第十一話:勅命と最初の波紋
皇帝が嵐のように去った後、私たちの工房は、水を打ったように静まり返っていた。
その沈黙を破ったのは、アンナの震える声だった。
「妃様……。本当に、大丈夫なのでしょうか……? 後宮全体の、改革なんて……」
「私たちに、そんな大役が務まるのでしょうか……」
サラも不安げに続く。他のメンバーたちも、事の重大さに顔を青くしている。無理もない。昨日まで最下位の離宮で細々と暮らしていた私たちが、一夜にして後宮全体の運命を左右する立場になったのだ。
私はそんな仲間たちの顔をゆっくりと見渡し、落ち着いた声で言った。
「何も変わらないわ。難しく考えることはないの」
「しかし……!」
「やることは同じよ。私たちの手で、私たちの生活を、少しずつ良くしていく。昨日より今日が、ほんの少しだけ豊かになるように。規模が後宮全体に広がった。ただ、それだけのこと」
私は焼きあがったばかりのクッキーを一つ手に取り、にっこりと微笑んだ。
「私たちの美味しいスープとクッキーを、後宮で働くすべての人に届ける。まずは、そこから始めましょう」
私の単純明快な言葉は、仲間たちの不安をいくらか和らげたようだった。彼女たちの顔に、微かながらも覚悟の光が戻ってきた。
翌朝、後宮は文字通り、ひっくり返るような大騒ぎとなった。
中央広場の掲示板に、皇帝陛下の署名が入った一枚の布告――勅命が張り出されたのだ。
『後宮環境改善計画の発足、及びその総責任者として、Fランク妃リディア・バーデンを任命する』
その一文は、後宮の隅々にまで、凄まじい衝撃となって駆け巡った。
「あのスープの妃様が?!」
「私たちの生活も、少しは良くなるのかしら……」
多くの侍女たちが驚きと共に、かすかな期待の声を上げる一方、これまで私たちを嘲笑していた妃たちの反応は、全く違っていた。
「なぜ最下位の女が……!」
「今のうちに、あの組合とやらに媚を売っておいた方がよろしいのかしら……」
そして、Sランク妃たちの豪華な宮では、怒りと屈辱に満ちた声が上がっていた。
「陛下は一体何をお考えなの!?」
「Fランクの妃に、この伝統ある後宮の何がわかると言うの!?」
新たな敵意の炎が、後宮の至る所で燃え上がり始めていた。
そして、後宮の秩序を司る女官長は、掲示板の前で腕を組み、苦虫を噛み潰したような顔で呟いていた。
「陛下のご乱心か……いや。あの娘、何かある……」
そんな後宮の騒ぎを、私は別世界の出来事のように感じていた。
勅命と共に、私には計画の拠点として、大図書館に隣接する立派な執務室が与えられた。山のように積まれた資料は、後宮全体の予算、物資の流れ、各部署の人員配置など、これまで私が喉から手が出るほど欲しかった情報ばかりだ。
「すごい……。最高の遊び場だわ……!」
私の瞳は、好奇心と知的な興奮で輝いていた。アンナとサラが呆気にとられるのをよそに、私は早速資料を読み解き、改革の第一歩をどこから始めるべきか、思考の海に深く沈んでいった。
コン、コン。
その時、執務室の扉をノックする音が響いた。
アンナが扉を開けると、そこに立っていたのは、鉄の仮面を被ったかのように無表情な、あの女官長だった。彼女の鋭い目が、私を値踏みするように射抜く。
「リディア・バーデン様にお目にかかりたく、参上いたしました」
その声は、丁寧でありながら、刃物のような冷ややかさを帯びていた。
「勅命について、いくつかお話を伺わせていただきたくてね。……総責任者殿?」
皮肉のこもった最後の呼び名が、静かな執務室に響き渡る。
私の穏やかな日常は、終わりを告げた。そして、本当の戦いが、今、始まろうとしていた。




