第四十二話:皇帝の焦燥
歓迎の夜会が明けた翌朝、帝国の空気は、ソラリスの王子がもたらした南国の風のように、どこか浮き足立っていた。特に私の執務室では、昨夜の知的興奮の余韻がまだ残っていた。
「アレクシス、聞いたかしら。ソラリスでは、海水から真水を作る大規模な施設があるそうよ。賢者の書庫の蒸留技術を応用すれば、我が国の水不足の地域でも……」
朝の定例報告の席で、私が熱っぽく語りかけると、アレクシスは「ああ」と短い相槌を打ったきり、窓の外に視線を向けたまま黙り込んでしまった。その横顔は、いつになく険しく、近寄りがたい雰囲気をまとっている。
(どうしたのかしら……? 何か、国を揺るがすような悪い報せでも……)
私の懸念は、その日の午後、ジュリアン王子を交えた三国間の交易に関する会議の席で、全く別の形を取ることになる。
会議が始まると、ジュリアン王子はごく自然に、議論の中心に私を据えた。
「帝国の豊かな鉱物資源と、我が国の造船技術を組み合わせれば、素晴らしい交易船が作れるでしょう。……ところでリディア様、船底に付着する貝は、交易において長年の悩みです。何か、植物由来の解決策はございませんか?」
「まあ……! 賢者の書庫に、特定の樹液が海洋生物を寄せ付けないと記された古文書がございましたわ。もしかすると……」
話が弾む。しかし、その輪の中に、アレクシスはいない。彼は、まるで蚊帳の外に置かれたかのように、ただ黙って腕を組み、私たちのやり取りを厳しい目で見つめているだけだった。
時折、彼が「軍事転用についてはどうなのだ」「関税の問題が先決だろう」と、重々しく口を挟む。だが、その度にジュリアンは「ええ、陛下。それも、まずはこの素晴らしい船が完成してからの話ですな。リディア様、先ほどの樹液ですが……」と、巧みに議論を私の方へと引き戻してしまう。
その時、私はようやく気づいた。
アレクシスの不機嫌の原因は、国政の問題ではない。この、私とジュリアン王子が楽しげに語らう、この状況そのものにあるのだと。
会議が終わった後、私は溜まった書類を片付けるため、一人執務室に残っていた。
コン、コン。
控えめなノックの後、入ってきたのはアレクシスだった。その手には、見たこともないほど大輪の、深紅の花が一輪だけ握られている。
「……リディア。急ぎの用件だ」
「はい、何でしょう」
彼が差し出したのは、書類ではなく、その赤い花だった。
「南方の属州から、土壌改良が成功したとの報告と共に、これが献上された。……その、土壌の生産性の、見本だ。君の意見を聞きたい」
あまりにも不器用な口実。皇帝らしからぬ、しどろもどろの言葉。
私は驚きに目を見開いたが、すぐに込み上げてくる温かい感情に、思わず笑みがこぼれた。
「……素晴らしい花ですわね、アレクシス。ありがとうございます。後で詳しく調べさせていただきます」
私がその花を受け取ると、彼はどこかバツの悪そうな顔で、足早に部屋を去っていった。
その夜。私は、ジュリアン王子が話題にしていた塩害に強い植物について調べるため、大図書館を訪れた。
すると、書架の影から、待っていたかのようにジュリアン王子が姿を現した。その手には、まさしく私が探していた古文書が抱えられている。
「やはり、いらっしゃると信じておりました、リディア様」
「まあ、王子殿下……」
彼が古文書を広げ、熱心に説明を始めた、その時だった。
「――リディア!」
私たちの背後から、低く、そして有無を言わせぬ声が響いた。振り返ると、そこには腕を組み、仁王立ちになったアレクシスがいた。その手には、なぜか分厚い『帝国古代戦史』が握られている。
「今すぐ執務室に戻れ。この古代カタパルトの設計について、君の構造力学的な見解が、緊急に必要になった」
あまりにも不自然で、子供じみた、命令。
知的な会話に水を差された私は、さすがに少しむっとした。しかし、彼の紫紺の瞳の奥に、嵐のような感情が渦巻いているのを見て、はっと息を呑んだ。
これは、嫉妬だ。
帝国の絶対君主が見せる、初めての、剥き出しの独占欲。
「……承知いたしました、陛下」
私は、楽しげにこの光景を眺めているジュリアン王子に一礼すると、アレクシスの後を追った。




