第三十八話:豊穣の逆襲
建国記念祭典の朝。帝都は、祝祭の熱気に包まれていた。
中央広場は、皇帝のパレードを一目見ようと、大勢の民衆で埋め尽くされている。しかし、その群衆の中には、バルド・オルデンが放った扇動者たちが、毒蛇のように紛れ込んでいた。
式典が最高潮に達した、まさにその時だった。
市街の穀物倉庫の方角から、黒い煙が上がる。ほぼ同時に、群衆の中から声が上がった。
「火事だ! 穀物倉庫が燃えているぞ!」
「食料がなくなる! これから俺たちはどうなるんだ!」
不安は、炎のように瞬く間に広がり、祝祭の雰囲気は一転、パニックの寸前まで陥った。
だが、それこそが、私たちが待っていた合図だった。
私が広場の片隅に立つ塔の上から白いハンカチを振ると、広場の四方に控えていた巨大なテントが一斉にその幕を開いた。
「皆様、ご安心ください! 皇帝陛下より、建国記念の祝賀品でございます!」
女官長とアンナ、サラ、そして組合の仲間たちの凛とした声が、広場に響き渡る。
テントの中から現れたのは、湯気の立つ巨大な鍋と、山と積まれた香ばしいパンだった。
「北の地より届いた、恵みの小麦パンと、栄養満点の温かいスープです! どうぞ、お腹いっぱい召し上がれ!」
最初は戸惑っていた民衆も、その圧倒的な量と、食欲をそそる香りに、我先にと列をなした。一口パンを齧り、スープをすする。その顔に浮かぶのは、驚き、そして心からの安堵と喜びの表情だった。
不安は、一瞬にして歓喜の渦へと変わった。バルドが仕掛けた食糧パニックは、私たちの「豊穣の逆襲」の前に、完全に無力化されたのだ。
広場は、やがて割れんばかりの大歓声に包まれた。
「皇帝陛下、万歳!」
「賢者妃リディア様、万歳!」
――一方、その歓声が地響きとなって微かに届く、帝都の地下深く。
皇帝アレクシス率いる精鋭部隊は、私が特定した、古い下水道網の奥深くにある敵の拠点へと、静かに突入していた。
「な、何者だ!」
薄暗い地下空洞には、山と積まれた金貨や武器、そしてバルド・オルデンとその腹心たちがいた。彼らは、地上での成功の報せを待っていたはずが、予期せぬ奇襲に完全に不意を突かれた。
戦闘は、一瞬で決した。
皇帝自らが先陣を切り、その銀の剣が闇を切り裂く。彼の動きには、君主としての威厳だけでなく、帝国最強と謳われた武人としての苛烈さが宿っていた。
「ぐあっ!」
腹心たちが次々と倒れる中、バルドは恐怖に顔を引きつらせ、最後の悪あがきに走った。彼は、震える手で短剣を抜き、側にいた部下を人質に取ろうとする。
しかし、その腕が動くより速く、皇帝の剣が閃き、バルドの手から短剣を弾き飛ばしていた。
「……終わりだ、バルド」
喉元に冷たい切っ先を突きつけられ、バルドは力なく膝をついた。
その時、地上の大歓声が、ひときわ大きく地下にまで響いてきた。民衆が、自分たちの皇帝を称える声だ。
自分の計画が完全に失敗したことを悟り、バルドの顔から全ての光が消えた。
戦いは、終わった。
血と埃にまみれた皇帝が、地下から地上へと続く階段を上りきった時、彼を迎えたのは、帝都の民衆からの熱狂的な大歓声と、作戦を成功させ、穏やかな笑みを浮かべて彼を待つ、私の姿だった。
皇帝は、民衆の声に応えるように手を上げ、そして、ただ一人、私だけを見つめた。
私たちは、言葉を交わすまでもない。視線だけで、互いの健闘を讃え、そして共に帝国最大の危機を乗り越えたことを確かめ合った。
帝国の最も暗い一日が終わり、新しい時代の、本当の夜明けが訪れようとしていた。
私は、民衆の歓声に包まれるアレクシスを見ながら、そっと呟いた。
「さあ、帰りましょう。私たちの城へ」
その声は、祝祭の喧騒の中に、静かに溶けていった。




