第四話:芽生えと小さな波紋
あの日から、私たちの朝の日課が一つ増えた。
大図書館へ向かう前に、まずは畑の様子を見に行くのだ。
「妃様、今朝の土は少し乾いているようです。お水をもう少し多めにいたしましょうか」
「そうね。でも、あまり与えすぎても根が腐ってしまうわ。このくらいで様子を見ましょう」
アンナはすっかり頼もしい助手になっていた。最初は私の指示を待つばかりだった彼女も、今では自ら土の湿り具合を確かめ、雑草を見つけては手際よく抜き取るまでになっている。
二人で土と向き合う時間は穏やかで、私たちはいつしか主従の関係を超えた、同志のような絆で結ばれ始めていた。
私たちが畑の手入れを始めて数日も経つと、あれほど物珍しそうにこちらを眺めていた他の妃たちの視線は、ぴたりと止んだ。毎日続く地味で泥臭い作業に、すぐに興味を失ったのだろう。
「まだあんなことを続けているの?」
「放っておきましょう。どうせ何も育ちはしないわ」
時折聞こえてくるそんな声も、私たちにとっては心地よいBGMのようなものだった。無関心は、好都合。誰にも邪魔されず、自分たちのやるべきことに集中できるのだから。
しかし、全員が無関心というわけでもないようだった。
厨房で働く下働きの少女や、いつも大量の洗濯物を運んでいる侍女たちが、仕事の合間に遠くから、興味深そうに私たちの小さな畑を眺めていることに、私は気づいていた。彼女たちの瞳には、嘲笑の色はない。ただ、静かな好奇心だけが揺れていた。
そして、種を蒔いてから一週間が過ぎた、よく晴れた朝のことだった。
いつものように畑へ向かったアンナが、突然「妃様っ!」と裏返った声を上げた。何事かと私が駆け寄ると、彼女は震える指で地面の一点を指さしていた。
その指の先――黒い土の表面を懸命に押し上げて、小さな、しかし力強い緑色の双葉が、いくつも顔を出している。
「まあ……!」
思わず、息が漏れた。朝日を浴びて輝く、生命の息吹。それはどんな宝石よりも美しく、私の心を震わせた。
「芽が……! 妃様、芽が出ましたね!」
アンナは目に涙を浮かべ、私の手を取ってぶんぶんと振った。これまでの嘲笑も、慣れない肉体労働の疲れも、この小さな双葉がすべて吹き飛ばしてくれた。私たちは、まるで子どものように手を取り合って、そのささやかな奇跡の誕生を喜び合った。
ちょうどその時、一人の侍女が私たちの離宮のそばを通りかかった。アンナの同僚で、いつもやつれた顔で仕事に追われている女性だ。彼女は私たちの歓声に足を止め、訝しげにこちらに目を向けた。そして、信じられないものを見るかのように、目を見開いた。
彼女の視線の先にあるのは、小さな双葉と、身分も忘れて心から嬉しそうに笑い合う、最下位妃とその侍女の姿。
「あの荒れ地から、本当に……?」
呆然としたつぶやきが、風に乗って微かに私の耳に届いた。
その日の午後、部屋に戻ってもアンナの興奮は冷めやらなかった。
「すごいですね、妃様! 本当に芽が出るなんて!」
「ええ、順調よ。きっとここの土は、見かけによらず栄養があるのね」
私は窓の外の愛おしい畑を見ながら、満足げに微笑んだ。アンナの瞳は、未来への希望でキラキラと輝いている。
「この調子なら、来月の今頃には、毎日温かくて栄養のあるスープが飲めるようになるわ。とれたてのハーブをたっぷり入れた、特製のスープをね」
私の言葉に、アンナはごくりと喉を鳴らした。その味を想像しているのだろう。
後宮の片隅で芽吹いた小さな双葉は、私たちのささやかな日常を、そしておそらくは、この後宮そのものを、少しずつ変えていく。
そんな確かな予感を胸に、私は次のステップへと想いを馳せるのだった。




