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角犬

作者: 新宮 岬

 丘を登りきったアキは犬舎のそばにある納屋に寄りかかり休息をとった。来た道を振り返ると、ずいぶん遠くに稲穂が風に揺られているのが見える。

 木枯らしに乗せられやってきた落ち葉がくたびれたスニーカーにまとわりついた。受け入れるように見つめたが落ち葉はすぐに駆け出すように去っていった。

 アキは口をとがらせ目で落ち葉の後を追った。原っぱにショルダーバッグを放り投げた時、犬舎の入口から一匹の角犬が姿を見せた。


 角犬は12歳のアキのひざ丈くらいの大きさで、鎖には繋がれていない。光沢のない黒毛とあばら骨の浮いたお腹を持ち、そして額の中央から白い角が生えていた。

 アキは納屋の角に身を隠しながら角犬をながめた。相手もこちらを見ている気がするが確信はない。角犬はおそらく2歳前後で、犬舎の中では年長にあたる。アキは息を詰め、小さな拳をきつく握った。


緊張するのも無理はない。

彼は自分の手で角犬を殺せるか観察しているのだから。


 経路を知ると誰もが訪れる気力を失うほどへんぴな場所にあるこの村には、昔から伝わる風習があった。


男は角犬を殺して一人前。

他力を借りず、十三までに殺るべし。


 犬舎には50匹に満たないほどの角犬がいて、毎年20匹ほど入れ替わりがある。角じいと呼ばれる世話人が一人だけいて、仕事中以外は杖を手放せない程の老体で、彼が死んだら犬舎がどうなるのかは分からない。

 角犬は知力が高く、厳しい躾が必要な

個体はほとんどいない。体臭は驚くほど薄く、黒毛が多く、決して人には懐かない。人間をのぞき込むように見つめるのが特徴で、3歳になる前に、みな撲殺されてしまう。

 子が殺める角犬は基本的に親が犬舎に出向き個体を指名して決める。骨太で肉付きが良く、体毛の濃い個体に人気が集まる。

 歴史のある風習にもトラブルは付き物で、他所の家庭の指名犬を殺してしまうケースは数年に一度の頻度で起こるし、犬舎に忍び込んだ少女が興味本位で複数匹を虐殺したこともあった。

 しかし上記を含むどんな事例も、風習の在り方を疑う声が上がるような事態には至らなかった。

 角犬を殺すことができずひんしゅくを買うことはあっても逆はない。指名犬を横取りされた家族は、祝福の言葉と共に不問にするのがこの村ではマナーと化しており、少女のケースでは多数の村人が参加する祝宴が実行当夜に催された。

 この風習に少年たちが向き合った記録は役場に保管されており、村民は自由に閲覧可能で、就職や見合い相手の選定や進路決定の参考資料として使われる。

 一人っ子、身体的発育が遅れ気味、将来的に村外での進学や就職を希望する者はこの風習への取り組みに消極的とのデータがある。

 どうしても角犬を殺すことができず、村外に移住も叶わず、生きる気力も失ってほとんど家から出られなくなってしまった元少年を、村は数人抱えている。

 角犬殺しの達成率は、十年統計で95%を超える。数値は年々悪くなっており、しばしば若者叩きの材料にされる。


「なぜ角犬を殺さなくちゃならないの?」

2年前のある学校帰り、クラスメイトに漏らした問いを近所に住む中年男性に聞かれ、アキはしこたま殴られた経験がある。男はアキをのど輪で押し倒し馬乗りになり、顔と腹に拳をぶち込んだ。牛のような体つきの男は、歯や鼻やあばらを避け、アキの痩せた肉を正確に痛めつけた。逃げ足の速いクラスメイトは助けを呼ぶこともせず、カラスは阿呆みたいな鳴き声を出して飛び去っていった。

 アキは息の出来ない苦しみと、臓器だけ浮き上がるような痛みを味わい、人が獣に変わることを同時に学んだ。


「犬舎に行ってました」

遅刻の弁解はそれで充分だった。角犬殺しの済んでいない生徒の特権で、代償は周囲からの視線だけだった。

 アキが席に着くより前に教師は授業を再開し、チョークを黒板をつつき生徒に問いを投げかけた。


「もう一度留年になったら、奉公先を探してみないか?」

3カ月前の面談で教師は優しい口調でアキに提案した。同席した両親は何も言わなかった。

 彼らは村に一軒しかない文具店を営んでおり、現状が続けば経営が行き詰まるのは明らかだった。角犬を殺せない子のいる家庭の売る文具なんて、縁起が悪くて誰も買わない。


 アキは机に頬杖をつき、指の先を甘噛みしながら、容赦なく進んでいく授業の様子を眺めた。へその辺りに鈍い痛みが起こり、ほんの少しだけ猫背になった。


 みんながぼくをバカにするのは角犬を殺していないからじゃない。

たったそれだけのことについて、ぐずぐず悩んでいるからなんだ。

アキはそう考えていた。


 アキは埋め難い溝をクラスメイトに感じた。不意に瞳から涙がこぼれ、それを必死に隠そうとした。


 父さんも角犬を殺したのだろうか、とアキは思った。たった今、周囲との間に感じているこの溝を、父を相手に味わうことに耐えられそうになかった。


「※※※〜」

何かを言いながら教師がアキに向かって歩き出し、示し合わせたように多くの視線がアキに集中した。

その全ての目が嗤っているようにアキには映った。


あいつは角犬を殺せなくて泣いているんだ。誰もがそんな目でアキを見ていた。


アキの心に、絶望が巣食い始めた。

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