第二十話:氷涙の洞窟
フィンに導かれ、私たちが足を踏み入れた『氷涙の洞窟』は、まさに自然が作り出した氷の神殿だった。
壁一面が分厚い氷で覆われ、ロウソクの灯りを乱反射して、まるで無数の宝石をちりばめたかのようにキラキラと輝いている。天井からは、巨大なシャンデリアのような氷柱が下がり、足元は鏡のように磨かれた氷の床がどこまでも続いていた。
「お気をつけください、妃様!」
アンナが私の腕を取るが、その声も、この神秘的な空間では囁きのように小さく聞こえる。
「私が氷を運びます。妃様が危険を冒される必要はございません」
護衛の騎士が剣の柄に手をかけて進み出たが、私はそれを手で制した。
「いいえ。これは、私に課せられた試練ですわ」
フィンは何も言わず、ただその冷たい瞳で私の覚悟を測っている。私は一歩一歩、慎重に、しかし迷いなく洞窟の奥へと進んでいった。
洞窟の最深部は、広間のように開けていた。そして、その中央に、それはあった。
月からこぼれ落ちた光をそのまま凍らせたかのような、巨大な『万年氷』の塊。内側から青白い光を放ち、神々しいまでの存在感を漂わせている。
これを、どうやって切り出し、運ぶか。
騎士であれば、剣の柄で叩き割り、力ずくで欠片を運ぶだろう。しかし、それではこの神聖な氷を傷つけるだけだ。フィンが試しているのは、腕力ではない。知恵と、この氷に対する敬意だ。
私は周囲を注意深く観察した。
冷気に満ちた洞窟の中で、一箇所だけ、ごく微かに温度の高い場所がある。見上げると、天井の岩盤の裂け目から、凍ることのない地下水が、数秒に一滴、ぽたり、ぽたりと滴り落ちていた。
そして、万年氷の表面。巨大な一つの塊に見えるが、よく見れば、無数の氷の結晶が寄り集まって形成されており、その継ぎ目に、髪の毛のように細い亀裂が走っている。
(……見つけたわ)
私は持参していた革の水筒を取り出した。中身は、体を温めるためにアンナが用意してくれた、まだ温かいお湯だ。
私はそのお湯を手のひらに少しだけ注ぐと、天井から滴り落ちる地下水の真下、氷の床の上にそっと垂らした。温かいお湯は、一瞬で凍りつき、小さな氷の突起を作る。そこへ、また一滴、天井からの雫が落ち、凍りつく。これを繰り返すことで、雫の落ちる角度を、ほんの少しだけ、私が狙う万年氷の亀裂の真上へと誘導したのだ。
ぽちゃん。
雫が、万年氷の亀裂の一点に正確に落ち始めた。
一つの雫の力は小さい。だが、同じ場所に、絶え間なく落ち続ける水の力は、いずれ岩をも穿つ。
しばらくの静寂の後、ピシッ、という鋭い音が洞窟に響いた。
亀裂が、わずかに広がったのだ。
ピシ、ピシッ、ミシリ……。
音は次第に大きくなり、やがて、大きな音を立てて、万年氷の表面から、ちょうど人が抱えられるくらいの大きさの、美しい氷の板が、滑り落ちるようにして剥がれた。
「……力には知恵で。それが、私の父の教えですわ」
呆然と立ち尽くすフィンの前で、私はその氷のかけらを丁寧に布で包み、ゆっくりと抱え上げた。
洞窟から戻る道すがら、フィンは初めて、自らのこと、そして一族のことを語ってくれた。帝国に裏切られた深い傷と、先祖代々の技術を失わせてしまったという自責の念。彼の冷たい態度の下には、熱い誇りと、深い悲しみが凍りついていたのだ。
夜明け前、私たちは無事に、青白く輝く万年氷のかけらを屋敷へと持ち帰った。
フィンは、その氷の前に静かに膝をつくと、私に向かって深く頭を下げた。
「……参りました。リディア・バーデン様。あなた方は、ただ試練を超えたのではない。我らが一族の、凍りついた心を溶かしてくださった」
彼は顔を上げ、その瞳には、もはや冷たさではなく、確かな信頼の光が宿っていた。
「我らグレイシア家は、一族の誇りを賭けて、あなたの計画に協力することを、ここに誓いましょう」
こうして、私の計画の最も重要なピースが、ついに手に入った。
帝都へ戻る日の朝、フィンは私たちを村の一角へと案内した。そこには、氷室の技術を応用した、夏でも食料を冷たく保つことができる、小さな『天然の冷蔵庫』があった。村人たちの暮らしの中に、偉大な技術の片鱗が、今もひっそりと息づいていたのだ。
(この村も、豊かにしなければ……)
私の計画は、もはや後宮の中だけのものではなくなっていた。帝国の片隅で忘れ去られた村の再生もまた、私が成し遂げるべき、大切な使命となっていた。
氷の一族という頼もしい仲間を得て、私たちの挑戦は、新たな次元へと進もうとしていた。




