第二話:最下位妃の日常
大図書館は、私の想像を遥かに超える場所だった。
吹き抜けの高い天井まで続く書架には、びっしりと本が詰め込まれている。古書の放つ独特のインクと羊皮紙の香りが、私の肺を心地よく満たした。
「すごい……」
思わず感嘆の声を漏らす私に、侍女のアンナは「妃様、お声が……」と心配そうに眉をひそめている。彼女の心配をよそに、私は書架から一冊を抜き取り、その重みを確かめるように手に持った。
『帝国南部における輪作農法の変遷』
ああ、なんて甘美な響き。一日中でもここにいられるわ。
しかし、私の高揚感は、司書を務める初老の男性の一言で、冷や水を浴びせられることになった。
「そちらの新人妃様。恐れ入りますが、皆様が立ち入れるのは、あちらの第一閲覧室のみとなっております」
「え?」
「専門書庫への立ち入り、および図書の貸し出しには、皇帝陛下の特別な許可が必要となりますので、ご承知おきを」
にこやかだが、有無を言わせぬ口調。つまり、私が本当に読みたい専門的な書物のほとんどは、今の私には手の届かない場所にあるということだ。
(やはり、一筋縄ではいかないわね……)
まあ、いいわ。まずはこの閲覧室にある本を全て読破することから始めましょう。幸い、時間はたっぷりとあるのだから。
私はそう気を取り直し、昼過ぎまで読書に没頭してから、自分の離宮へと戻った。
部屋に戻ると、ちょうど昼食が運ばれてきたところだった。
しかし、テーブルの上に置かれた質素な木のトレーを見て、私は思わず眉をひそめた。
申し訳程度の野菜が浮かぶ水っぽいスープ。硬くなってしまった黒パンが二切れ。そして、指先ほどの大きさの干し肉が一切れ。
「申し訳ありません、妃様……。Fランクの妃様には、こちらのお食事でして……」
アンナが、自分のことのように俯いて謝罪する。
後宮の厨房では、まず上位の妃たちの豪華な食事が作られ、その残り物や質の落ちる食材で下位の妃たちの食事が作られるのだという。当然、私たちの元に届く頃には、料理はすっかり冷え切ってしまっていた。
「気にしないで、アンナ。いただけるだけありがたいわ」
私はそう言って席に着き、文句一つ言わずにスープを口に運んだ。味はしないが、水分補給にはなる。黒パンはよく噛めば満腹感の助けになるだろう。
しかし、問題は栄養価だ。
(タンパク質と脂質が決定的に不足している。ビタミンもほとんど期待できないわね……)
私一人が耐えるだけならまだしも、働き盛りのアンナが毎日こんな食事では、いずれ体を壊してしまう。そう思って彼女に目をやると、やはり顔色が悪く、心なしか痩せているように見えた。
「アンナは、ここの生活は長いのかしら?」
食事を終えた後、私が尋ねると、アンナは少し驚いたように顔を上げた。
「わたくしですか……? はい、侍女として働き始めて、三年になります。ですが、妃様付きになったのは初めてで……その、至らないことばかりで申し訳ありません」
彼女は下級貴族の家の出身で、家族を助けるために後宮へ上がってきたのだという。その瞳には、この厳しい後宮で生き抜いていかなければならないという、切実な不安が滲んでいた。
「あなたはよくやってくれているわ。ありがとう」
「そ、そんな……もったいないお言葉です……」
私の率直な感謝の言葉に、アンナは頬を赤らめて戸惑っている。
私はそんな彼女に、優しく、しかし真剣な眼差しで告げた。
「だからこそ、あなたに倒れられては私が困るの。私のためにも、健康でいてちょうだい」
その言葉は、アンナの心に届いたようだった。彼女は大きく目を見開いた後、こわばっていた肩の力を、ほんの少しだけ抜いた。
私は席を立ち、部屋の窓から外を見下ろした。
私たちの離宮に与えられた、小さな庭。今は雑草が生い茂り、誰にも手入れされず、ただ荒れるに任されている。
他の妃たちにとっては、無価値で、見るに堪えない土地だろう。
けれど、私の目には、その土地が輝く宝の山に見えていた。
土の色、日当たり、風通し。私の頭の中で、父が叩き込んでくれた農業の知識が高速で回転する。
(大丈夫。ここなら、できるわ)
私はくるりと振り返り、きょとんとしているアンナに言った。
「アンナ、少し土をいじる道具を借りてきてくれるかしら。小さな鋤と、鍬があればいいわ」
「え……? つ、土、でございますか……? いったい何を……?」
「決まっているでしょう?」
私は窓の外の荒れた庭を指さし、にっこりと微笑んだ。
「まずは、毎日美味しいスープを飲むことから始めましょう」




