第十九話:氷の一族
後宮を出る、と私が告げた時、一番に反対したのは女官長だった。
「妃の身で、帝都の外へ、しかも北の辺境へなど……前代未聞です! 許しかねます!」
しかし、皇帝陛下の勅命という絶対的な切り札の前では、彼女も引き下がるしかなかった。
こうして私は、皇帝が手配した最低限の護衛と、心配でたまらないという顔でついてきたアンナを伴い、北の山脈を目指すという、異例の旅に出た。後宮の運営は、信頼できるサラと、不承不承ながらも協力してくれる女官長に託して。
数日間の馬車の旅の末、私たちがたどり着いたのは、地図からも忘れ去られたような、寂れた小さな村だった。かつては帝都へ氷を納めることで栄えたというその村は、今は活気を失い、よそ者である私たちに、村人たちは冷たく、そして警戒に満ちた視線を向ける。
村の一番奥に、その屋敷はあった。
かつての栄華を偲ばせる壮麗な造りだが、今は壁の漆喰は剥がれ、庭は荒れ放題。忘れられた貴族、『グレイシア家』の邸だ。
私たちを迎えたのは、若き当主だという一人の青年だった。
雪のように白い肌と、氷筍のように鋭く、そして冷たい眼差しを持つ銀髪の青年。彼は、フィン・グレイシアと名乗った。
「帝都から、何の用だ。我々はもう、あちらとは何の関わりもないはずだが」
彼の声は、冬の風のように冷ややかだった。
私たちが皇帝陛下の名代であることを告げても、彼の態度は変わらない。それどころか、その瞳には深い不信と、侮蔑の色さえ浮かんだ。
「失われた技術だと? 知らぬな。先々代の陛下が、我らが一族の技を『時代遅れのまじない』と断じ、宮廷から追放なさったのではなかったか。帝国に見捨てられた我らに、今更何を求めると言うのだ」
彼の言葉には、裏切られた者の、深い絶望がこもっていた。
私は、皇帝の権威を振りかざすことが、ここでは何の意味もなさないことを悟った。
「フィン様。あなた方の一族の技術は、断じて時代遅れのまじないなどではございません」
私は懐から、大図書館で見つけ出した、あの古い設計図を広げた。
「これは、帝国が、そしてあなた方のご先祖が作り上げた、偉大な遺産です。私は、これをただ復活させたいだけではない。この技術が持つ真の価値を、それを否定したこの帝国に、改めて知らしめたいのです」
設計図に描かれた、壮大な自然の冷房システム。それは、フィンにとっても初めて見るものだったのだろう。彼の冷たい瞳が、驚きに揺れた。
「これは……」
「後宮の、ひいては帝国の未来を守るための計画です。もし、あなた方のお力をお貸しいただけるのなら、私は皇帝陛下に、グレイシア家の名誉回復と、その偉大な技術に見合う正当な地位をお約束させましょう」
権威による命令ではない。共通の目的を達成するための、対等なパートナーとしての提案。
私の真摯な言葉と、設計図に描かれた先祖の偉業を前に、フィンの頑なだった心が、わずかに揺らぎ始めるのがわかった。
彼はしばらくの間、設計図と私の顔を交互に見ていたが、やがて顔を上げ、私にこう告げた。
「……言葉だけでは、信じることはできん」
「では、どうすれば?」
「一つ、あなた方の覚悟を試させてもらいたい」
その夜、フィンは私とアンナ、そして護衛の騎士一人だけを連れ、山の奥深くへと案内した。
月明かりの下、彼が指し示したのは、洞窟の入り口から青白い光が漏れ出す、神秘的な場所だった。
「ここは、我らが一族の聖地、『氷涙の洞窟』。この奥には、夏でも決して溶けることのない『万年氷』が眠っている」
彼は、氷のように冷たい瞳で、私をまっすぐに見据えた。
「もしあなたが、そのひとかけらを、自らの手で朝日が昇るまでに持ち帰ることができたなら……その時は、あなた方を信じ、力を貸すことを考えよう」
それは、ただの試練ではない。忘れられた一族が、帝国からの使者に課した、誇りを賭けた儀式だった。
私は、その挑戦的な申し出を、少しも臆することなく、静かに受け入れた。




