第二十七話:北の村へ
後宮という華やかな鳥籠を出て、私たちが目の当たりにした帝国の姿は、想像以上に多様で、そして複雑だった。
帝都から北へ向かう馬上の日々。私の隣で馬を並べる皇帝アレクシスとの会話は、もはや後宮の噂話や人事ではなく、この国の地形や産業、そして道端で見かける民の暮らしそのものへと変わっていた。
「あの山の向こうは、鉄鉱石の産地だ。だが、輸送路の整備が遅れているせいで、帝都に届く頃には価格が三倍にも跳ね上がる」
「ならば、賢者の書庫にあった運河の設計図が応用できるかもしれませんわね。水運を使えば、コストは十分の一以下に……」
フィンは故郷の地理について生き生きと語り、アンナやサラは初めて見る雄大な北の景色に、感嘆の声を上げていた。私たちは、もはや単なる後宮の住人ではなく、この国そのものを学び、未来を考える、一つのチームとなっていた。
そして数日後、私たちは再び、フィン・グレイシアの故郷の村へとたどり着いた。
しかし、村の雰囲気は、私が前回訪れた時とはまるで違っていた。皇帝陛下自らのお成り。その知らせに、村人たちは家の戸口から、恐れと困惑が入り混じった表情で、私たちを遠巻きに眺めているだけだった。
私たちを迎えたのは、深い皺が刻まれた顔に、厳しいながらも理知的な光を宿した瞳を持つ、村の長老だった。
「皇帝陛下、ようこそお越しくださいました。このような寂れた村に、一体何の御用でございましょうか」
その歓迎の言葉には、棘があった。長年、帝国に見捨てられてきた者たちが抱く、深い不信の棘だ。
皇帝が改革計画の概要を説明しても、長老や集まった村人たちの表情は晴れない。権力者からの押し付けは、もうこりごりだ。その頑なな空気を、私は痛いほど感じていた。改革の最初の課題は、技術でも資源でもない。凍りついた彼らの「心」を溶かすことだ。
その夜、皇帝たちのために用意された立派な宿舎を断り、私はアンナとサラだけを連れて、村の古い集会所に滞在することを申し出た。そして翌朝早くから、村の女性たちに混じって、井戸で水を汲み、食事の準備を手伝い始めた。
「妃様が、なぜこのような……」
戸惑う村人たちに、私は笑顔で言った。
「私は、皆さんと一緒に、この村を良くするためのお手伝いに来た、ただのリディアです。まずは、皆さんの暮らしを知ることから始めさせてください」
私のその行動は、村人たちの間に小さな波紋を広げた。
そして三日目の朝、村の長老が、自ら私の元を訪ねてきた。
「……リディア様。そこまでおっしゃるのであれば、まずはお見せせねばなりますまい。この土地が抱える、本当の呪いを」
長老に案内され、私と皇帝、そしてフィンが向かったのは、村の北側を流れる川だった。かつては村の命の源だったというその川は、しかし、今は淀み、その水は生気のない鉛色に濁っていた。川岸の木々は枯れ、周囲の土地は痩せ細り、作物が育ちそうにない。
「先々代の陛下の御代……グレイシア家が宮廷を追われたのと、ほぼ時を同じくして、この川は命の水を運ばなくなりました。以来、我らの土地は、こうしてゆっくりと死につつあるのです」
長老の言葉に、フィンが息を呑む。
村の衰退は、単なる政治的な没落だけが原因ではなかったのだ。この土地そのものを蝕む、より根深い問題が隠されている。
私は濁った川の流れをじっと見つめた。その上流には、鬱蒼とした森と、険しい山々が連なっている。
「長老、この川の上流には、何があるのですか?」
「……さあ。昔は豊かな森が広がっていましたが、帝国直轄の鉱山ができてからは、誰も近づきませぬ」
鉱山。その言葉が、私の胸に鋭く突き刺さった。
氷室の閉鎖。グレイシア家の追放。そして、川の汚染。
バラバラに見えた点と点が、今、一つの線を結ぼうとしている。
北の地で私たちを待ち受けていた最初の試練は、帝国の繁栄の影に隠された、深い闇の謎を解き明かすことだった。




