第三話:決意と、はじめの一歩
翌日、アンナは約束通り、小さな鋤と鍬をどこからか借りてきてくれた。庭師に頭を下げて、物置の隅で埃をかぶっていた古道具を譲ってもらったのだという。その顔には困惑と、「これからいったい何が始まるのだろう」という不安が色濃く浮かんでいた。
「ありがとう、アンナ。助かるわ」
私は礼を言うと、少しもためらわずにドレスの裾をたくし上げ、腰のあたりでぎゅっと結んだ。そして、荒れ放題の庭へと足を踏み入れる。
「妃様っ! そのようなお姿……!」
アンナの悲鳴に近い声が背後から聞こえるが、構ってはいられない。まずは、この硬くなった土を覆い尽くす雑草を抜くことからだ。私は鍬を手に取り、ぐっと力を込めて振り下ろした。
妃が自ら土をいじっている――その前代未聞の噂は、蝶よりも速く後宮の妃たちの間を駆け巡ったらしい。
昼前になる頃には、私たちの離宮が見える回廊に、何人かの着飾った妃たちが集まってきていた。彼女たちは扇で口元を隠しながら、遠巻きにこちらを見ては、くすくすと嘲笑の声を漏らしている。
「まあ、ご覧になって。あの方、とうとうおかしくなってしまわれたのではなくて?」
「バーデン伯爵家もお気の毒に。後宮に送った娘が、農婦のような真似をしているなんて」
聞こえてくる陰口に、私の隣に立つアンナは、恥ずかしさと申し訳なさで顔を真っ赤にして俯いてしまった。しかし、当の私はといえば、そんな雑音は少しも気にならなかった。
(土の状態は悪くないわ。少し石が多いけれど、根気よく取り除けば、良い畑になる)
故郷の父や兄たちに混じって畑仕事を手伝っていた頃を思い出す。汗を流して土と向き合うこの時間は、私にとって何より心が安らぐひとときだった。私はいつしか鼻歌交じりに、黙々と作業を続けていた。
「妃様……」
休憩のため木陰に入ったとき、アンナがおずおずと口を開いた。
「なぜ、このようなことを……。皆様が、妃様のことを笑っております。わたくし、悔しくて……」
「笑わせておけばいいわ」
私は水筒の水を一口飲み、きっぱりと言った。
「口先だけで何も生み出さない人たちの評価なんて、気にするだけ時間の無駄よ。それより、アンナ」
私は目の前の、少しだけ切り拓かれた地面を指さした。
「見て。この計画を」
そこからは、私の独壇場だった。
日当たりと風通しを計算し、どこに何を植えるか。痩せた土でも育ちやすいハーブの種類。私たちの食事に不足している栄養素を補うための根菜の選び方。そして、収穫した作物でどんな料理が作れるか。
私の言葉には、空想や願望ではなく、確かな知識に裏打ちされた自信があった。
「ここに植えるカモミールは、安眠効果のあるお茶になるわ。ミントは虫除けにもなるし、あなたのその肌荒れにも効く薬草よ」
「わたくしの、肌荒れ……?」
「気づいていないとでも思った? 毎日のように手を酷使しているあなたのための薬も、ここから生まれるのよ」
アンナが、はっと息を呑むのがわかった。
彼女は、私がただの気まぐれや奇行に走っているわけではないことを、ようやく理解してくれたようだった。私の計画は、このどうしようもない最下位の生活から抜け出すためのものではなく、この場所で、私たちの手で、ささやかでも確かな豊かさを築くためのものなのだと。
次の瞬間、アンナは私の前に進み出ると、深々と頭を下げた。
「妃様……! 愚かなわたくしをお許しください! どうか、わたくしにも、お手伝いさせてくださいませ!」
「もちろんよ」
私は顔を上げたアンナににっこりと微笑んだ。
「一人より二人の方が、ずっと早くて楽しいもの」
その日の午後は、二人での共同作業になった。
私が鍬で土を耕し、アンナが石を取り除く。最初はぎこちなかった彼女の手つきも、次第に様になっていった。主従という関係を忘れ、私たちはただ無心に汗を流した。
夕暮れ時、ようやく小さな畑と呼べるくらいの土地が完成した。
私は持参した荷物の中から、大切にしまっていた布の小袋をいくつか取り出す。中には、故郷の畑で採れた、とびきり上等な作物の種が入っていた。
二人で丁寧に種を蒔き、汲んできた水を優しくかける。
夕日に照らされた黒い土は、まるでこれから始まる物語を祝福するかのように、静かに輝いていた。
「あとは、芽吹くのを待つだけね」
私の言葉に、アンナは泥だらけの顔で、満面の笑みを浮かべて力強く頷いた。
後宮の片隅で、私たちの小さな革命が、今、静かに産声を上げた。




