しかし、帝都ではジュリアン王子が虎視眈々と帝国の弱みを狙っている。皇帝として、動くことはできない。
騎士からの報告書が、彼の胸をさらに締め付ける。
フィンという、有能で、そして優しい男が、妃を支えている。
その事実は、彼の心を、深い後悔と、どうしようもない嫉妬の炎で焦がした。
「……リディア」
誰もいない執務室で、彼はただ、愛しい人の名を呟くことしかできなかった。
北の村と、遠い帝都。私たちの間に横たわる物理的な距離は、今、修復の難しい心の距離へと、静かに、そして確実に変わり始めていた。




