第二十五話:建国の夜
建国の夜、後宮は静かな、しかし熱のこもった興奮に包まれていた。
侍女たちは仕事の手を休め、誰もが固唾を飲んで、地下深くで行われるであろう歴史的瞬間に想いを馳せている。
そして、その舞台である謎の扉の前には、帝国の未来を担う者たちが集結していた。
私と、フィン、アンナ、サラ、そして厨房長。
さらに、この歴史の証人となるべく、皇帝アレクシス自らが、女官長を伴ってそこに立っていた。
ランタンの灯りが揺れ、壁に私たちの巨大な影が踊る。厳かで、神秘的な空気が場を支配していた。
「時間だ」
フィンが、持参した天球儀と古い星図を床に広げた。
「古文書によれば、『星々が天秤を支えし時』とは、建国が宣言された、まさにその瞬間の星の配置を指す。……そして、それが今だ」
彼の言葉と共に、私たちは天を仰いだ。もちろん、分厚い岩盤に阻まれて本物の星空は見えない。だが、私たちの頭上遥か、帝都の夜空では、数百年ぶりに、星々が建国の日と全く同じ位置についているはずだった。
「残るは、『賢者の言葉』……」
皇帝が、ごくりと喉を鳴らす。
全ての視線が、私一人に注がれる。私はゆっくりと一歩前に進み出た。
「陛下。わたくしが数多の古文書を読み解いた末にたどり着いた『賢者の言葉』。それは、武勲を称える勇ましい言葉ではございませんでした」
私は、扉にそっと手を触れた。ひんやりとした石の感触が、私の決意を固めてくれる。
「初代皇帝陛下が最も大切になさったのは、民の暮らし。ある農政記録の片隅に、その理念は記されておりました。我が礎は――」
私は息を吸い込み、澄んだ声で、その言葉を紡いだ。
「――我が礎は、民のパンと、平和な眠りの中にあり」
その言葉が、静かな地下広間に響き渡った瞬間だった。
ゴゴゴゴゴ……!!!
地響きのような、低い唸り声。私たちが触れていた石の扉が、ゆっくりと、しかし確実に内側へと沈み込み始めたのだ。数百年もの間閉ざされていた封印が解かれ、古代の空気が、私たちの頬を撫でる。
やがて完全に開かれた扉の向こうに広がっていたのは、私たちの想像を絶する光景だった。
そこは、埃っぽいが、完璧な状態で保存された、巨大な書庫だった。壁一面の書架には、金銀財宝ではない、羊皮紙の巻物や革張りの書物が、整然と並べられている。
農業技術、治水工事の設計図、薬草学の体系的な記録、そして、帝国法の草案。それらは全て、この帝国を豊かにするための「知恵」そのものだった。
そして、広間の最も奥の壁には、初代皇帝の言葉が力強く刻まれていた。
『叡智は力に勝り、民を富ます』
「おお……」
皇帝アレクシスが、感嘆の声を漏らした。
「私は……我が偉大なる祖先の、本当の想いを、今まで理解していなかったのかもしれん……」
彼の瞳には、深い感動と、為政者としての新たな決意の光が宿っていた。女官長は、その後ろで静かに涙を拭っている。
私は、目の前の光景に、畏敬の念で打ち震えていた。私が信じてきたこと、やってきたことの全てが、この帝国の始まりの理念と、確かに繋がっていたのだ。
その時、皇帝が私に向き直り、その場で新たな勅命を下した。
その声は、後宮の地下深くに、そして帝国の歴史に、力強く刻まれた。
「リディア・バーデン、及び『後宮環境改善計画・特別作業班』に命ずる! この『賢者の書庫』に眠る叡智を解読し、帝国全土の民のために役立てよ! これは、私と、そして初代皇帝陛下からの、願いである!」
私たちの使命は、もはや後宮の中だけにとどまらなくなった。帝国の未来そのものを、この手で築いていくのだ。
皇帝は、壇上から降りるように私の前に立つと、そっと私の手を取った。
「お前の言う通りだったな、リディア。国の礎とは、足元にある、ささやかな幸せの積み重ねだ」
彼の紫紺の瞳が、真っ直ぐに私を見つめる。
「これからも、私の隣で、その景色を、私に見せてはくれぬか」
それは、命令でも、願いでもない。公私にわたる、対等なパートナーとしての、誠実な申し出だった。
私は、その手を取り返し、力強く頷いた。
後宮の片隅、最下位の妃から始まった私の物語は、今、帝国の未来を紡ぐ、壮大な物語へとその姿を変えようとしていた。




