第二十六話:新しい礎
『建国の夜』から、数週間が過ぎた。
あの日を境に、後宮の空気は完全に様変わりした。私の呼び名は、いつしか「最下位妃」から「賢者妃」、あるいは敬意を込めて「宰相妃」と呼ばれるようになり、誰もが私に敬意を払うようになった。
あれほど私を敵視していた上位妃たちは、今や完全に沈黙している。中には、自分の領地で起こっている干ばつの問題を解決できないかと、侍女を通じて相談を持ちかけてくる者まで現れる始末だった。
私たちの『後宮生活改善組合』は、女官長の後ろ盾のもと、後宮の運営を支える公式な組織として認められた。アンナとサラは、女官長の下で見習い女官長としての役職を与えられ、今では後輩の侍女たちを立派に指導している。
そして、私の執務室は、今や『帝国復興計画準備室』とでも呼ぶべき、帝国で最も熱気に満ちた場所となっていた。
壁には帝国全土の地図が広げられ、『賢者の書庫』から持ち出された古文書や設計図が、テーブルの上に山と積まれている。
「この古文書によれば、耐寒性に優れた小麦の原種があったようです。これなら北の土地でも栽培できるやもしれません!」
「うむ、しかし土壌の改良が不可欠だな。まずは堆肥の作り方から見直そう」
私の隣では、技術顧問として帝都に呼び寄せられた父が、目を輝かせながら古代の農政記録を読み解いている。
別のテーブルでは、フィン・グレイシアが、氷室の冷房システムを応用した新しい灌漑設備の設計図を、衛兵用の厨房長(今や建築チームのリーダーだ)と議論している。
私たちの活動は、もはや後宮の小さな改善ではなく、帝国の未来を左右する、巨大なプロジェクトへと発展していた。
「楽しそうだな、リディア」
その輪の中に、今や何の違和感もなく加わっているのは、皇帝アレクシスの姿だった。彼は多忙な政務の合間を縫っては、この準備室を訪れ、私たちと対等な立場で議論を交わすのが日課となっていた。
「陛下。北の痩せた土地には、この書庫にあった『ロスマリン小麦』の栽培が適しているかと」
「うむ。……いや、リディア。ここでは『陛下』はやめよう。アレクシスと呼んでくれ。君は、もはや私の妃である前に、帝国にとって不可欠なパートナーなのだから」
彼の紫紺の瞳に映るのは、私への絶対的な信頼。それは、恋人同士の甘いものではなく、共通の夢を見る、唯一無二の同志に向ける眼差しだった。
ある日の仕事終わり、父と二人きりで帝都の夜景を眺めていた時、彼は昔を懐かしむように、ぽつりと呟いた。
「リディア……お前が昔、口癖のように言っていたのを覚えているか。『いつか、この国で一番大きな畑を耕してみたい』と。まさか、お前の畑が、この帝国そのものになるとはな」
父のその言葉に、私の胸は熱くなった。
そうだ、私の原点は、今も昔も変わらない。土を耕し、種を蒔き、人々の笑顔という収穫を得る。ただ、その畑が、少しだけ大きくなっただけだ。
そして、私たちの最初の、そして最大のプロジェクトが決定した。
『北の辺境地域における、農業・水利モデル地区化計画』。
その対象地域は、言うまでもなく、フィン・グレイシアの故郷の村だった。
「私も行こう」
会議の席で、皇帝アレクシスが静かに、しかし力強く宣言した。
「帝国の再生は、最も虐げられ、忘れられてきた土地から始めるべきだ。私は、その始まりを、この目で見届ける」
その言葉に、反対する者は誰もいなかった。
数日後、私たちは後宮の壮麗な門を、今度は内側から外へとくぐった。
私と、皇帝アレクシス。フィン、アンナ、サラ、そして各分野の専門家となった、頼もしい仲間たち。
私たちの行く先は、もはや後宮の小さな庭ではない。帝国全土という、広大な大地だ。
私は馬上で、後宮を振り返り、そして未来を見据えた。
(私の最初の仕事は、小さな庭を耕すことだった。そして今、私の畑は、この帝国そのものになったのだ)
帝国の片隅、最下位の妃から始まった私の物語は、一つの終わりを告げ、そして今、帝国そのものの未来を耕す、新しい物語の幕を開けた。




