第十話:妃の答えと皇帝の提案
「お前は、この後宮を……ひいては、この国を、どうしたい?」
皇帝アレクシスの問いは、静かな工房に重く響き渡った。アンナやサラたちは息を呑み、侍女であることを忘れて、固唾を飲んで私を見守っている。それは、私の運命だけでなく、この場にいる全員の未来を左右するかもしれない、あまりにも大きな問いだった。
しばしの沈黙の後、私は静かに口を開いた。
「陛下。わたくしに、国をどうこうするような大それた考えはございません」
その答えに、皇帝の瞳に微かな失望の色が浮かんだのを、私は見逃さなかった。私は構わず、言葉を続ける。
「ですが」
私は、工房の窓から見える、私たちの小さな畑に目を向けた。
「わたくしは、目の前の人が、自分の手で作った温かいスープを飲んで、心から『おいしい』と笑ってくれるのを見るのが好きです。昨日より今日、今日より明日が、ほんの少しだけ豊かになる。その確かな手触りのある喜びを、皆で分かち合うのが好きです」
そして、私は再び皇帝へと向き直る。
「壮大な改革は、時に多くのものを取りこぼします。けれど、足元にある小さな幸せを一つひとつ拾い集め、積み重ねていけば、それはいつか、天にも届くほどの大きな豊かさになる。わたくしは、そう信じております。陛下が天空から国全体を見渡す方なのだとすれば、わたくしは地面に膝をつき、土に触れる者。見える景色が、ただ違うだけのことですわ」
私の答えに、今度は皇帝が息を呑む番だった。
彼が期待していたのは、野心的な戦略や、壮麗な理想論だったのかもしれない。だが、私が提示したのは、どこまでも現実的で、地に足のついた哲学だった。
彼はしばらく黙って私を見つめていたが、やがて、その表情がゆっくりと変化していく。君主としての厳しい仮面がはがれ、一人の優れた為政者としての、深い感嘆と理解の光がその瞳に宿った。
「……お前の答え、気に入った」
皇帝は大きく一つ頷くと、きっぱりと宣言した。
「よかろう。お前の望み、叶えてやる。これより、リディア・バーデンに大図書館の全書庫への自由な立ち入りを許可する」
「まあ……!」
思わず、喜びの声が漏れた。アンナたちも、自分のことのように顔を輝かせている。
しかし、皇帝の言葉はまだ続いていた。
「ただし、条件がある」
彼の紫紺の瞳が、挑戦的な光を帯びる。
「お前のその活動……『後宮生活改善組合』とやらを、後宮全体で公式に実施してみせろ。これは勅命だ。お前を、この『後宮環境改善計画』の総責任者に任命する」
「そ、そんな……!」
今度こそ、アンナたちが悲鳴に近い声を上げた。最下位妃が、後宮全体の改革を担う? まさに前代未聞、ありえないことだ。
だが、皇帝はそんな私たちの動揺を意にも介さず、私だけに問いかける。
「できるか、リディア・バーデン。お前の言う『小さな幸せの積み重ね』が、この淀んだ後宮全体を変えられると、証明できるか?」
それは、あまりにも巨大な試練。しかし同時に、私の知識と能力を存分に試すことができる、またとない機会でもあった。
私の答えは、もう決まっていた。
私は背筋を伸ばし、目の前の若き皇帝をまっすぐに見据え、臣下の礼をとる。
「謹んで、お受けいたします。陛下」
私の瞳には、これから始まるであろう困難な挑戦への、確かな覚悟と喜びの光が宿っていた。
皇帝アレクシスは、その答えに満足げに微笑むと、踵を返し、風のように去っていった。
嵐が過ぎ去った工房で、呆然とする仲間たちの中で、私だけが冷静に未来を見据えていた。
「さあ、みんな」
私は仲間たちに振り返り、悪戯っぽく笑ってみせる。
「仕事が、たくさん増えたわよ」
後宮の片隅で産声を上げた私たちのささやかな革命は、今、皇帝陛下という最大の支援者(あるいは、最も厄介な依頼主)を得て、新しい章の幕を開けようとしていた。




