第三十話:帝都への使者
「これを、陛下のお手元へ」
私は、北の村で集めた全ての証拠――村人たちの血涙とも言える証言録、何十年にもわたる被害の記録、そしてあの不気味な紫色に染まった川の水のサンプル――を、信頼できる衛兵の一人に託した。
添えた手紙には、こう記した。
『陛下。これが、北の民の涙の色にございます。この揺るぎなき真実を、まずは貴族院の中でも良識派として知られる方々に、陛下から「非公式に」ご覧いただくことは叶いましょうか。炎は、外堀から燃え上がらせるのが常道かと存じます』
これは、単なる報告ではない。帝国の腐敗という巨大な敵と戦うための、皇帝への具体的な戦略提案だった。
使者が帝都へと旅立った後、私たちはただ連絡を待っているだけではなかった。
フィンと村の職人たちは、賢者の書庫の設計図を元に、浄化装置の小さな試作品の製作に取り掛かった。私は村の女性たちと共に、汚染されていない上流の湧き水を引き、新たな共同菜園を作り始めた。
戦うことと、未来を築くこと。その両方を、私たちは決して諦めなかった。
一方、帝都では、私たちが放った小石が、大きな波紋を広げ始めていた。
私からの報告を受け取った皇帝アレクシスは、すぐさま行動を開始した。彼は、オルデン公爵とは距離を置く、清廉な貴族たちを密かに招き、北の村の惨状を示す証拠を見せたのだ。良識ある貴族たちは、帝国の繁栄の裏に隠された闇に言葉を失い、皇帝への支持を固めていった。
しかし、百の目を持つと言われるオルデン公爵の情報網は、その動きを即座に察知していた。
「……小娘が、嗅ぎ回っておるか」
財務卿の執務室で、オルデン公爵は静かに呟いた。彼は、すぐさま反撃の狼煙を上げた。そのやり方は、老獪で、陰湿だった。
まず、彼は財務卿の権限を乱用し、私の実家であるバーデン伯爵家に対し、不当に厳しい税務調査を開始させた。さらに、取引先の商会に圧力をかけ、バーデン伯爵家を経済的に孤立させようと図ったのだ。
同時に、帝都のサロンでは、こんな噂が囁かれ始めた。
「北の蛮族が、鉱山の利益に目がくらみ、陛下を唆して不当な要求を突きつけているそうだ」
「その手引きをしているのが、かのリディア妃。田舎者の分際で国政に口を出し、帝国を大いに混乱させている、とんだ悪女らしい」
その悪意は、確実に貴族社会へと浸透し始めていた。
だが、オルデン公爵には一つ、計算違いがあった。私の味方が、もはや皇帝だけではなかったことだ。
後宮では、女官長とサラが、自分たちの情報網――侍女たちの口コミネットワーク――を駆使し、噂に対抗していた。
「リディア様は、名誉も富も求めず、ただ虐げられた民のために戦ってくださっているのです!」
「その証拠に、私たちの暮らしは、リディア様のおかげでこんなにも豊かになりました!」
侍女たちの生の声は、どんなプロパガンダよりも強く、オルデン公爵の流した悪評を、内側から静かに打ち消していった。
そして、帝都での攻防が膠着し始めた頃、北の村にいる私の元へ、皇帝からの緊急の使者が駆け込んできた。
使者がもたらした手紙には、オルデン公爵の妨害が激化していること、そして、貴族院でこの鉱山問題を正式に議論する「特別公聴会」が、一週間後に開催されることになった、と記されていた。
そして、その最後は、皇帝自身の力強い筆跡で、こう締めくくられていた。
『リディア、お前の力が必要だ。すぐに帝都へ戻れ。オルデン公爵との最終決戦の舞台は、整った』
私は手紙を握りしめ、立ち上がった。
工房では、小さな浄化装置が、濁った水を透明な一滴に変えることに成功していた。菜園では、新しい命が芽吹き始めていた。
村人たちに「少し留守にしますが、必ず良い知らせを持って帰ります」と約束し、私はフィンと共に、帝都へ向かう馬に飛び乗った。
私がこの手で作り上げた、揺るぎない証拠と、未来へのささやかな希望。そして、帝都、後宮で私を信じて戦う仲間たち。
その全てを胸に、私は決戦の地、帝都へと向かった。
最大の敵との、最後の戦いのために。




