第四十四話:二つの戦線
帝都の私の執務室に、北の村から定期報告の書簡が届いた。羊皮紙を開くと、そこに描かれていたのは、風にそよぐ黄金色のロスマリン小麦の畑の、見事なスケッチだった。添えられたフィンからの手紙には、「これまでのところ生育は順調。今年の収穫は、帝国の食糧自給を確固たるものにするだろう」と、自信に満ちた言葉が綴られている。
「素晴らしいわ……」
その報告に、私の胸は温かい達成感で満たされた。私たちが蒔いた種が、確かに帝国の未来を育んでいる。
しかし、その穏やかな喜びが、冷水を浴びせられたかのように凍りつくことになるのを、私はまだ知らなかった。
その日の午後、北の村から、血相を変えた早馬の使者が駆け込んできたのだ。
「申し上げます! 北の小麦畑に、原因不明の病が……!」
使者がもたらした報告は、信じがたいものだった。
畑の一部から発生した黒い斑点が、まるで呪いのように、恐るべき速さで畑全体に広がっているという。穂は黒く変色し、枯れていく。それは、収穫を目前にした、帝国の生命線に対する、致命的な攻撃だった。
「……そんな、馬鹿な……」
私は、すぐさまフィンが送ってきた土壌のサンプルと、枯れた小麦の穂を調べ始めた。私の隣で、フィンから預かった詳細な報告書に目を通すアレクシスの顔も、為政者としての厳しいものに変わっている。
「自然発生した病害にしては、あまりにも進行が速すぎる。それに、この斑点の広がり方は……まるで、誰かが意図的に毒を撒いたかのようだわ」
私の分析に、アレクシスの紫紺の瞳が、鋭い光を帯びた。
「……ジュリアン、か」
偶然にしては、タイミングが良すぎる。私たちの脳裏に、あの甘美な笑顔の王子の顔が浮かんだ。しかし、確たる証拠はない。
私はすぐさま決断した。
「直ちに北へ向かいます。原因を特定し、対策を講じなければ、手遅れになる」
「わかった。帝都のことは私に任せろ。……リディア、くれぐれも無理はするな」
アレクシスの声には、私を案じる深い響きがあった。私は力強く頷くと、旅の準備のために足早に執務室を後にした。
私が慌ただしく北への旅の準備を進めている、まさにその裏で。
後宮の片隅では、もう一つの、より静かで、しかし悪質な攻撃が始まっていた。
イザベラは、かつての自分の侍女たちを巧みに呼び寄せ、茶会を開いていた。
「本当に心配だわ。リディア様は、あのように聡明な方なのに……」
彼女は、心から憂いているかのような表情で、ため息をついてみせる。
「最近は、ソラリスの王子様とばかりお親しくなさって。もちろん、それも帝国のためなのでしょうけれど、皇帝陛下がお一人で執務室にいらっしゃるお姿をお見かけすると、わたくし、胸が痛んでしまって……」
侍女たちは、元主人の言葉を、同情と共感を持って聞いている。
「それに、この度の小麦の病気……。ソラリスの使節団が来てから、このような不吉なことが起こるなんて。ただの偶然なのでしょうけれど、何だか気味が悪いわね。リディア様は、あの王子様に心酔なさっているご様子だし、万が一、帝国の情報が筒抜けになっていなければよいのだけれど……」
断定はしない。ただ、不安の種を、ほんの少しだけ心に植え付ける。真実と、悪意のある憶測を巧妙に織り交ぜたその言葉は、じわりじわりと侍女たちの間に浸透していった。
その日の夕方には、後宮の侍女たちの間で、こんな囁きが交わされるようになっていた。
「リディア様、最近お疲れのご様子よね……」
「ええ。皇帝陛下との間も、少し上手くいっていないとか……」
「北の畑の件も、ソラリスの王子様が関わっているのでは、なんて噂も……」
私が北へ旅立つ日。
見送りに来てくれたアンナとサラの笑顔が、どこかぎこちなく、その瞳の奥に小さな不安の影が揺れていることに、旅立ちの慌ただしさの中にいた私は、まだ気づくことができなかった。
一つの戦場へと向かう私の背後で、もう一つの、見えざる戦場の火蓋が、静かに切られようとしていた。




