夕焼けの後ろ姿
忘れられない光景というものがある。いや、頭について離れない、と言うべきか。
私にとってそれは夕焼けだ。
確か、夏の終わりだった。燃えるような夕焼けの中、二人の後ろ姿が見える。その頃の私はまだ小学校に上がるか上がらないかの小さな子供で、ただ二人を呆然と見ている。
一人は三十歳くらいの大人の女で、もう一人の手を引いている。引かれているもう一人は私と同じくらいの歳の男の子で、……と言うより私はその子供を知っていた。
あれは私自身だ。
私はここで二人を見ているのに、女に手を引かれているのも私だとわかっていた。二人の影が長く伸びて、私の足元まで届こうとしていた。
ちらり、と女が振り向いた。母でも親戚でも近所の人でもない、全く知らない顔だった。それなのに私はその女とどこかで会ったことがあるような、そんな気がしていた。
女は何か言ったようだったが、私には聞こえなかった。
そのまま女は「私」の手を引いて歩き始めた。私は二人の後を追おうと思ったが、足は何かで固められたように動かなかった。
二人は夕日の沈む山の方へ歩き去り、私は夕日が沈み切って暗くなるまでそこに立ち尽くしていた。私がやっと動けるようになったのは、探しに来た両親が私を見つけ出した時だった。
何だかやたらと悲しくなって、大泣きしたことを覚えている。父が大きな手で頭を撫でてくれたことも。
「あれはなぁ、……だからなぁ」
父がぼそりと漏らした一言を、私はよく聞き取れなかった。
それから何年もの年月が経った。
私は実家を離れ、結婚して妻と息子の三人で暮らしていた。息子があの時の私と同じ年の頃になったある夏の日、母から突然の連絡があった。
父が亡くなった、と。
取るものも取りあえず、私は急ぎ実家に戻った。
父は白木の棺桶にちんまりとおさまっていた。ちょっと見ない間に、ずいぶん小さくなったような気がした。
風呂場で倒れているのを母が見つけ、救急車を呼んだが間に合わなかったのだと言う。脳梗塞だったそうだ。
あまりに突然だったので、終活の準備すらしておらず、母と私は葬儀や通夜の手配、役所や銀行などの各種の手続きに東奔西走することになる。
後になって有給を取った妻が息子と共に合流し、交代で息子の面倒を見つつではあるが、三人で手分けすることになって大分負担が減った。妻も親を看取ったことがあり、その時の経験から有用なアドバイスをしてくれるのが有り難かった。
母と妻が葬儀の段取りを話している間、私は息子を連れて散歩に出かけた。ママには内緒だぞ、と近くのコンビニで買ったアイスを二人で分ける。日中はまだ夏の暑さが残っているので、アイスの冷たさが嬉しかった。
昔――私が子供の頃は、この町にはコンビニなんて無かった。この町は山間にある田舎で、田んぼと少しの人家くらいしか無かったのだ。今はここも開発され、アパートや建て売りの家が増えている。
ただ、今も昔も変わらないのは夕焼けだ。山の稜線に沈む夕日の美しさは近辺では有名で、日が沈む頃になるとカメラを構えて夕日を撮ろうとする人をよく見かける。
……夕日。
ふと、幼い頃の記憶がありありとよみがえった。女に手を引かれて去って行く「私」の後ろ姿が。
空に広がる夕焼けは赤かった。……まるで、あの時のように。何となくぞくりとした感覚が私の背を走った。
「パパ……?」
気づくと、息子が不審げに私を見上げている。
「も、もう帰ろうか」
私は息子の手を引いて、そそくさと実家に向かった。この子が、あの時のようにあの女に連れて行かれてしまったら。そんな考えを、私は必死で振り払った。
戻ってみると、母と妻は古いアルバムを見ていた。遺影にする写真を選んでいるのだという。私の知らない若い頃の両親がそこにいた。
その中に見覚えのある顔を見つけ、私はその場で固まった。私の様子を怪訝に思ったらしい母が声をかけて来た。
「何、どうしたの?」
「いや……この人、誰だっけ?」
私は写真を指差した。
「この人? ……ああ、これはお父さんのお姉さんよ。あんたが生まれる前に若くして亡くなったから、顔を知らないのも無理はないわね」
写真の中には、若い頃の父や祖父母と共に微笑む女性がいた。――それは、あの日夕焼けの中で見た、「私」を連れ去った女だった。
父の葬儀はしめやかに行われた。
母の意向で、葬儀は小ぢんまりした家族葬になった。派手なことは苦手だった父のことなので、もし生前に聞いていてもそうしたに違いなかった。
葬儀が終わって、私達はやっと一息つけた。葬儀後も、訃報を聞きつけた近所の人達や父の友人達が、ぽつぽつと訪れて線香を上げてくれる。その応対をしながらも、どこか私も母も妻ものんびりとしていた。
そんな時だった。
息子が迷子になった、と買い物に出ていた妻から電話があった。近くのあのコンビニに行った際、ふと目を離した間にいなくなっていたと言う。
私は思わず窓の外を見た。日は落ちかけて、真っ赤な夕焼けが空に広がろうとしている。
胸騒ぎがした。
私は留守番を母に任せ、外へと飛び出して行った。
(まさか)
私の足は、自然とあの場所に向かっていた。
(まさか……まさか!)
あの、山。父の姉が「私」を連れて去って行ったあの場所。あの時、父は何と言っていた?
いつしか私は全速力で走っていた。夕焼けが空を赤く染めて行く。真正面に、山が黒くそびえ立っている。
そこに。
二人の後ろ姿があった。山に向かって歩いて行く、大人と子供の二人連れ。その背中には、見覚えがあった。
「待て! 待ってくれ!」
私は二人に声をかけた。二人が立ち止まる。
大人の方がゆっくりと振り向いた。
「その子をどこに連れて行くつもりだよ……父さん!」
荼毘に付したばかりの父は、無表情で息子の手を引いていた。
「なんで連れて行こうとするんだ!? その子はあんたの孫だろう!」
血のように赤い夕焼けを背に、父は口を開いた。
「七つまでは神の眷属だからだ」
「えっ……?」
「それから先は人になる。人になる前に、神のものは神に返さねばならん」
父はすっと私の背後を指差した。
「おまえの息子はそこにいる」
私の後ろに、息子が立っていた。ただ、その表情には何の意思も感じない。等身大の人形がいるようだった。
父の方に目を向けると、もう一人の息子が父の手をしっかり握っている。こちらはどこか醒めたような表情をしていた。
「そんな……バカな」
「おまえもそうやって人になった。覚えているだろう」
赤い夕焼け。
去って行く自分と伯母の後ろ姿。
湧き上がる悲しみ。それは果てしない喪失感だ。
私はその場に膝をついた。
父はそんな私を一瞥し、「息子」の手を引いて山の方へ歩き始めた。あの日の後ろ姿と今の後ろ姿が、私の中で重なって行く。日は落ちて行く。
二人が暗い山の中へ消えた時、後ろで大きな泣き声が聞こえた。
息子が泣きじゃくっていた。先程までの人形のような姿とは違う。元の息子と全く変わらなかった。
私は立ち上がり、息子に近寄った。多分、今の息子の悲しみを一番わかってやれるのは私だ。自分の一部が永遠に失われてしまった、あの時感じたのと同じ喪失感を、今息子は味わっている。
私は息子を抱きしめた。
「大丈夫だ」
息子が抱きついて来る。
「大丈夫だ……パパがついてる」
私達を探す妻や近所の人達の声が近づいて来た。
私はただ泣いている息子と抱き合い、その頭を撫でていた。
後で調べると、あの山は昔から神域とされていたという。神社もあったようだが、廃れてしまったようだ。
神の眷属というのが私の血筋だけなのか、それともこの土地に住んでいた人間全てなのかはわからなかった。
――そして、それから三十年程の時間が経った。
幼かった息子も立派に成長し独立し、結婚して孫も出来た。
私は母の死後実家を相続し、リタイア後はその管理も兼ねて故郷のこの町に戻って来た。
ある日、息子一家とのビデオ通話中、孫が言った。
「じぃじのところって、夕焼けがきれいなんでしょ? ぼくも見たいな!」
……瞬時に頭に映像が浮かぶ。
孫と共に夕焼けの山に向かう後ろ姿。その手を引いているのは……私自身だ。
私が何も言わずにいるうちに、妻と息子夫妻の間でどんどん話は決まって行く。夏の終わりに、この家に一家で泊まりに来ることが。
呼んでいるのかも知れない、と私は心の中で嘆息した。山が。この土地が。乙が眷属を。
――孫は、来年七歳になる。