5.悪魔の定義
一難去ってまた一難。
ディオールの憎悪から逃れることが出来たかと思えば、今度はディディエだ。
ディディエ・ベリアルド十歳、ベリアルド侯爵家次期当主。彼はベリアルドの呪いをよく受け継いだ生粋のベリアルドである。……らしい。
その小さな悪魔が午後にやって来るという。朝食の席でにこやかに宣言されたときは危うく芋を喉に詰まらせるところだった。
「こんにちは……?」
「お招き感謝するよ、妹」
招いたわけではないが、貴族の教育を受けていないわたしは何をどうすればいいのか分からない。メアリに促され席に着くと、あっという間に二人分のお茶の用意がされた。
色彩の乏しいこの部屋ではディディエの藤色の髪が鮮やかに映える。
「こうしてふたりで話すのは初めてだね。とても楽しみにしてたんだ」
「わたしもです……」
「ふふ、そんなこと思ってないくせに」
嬉しそうに笑うディディエが本当に悪魔に見えてくる。
静かにティーカップを持ち上げ、火傷しないように少し冷ましながら口に運ぶ。紅茶の香りが鼻を抜けると、緊張した身体がほぐれていくような気がした。
「お前、何者なの?」
「ッ!?」
いきなりはやめて欲しい。もうちょっとお互い様子を見て心の距離を縮めてからにしましょうよ。
などと言えるわけもなく、質問に質問で返すという逃げを選ぶ。
「どういう意味ですか?」
「そのままだよ。お前、奴隷の子が集められた小屋で育ったんだろ? 他の子と自分が違うって理解してたんじゃない?」
「他の子はあまり喋らなくて。会話らしい会話はなかったんです」
これは嘘ではない。境遇なのか何なのか、子ども同士でお喋りするなんてことはなかった。他の子はただ無気力に座っているだけで、世話係の大人に返事をすることも稀だったのだ。
「じゃあお前はどうして喋れるの? どうやって言葉を覚えた?」
「そ、それは、世話をしてくれていた人たちが話すのを聞いて……」
「それにしてはちゃんと貴族らしい言葉だ」
あー、うーん、そうねー。そうかー……
それまで「ベリアルド家は天才の家系だから」で納得してもらえると思っていたが、天才にだって学びは必要だ。
現にベリアルド一族は学習を始めるのが他より早く、それを理解出来てこその天才なのである。
前世の記憶があると言っても言語は違っているし。
なら、どうして理解できているかというと、この世界の記憶というか何というかもちょっぴりあるからだ。
が、それだけでは説明が付かない。わたし自身、不可解なことが多いのだ。
それで、どうにか天才設定で納得してくれと言い訳をする。
「わたしはまだまだです。馬車で少しお父様とお話しして、ここに来てから学んだ言葉もあります」
「ふーん。で、ベリアルド家についてどれくらい知ってる?」
「ほとんど、何も知りません」
どうすればディディエは興味を失うのか、何と答えれば正解なのか。
「ベリアルド家はね、特別な執着が特別な才を発揮し、その代わり人が持つべき情や罪悪感というやつを持たない。執着のないものでも大抵のことは人より秀でている。天才というやつだね。でもそれは祝福じゃない、呪いだよ」
夢の認識と擦り合わせ、そういう家系なのだと確信する。
前世の知識を合わせると呪いというより遺伝だろう。
「お前もきっとその呪いを受け継いでいる。だから人より賢く、頭も身体も成長が早い。でも不思議なんだ。どうしてお前はそんなに人間らしいの?」
心臓が嫌に鼓動する。
……人間らしい?
てっきりまともな教育を受けてない三歳児がしっかり受け答えしているから怪しんでいるんだと思っていた。
そしてそれは呪いという設定で誤魔化せると思っていた。
そうか、天才という設定で行くなら、わたしも悪魔でなければいけなかったんだ。
たしかに夢で見たシェリエルは酷く心が冷めていた。あれは道具として生きたからじゃなかったのか。
「人間らしいってよくわかりません」
するとディディエはにこりと微笑んで手に持ち……
「何するんですか!」
ディディエはあろうことか湯気の立つティーカップをメアリに投げつけたのだ。とんでもないクソガキである。
それでもメアリは顔色を変えず、黙って床に零れた紅茶を拭き始める。
「メアリ、火傷し……」
「ほら、それだよ。僕たちは他人の心配なんてしない。彼女がお前にとって身内と言える大切な存在なら話は別だけど、たった数日でそこまで心を許せるものでもないよね?」
クソ悪魔め、と内心毒づき、「悪魔の定義なんて知るわけないだろう」と、叫びたいのを我慢して真顔を保つ。
「メアリは大事な人です。ここに来てからずっと親切にしてくれました」
「それだけ? やっぱ変わってるね。でも本当にそれが理由?」
ディディエは藤色の髪を揺らし、クリスマスの日の子どもみたいに無邪気に笑った。
彼が何が知りたいのか、どうすれば満足するのか必死に考える。
その間にも頬を朱に染めたディディエは、興味を失うどころか、どんどん好奇心を膨らませているようだった。
「ディディエ様はどう思ってるんですか? わたしの事……」
「そうだね、正直さっぱり分からない。僕を超える天才で、環境や教育を必要としない生まれ持った擬態能力があるのか、それとも、この呪い自体が僕が習ったものよりもっと複雑な何かなのか、それともギフトか……」
たぶん、わたし呪われてないですね。
……いや、本当に?
夢ではたしかに無慈悲で無関心で罪悪感がなかった。そう考えるとベリアルド一族らしいけれど、執着していたのは先生という人物に対してで……
それに、飛び抜けた才はなかったし。普通の人からすれば優秀でもベリアルドの持つ特別な才みたいなものは無かったはずだ。
あれ? わたしってどうなってるんだろう?
と、思わず首を傾げてしまう。
「不思議ですね……」
「アハハハハッ! やっぱお前、最高に面白いね。いまの話を理解して、自分で自分が不可解な存在に思えたんだろ?」
いつまでも笑っているディディエが単にシェリエルというパズルを解きたいだけの年相応の子どもに見えてくる。
「ディディエ様はわたしに興味があるんですか?」
「うーん、いまはそうかな。本当は人の感情の揺れみたいなものに興味があるんだけど、最近は誰も遊んでくれないしね」
「わたしを泣かせたいとか、苦しめたいとか思いますか?」
「それもよく分からないかな。最初はそういうつもりだったけど、いまはそれどころじゃないよね」
ふむ、どうしたものか。
夢のシェリエルは死ぬ頃には何の興味も持たれていなかった。しかしどういう人間か認識していたという事は、少なからず何かされた事があったのだろう。
ディディエに興味を持たれるのが正解なのか、それとも無関心でいてもらうのが正解なのか、判断が付かない。
自分の仕様が気になるし、ディディエの好奇心は自分を知る手助けになってくれる気がしないでもない、と妙にアッサリ受け入れそうになる。
しかしやはり不安はあるので。「ディディエ様と仲良くなれたら、その時わたしの秘密を話します」と、保留にしておく。
「ほら、やっぱり秘密があるんだ! でも仲良くって? 僕はいまも仲良くしてるつもりだけど?」
心底分からないと言いたげに小首を傾げる様は、天使かと思うほどに愛らしい。顔だけは。
「ディディエ様はわたしに秘密を話せますか? わたしと居て安心できますか? 仲良くというのは表面上ではありません。相手を信頼し、思いやったり、大切にしたり、危害を加えず楽しく過ごせるようになったらということです」
「急に本性出すじゃん。まぁ、うーん…… 僕は楽しく過ごしてるけど、信頼や思いやりか。危害の範囲も少し勉強不足かな。ザリス、僕ってどの程度だと思う?」
突然話を振られたにもかかわらず、少し離れて立つザリスは即答する。
彼はセルジオの筆頭補佐官である。この度、ディディエがわたしを壊してしまわないようにお目付役を言い渡されたらしい。
そのザリスは一切表情を変えず、「まだまだです」とサッパリ言った。
「酷いな、そんなハッキリ言わないでよ。でも、ちょうどいいかもね。正直、人心や擬態の授業って座学だけじゃ限界があると思ってたんだ。お前と遊びながら学ぶよ。それでいいでしょ?」
いいでしょ、じゃあないんですよ。実験台ですか、わたしは!
と、内心叫びながらも、ディディエには早急に危害の範囲を学んでもらいと思うわけで。
確かにそういったことは血筋以前に普通の子でも他者と関わりながら学んでいくものである。
そう自身を納得させ、シェリエルはこの小さな悪魔の手を取った。
「じゃあ、よろしくお願いします……?」
「これからよろしくね、シェリエル」