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波止場に立つジェーン

作者: 長尾衣里子

ーーいつから沖を見つめてるの? 潮風に黒髪をとき、ビット(繋船柱)に片足おき、遠い目で宝盛丸の船影を探しているジェーン。いつか、空と海の青に同化してしまうと心配なほどーー


 波止場のバス停に降り立ったエリィは、行く手に人影を見つけた。遠目でもジェーンとわかる。

「おはよう、ジェーン! 一番乗りと思ったのに先越されたわ」

「来ちゃった。夜勤明けだから来ないつもりだったけど」

 島の療養所で働く白衣の天使ジェーン。

「私も! 昼から来るつもりだったのに、いつもどおり目が醒めたから」

 港に通い始めたばかりのエリィ。ねえさん格のジェーンの存在は心強かった。

「水曜は出航しないと思う。けど、ワンチャンあるかも。船乗りに片思いなんて、因果な身ねぇ」

「だって、会いたいんだもの」

 いつもの合言葉に笑いころげる二人。

    ※

 白波をあげて、高千穂丸が通り過ぎた。手も振らず、じっと見送るエリィ。距離をつめても、恋しい男の心は遠のくばかりと知っていた。こらえきれない涙を見ないふりのジェーン。その優しさがありがたかった。

「じゃ、行くね。Good luck!」

 涙をふいて、エリィは港を離れた。

      

「たまり場にも姿を見せなかったの?」

 うなずくエリィより寂しげなジェーン。その横顔に精いっぱい強がってみせる。

「これは釣りよ、釣り。獲物がかかろうが逃げようが知ったことじゃないわ。やさしい海のふところに抱かれていれば」

「同病相憐れむ」の感がある二人。やむにやまれぬ思いで波止場に来てしまう同類との共通認識があった。

          ※

 男の郵便受けに稼ぎを落とすエリィ。

「貢いでも、男の心は戻っちゃこないよ」

 目ざといジェーンが問いただす。

「そんなつもりじゃないの。あの人、年の離れた弟たちがいてね。まとわりついて、病気移しちゃった。咳きこむ下の子に薬代渡そうとしたら、物乞いじゃないからいらんって断られて。だから……」

 はっとして、口元を覆うエリィ。

「ジェーンに移ったかも。きっと、流行りの肺炎だわ。ねえさんには、何十人もの病床の患者さんたちがいるのに。」

「咳きこんでたからね。覚悟の上だよ。」

「もう、顔向けできない。魚霊祭まで港に顔出さない。」

 エリィは泣きながら、走り去った。


 数日後、ふたたび波止場に姿をあらわすエリィ。いつものように、ジェーンは沖を見ていた。

「魚霊祭は二週間先よ。直ったの?」

「全快よ。聞いて、検査結果が出たの。肺炎じゃなかったわ。取り返しがつかない軽率なことをって、気が気じゃなかった。ごめんなさい」

 胸を撫でおろすジェーンに謝る。

「じつは一人で退屈だったの。お仲間がいて助かる」

 そろって沖を見つめるふたりの影。いつも通りの埠頭にもどった。

        ※

「抱いてやるから、港には顔出すな」

 乱暴に言い放った男に身をまかせたエリィ。一夜明け、隣で眠る男にたずねる。

「胸に顔を埋めても?」

「ああ。」

 ためらいがちに厚い胸板に頬寄せた。男の手がエリィの髪を撫でる。もう、一生分の幸せを使い果たしてもいいと満たされて、エリィは目を閉じた。

「男が欲しいんだったら、回してやろうか」

 突然の言葉に、エリィは首を振った。

「荒くれた野郎どもがあふれてるんだが……」

 激しく首を振るエリィ。

「女に飢えた奴らばかりで……」

 ひたすら首を振り続ける。

「お前でも、いい稼ぎになるぜ。紹介料は男から分取る。お前からはビタ一文もらわねぇ」

 首を振るばかりのエリィに愛想をつかせ、男は起き上がった。

「ガキじゃあるまいし、気どった女だ。最後だから教えてやる。おまえが手なずけたチビは年の離れた弟なんかじゃねぇ、おれのガキだ。情夫(いろ)んとこに入りびたりのあばずれ女だが女房持ちよ。わかったら金輪際、港に来るな」

 捨てゼリフを残し、男は立ち去った。男の心の扉のように、バタりと閉じたドア。衝撃の事実に、宙を見つめるだけのエリィ。唇の感触がくすぶる体を抱え、温もりを消す冷たい涙をぬぐっていた。

    ※

 波止場通いが途絶えたエリィ。ジェーンが心配して訪ねてきた。エリィは秘密を告白。

「わたし、過ちを犯したの。一夜の思い出だけで生きていけると思った。けど、ちがった。あのひと妻子持ちだったわ。そうとは知らず身をまかせた。なついてくれたチビちゃんたちに顔向けできないわ」

「一夜の夢よ。忘れなさい」

 エリィが泣き止むまで、やせ細った背中をさすり続ける。帰り際、ご両親からエリィの結婚話を聞いた。

「おめでとうって言っていいのかな?」

「そうじゃないのよ」

 エリィは悲しげに否定。

「父さんが見合い相手を連れてきたのは本当よ。やさしい人でね。何もかも知った上で、プロポーズしてくれたの。さすがにグラッとしちゃった」

「プロポーズ受けたの?」

 黙って、首を振るエリィ。

「お見合い相手といっしょになれば、泣いてばかりの日々とはおさらば……けど、幸せかなぁ。

 心の鍵を開けるほうが簡単ね。けれど、体を開く鍵は、あの人だけが持ってるの。それを承知でプロポーズを受けたなら、私はやさしさを体で買う売春婦よ。一生、冷たい体のまま……冷たい心のまま……。だから、丁重にお断りしたの」

 さびしい微笑を浮かべた。

「そう」

 うなずくジェーンも、さびしげだった。重苦しい空気を吹き飛ばすように、エリィは晴れ晴れと顔を上げた。

「見て! 悲しい顔してないでしょ? 決めたの。もう、あの人の心を欲しがらないわ」

 エリィはそれっきり、波止場にあらわれることはなかった。

         ※

「また、一人にもどったわね」

 波止場に立ち続けるジェーン。半年後、エリィの部屋をノックした。酔っぱらいみたいにクダを巻く。

「もう波止場には来ないでと言われちゃった。あの人、女振るの慣れてなくてね。フラれた私よりつらそうなの。その顔見たら、キュンとしちゃった。自分のつらさなんて、吹き飛んだわ。

 それに、波止場通いで看護に支障が出てたのも承知だった。小さなミスも命とりだから、天職をおろそかにするなって怒られちゃった。

 あの人、私を女として見てくれなかったけど、人として見てくれた。それがうれしくて、自分の土俵にもどる決心ができたの。いい女になって、あの人の心をふり向かせるわ。甲板上でも、戦場でもないけど、私にも命がけの戦いはある。私の生きる場所は、生と死が剥き出しの療養所よ」

 ジェーンの言葉に感じ入ったエリィ。

「私も自分の生きる道を見つける。命がけで挑むものを。あの人を追うのはやめても、忘れるのは無理だった。だから、泣くのはおしまい。宝石のように輝いてみせるわ。」

 フラレ女どうしの居酒屋談義に花が咲く。夜はふけゆく。

           ※

 波止場から名物女たちがいなくなって久しい。霧笛が鳴響く港町で、汗にまみれる彼女たち。その姿は着飾った波止場時代よりも、神々しい輝きを放っていた。




 

 

 



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