46.眠り姫の贈り物
「うぉ、揺れる」
「なんだあれ、触角?」
「うわ、わわわわ、壁が崩れる!」
「あの城壁を超えてくるか!」
「ムカデだ…… それにしてもデカいな。いや実は、あの頭に付いている二本の牙は顎でも牙でもなく、足なんです。その奥に小ぶりな牙が見えるでしょう? そちらが本当の顎になります。ムカデはその毒爪で獲物を刺し、傷口に毒液を塗りつけるんですよ。ですから毒爪はものすごく頑丈で力が強い。あれだけ巨大になれば石壁くらい簡単に砕…… ちなみにですね、尻尾も触覚のように二つに分かれていますよね。あれも実は足なんです。まったく意味が分かりませんよね。いやぁ、すごいなぁ…… 大きいから細部までよく観察できる」
「黙っとれ昆虫博士」
——大ムカデの発現。
地を這うムカデは攻撃を逃れながらひっそりと死骸を喰らっていたのだろう。
信じられないくらい巨大化した大ムカデは、ニョロニョロと頭を左右に振りながら捕食できそうな魔力を探しているようだった。
ああ、これはマズい……
誰もがそう思って、無意識に息を殺している。見つかったら終わりだ。人間などあの大ムカデにとってはアリンコくらいのもので、貴族ともなれば上質なタンパク質と魔力を持つ最高級の餌でしかない。だから叫べない。悲鳴で恐怖を逃すことができない。
そんな人間の恐怖を知るや知らずや、大ムカデは腹部に開いた気門から「ふしゅー」と、灰色の煙を吐き出した。
世が世なら、世界が世界なら、煙突のない蒸気機関車を思わせる豪快な噴射で。
安全が保障された見せ物だったなら、拳を突き上げて「ウオォぉカッケェー!」と雄叫びをあげる男子がいただろう。
が、そんな浪漫を蹴散らすように、煙に包まれた草木は一瞬にして腐り落ちていく。
根腐れと同じことが起こったのだ。
そして、逃げ遅れた兵士が皮膚を真っ赤にしてドサ、トス……とその場に崩れ落ちた。顔面にはブツブツと赤い吹出物が広がり、顔を掻きむしって口から泡を吹いている。
こんな死に方は嫌だ選手権・女性部門でぶっちぎりの第一位。男性部門でもギリギリ三位に入るかという凄惨な光景だった。
呆然と立ち尽くす衛兵。頭の中で「ニゲロ、ニゲロ」と叫ぶばかりで一歩も動けない。
「——全隊退避。六班は離脱の補助と誘導を」
「魔術士の皆さんは結界で毒霧を遮断してください」
「全員口当てを装備」
「一度、戦場を整えます」
思考を放棄した前頭葉を励ますように、ザリスとアロンの声が交互に響いた。
ふたりの淡々とした平らな声は通常時ならば冷たく聞こえたかもしれないが、こと戦場においては音痴な母親の子守唄より安心感がある。
落ち着きと言うか勝手知ったると言うか、とにかく、「どうすれば良いか分からない」というか不安から抜け出せた。
ありがとう側頭葉。ありがとう通信の魔導具。俺たちを導いてくれ、この悪夢の出口まで!
と、皆がすぐに魔法陣が描かれた布を巻き。離脱した班から全身を洗浄、祓い、消毒と一連の工程を手早く済ませた。
「皆さん、こちらの布を! 清浄の陣が付与してあります。口元を覆うようにして頭のうしろで紐を結んでください」
一方、サロンでは木箱を抱えたシャマルとジゼルがパタパタと走りまわりながら印の入った布を配っている。
手渡された男は「あ、これはどうも」と感情のない声で言って、目をボーッとさせたまま口当てを巻き、その間も視線は大ムカデを目で追っていた。
やっとのことで受け入れ始めていた現実に裏切られたような心地がして、露骨に落胆している。
なぜ、どうして……
これは腹立たしさに近い感情だった。
——そも、なぜ人はこれほど虫に嫌悪するのか。
「お兄様、お母様の虫嫌いはいつからです?」
「生まれた時からじゃない? や、でもおかしいな。母上の特性上、あのカブトムシは許容範囲なはずだし」
「わたしがベリアルドに来て…… いえ、病原菌の存在を知って以降、酷くなったのではありません?」
「そういえばそうかも。——あ、そっか、そういう…… てか、それいま考える?」
「時と場合を選べないのはお兄様譲りでしょうか」
「なら仕方ないな。どうでも良い気づきをありがとう」
吸血する蚊やダニはその小さなカラダで恐ろしい病気を運ぶ。毒を持つ虫は害であり、屍肉に群がる虫は死の象徴だ。
腐った果実。膿んだ傷口。死体。汚物。
思わずウッと眉を顰めるような“嫌悪”の傍らには虫が在る。
噛まれれば痛いし、指先から首まで腫れ上がって死ぬこともあるだろう。
虫への嫌悪は「病」「毒」といった死につながる危険を回避するための、潜在的な防衛本能なのだ。
ディオールは血液が病を運ぶと知り、余計に虫嫌いが深刻になった。
ここに集まる魔物はシェリエルが地道に貯めた穢れを与えられ、作り替えられた虫である。
つまり、あの大ムカデは毒と病原菌を持っているということだ。
そして、穢れは菌を変質させる。
「あの毒霧は新しい疫病になり得るかもしれません。これで“最厄”が揃いましたね」
——ボンッ!
——キンッ!
ディオールが巨大な火球をムカデの頭に叩き込み、同時に、セルジオが渾身の一太刀をお見舞いする。
が、シュワシュワと蒸気が立ち昇るだけで、燃えることも、傷を付けることもなかった。
まったくの無傷。魔力を乗せた鉄より硬いとは何事か。
「ハ? アレが効かないの? ……最高じゃん」
此処に、場違いな高揚が在った。
ディディエは正しくその脅威を理解しながらも、瞳をフラフラと揺らして口元をだらしなくしている。
酩酊したように頬を紅潮させ、ツゥー、と垂れた鼻血を親指で荒っぽく拭った。
物理的にも穢れ的にも最厄クラスなのに、新種の疫病まで加わったのだ。彼は滅多にお目にかかれない“恐怖”に興奮している。
それは崩れた塔の上に立つセルジオ、灰の降る壊れた庭園に佇むディオールも同じらしい。
ベリアルドは退屈していた。
ベリアルドには娯楽が少ない。
ベリアルドは刺激に飢えていた。
ベリアルドは他人と苦楽を分かち合えない。
ベリアルドは渇いている。
そして、この少女も——
「あハハ…… アッハッハッハッハッ!」
——楽しくないわけがない。
シェリエルは冗談みたいな大ムカデを前に、壊れたように高らかに笑った。
心の底から湧き起こる嫌悪感と恐怖心。余りある危機感とスリル。死の匂い。高揚感。
それから、暗号が解けた時みたいな爽快感。
自分のことを深く理解できた瞬間の快感は、極上の麻薬で脳を犯される快楽に似ている。
「アハハハハハハッ! 見たか、偽善中毒の愚民どもめ! ツケを払ってもらうぞ傍観者!」
「なに、どうした、シェリエルご機嫌じゃん」
「仕様は考慮漏れどころか完璧だったんですよ。これで正解。だって、そうでしょう? わたし、この国が嫌いなんですから!」
「お、おぉ…… これでベリアルドも立派な反社会勢力ってわけね」
「それは元からでしょう? わたしはこれでも頑張ったんです。なるべく国に有益な人間であろうと努めてきました。でも、誰も助けてくれなかったもの。あんなにお願いしたのに! 忘れて、無かったことにして、そんなことなら最初から善人ぶるなって話ですよ!」
だから、後悔させたかった。
過去の選択を過ちだと認めさせ、やり直させる。
なにを絶望することがあるだろう。家族だってこんなに喜んでくれた。
「まったく同感だよ。シェリエル、家族愛ってこんなに尊くて素晴らしいものなんだね」
「少しは親孝行になったでしょうか」
シェリエルは照れたようにはにかんだ。
ふたりは星を散りばめた瞳でこの地獄の悦びを分かち合い、ディディエは堪らずシェリエルを抱き寄せて「完璧だよ、シェリエル」と優しい声で言う。
彼女はただ予告し、判断を委ね、民の決断に手を差し伸べただけだ。
「充分信仰は集まった」
「証拠もありませんし」
多くにとってこれは“偶然”でしかない。
シェリエルにとっては必然で、ベリアルドにとっては贈り物になった。
彼女はやっと家族の一員になれた気がして、嬉しく思うのだ。
「シェリエぇぇーール! 僕はあなたを誇りに思いますよぉぉーー!」
「なんか言ってる」
「アハハ! 見て、父上が本気だ。あの大剣ね、大戦とかで使うやつだよ。シェリエル見た事ないでしょ」
遠くでセルジオがなにやら叫んだかと思うと、手に持っていた剣を投げ捨て、自身の空間から禍々しい大剣を引き抜いた。
瓦礫を駆け、体節の隙間に刃を振り下ろす。
「ワッ、と…… 硬いですねぇ! アハハ! アハハハハハッ、うぇ、ゲホ…… アハハははは!」
ディオールはセルジオの剣技をうっとりと眺めて、彼に集まる雑多な魔物たちを的確に燃やしていく。
セルジオの周囲に鬼火が灯るようで、なんとも幻想的で美しい光景だった。
『ウォォオォォォォ!』
『がんばれ! ベリアルドがんばれ!』
『頼む、倒してくれ!』
『負けるな! 俺たちのオラステリアを守ってくれ!』
地鳴りのような歓声が遠くで起こり、よく耳をすませば間抜けな声援が聞こえた。サロンからも祈るような声が漏れ聞こえている。
シェリエルはスンと冷めた目で軽く振り返り。
「……鬱陶しい。少し煽り過ぎましたね」
「調整したつもりだったんだけどな。藁にもすがるってやつだろ」
「凡人って不自由ですね」
「だから可愛いんだよ」
今度は強気な瞳で大ムカデを一瞥すると、適当に祓いの儀をして壊れた金色のカブトムシに腰掛け「ふぅ……」とひと息つく。
一刻も早くあの気持ち悪い虫たちを殲滅してしまいたかったが、焦ることはない。
ディディエも公園の遊具に跨るみたいに両手でカブトムシのツノを掴んで、遠くで戦う父を見つめて「ふハッ、たのしそ〜」と子どもみたいに笑う。声は少し震えていた。
と、そこに。
「シェリエル様…… あの」
ふたりのうしろにリヒトが立っていた。
彼は困ったように眉尻を下げ、チラチラとシェリエルの顔色をうかがっている。
「不服なの? 前に約束したわよね。わたしだけの言うことを聞いてくれるんでしょう?」
「はい……」
「ならどうしてそんな顔をしているのかしら」
「そ、それは……」
「お、待てシェリエル。リヒトのお願いを聞いてやろう」
「?」
「良いから言ってみな。お前はどうしたい?」
リヒトはお願い事が苦手だ。というより、自分の意思を他人に伝えること自体に抵抗があるらしい。幼少期から染みついた思考の癖のようなもので矯正はなかなかに難しい。
それでも、彼はギュッと拳を握って奥歯を噛みしめ、震えるみたいに弱々しい声で告白した。
「お、私にも戦わせてください…… アレと、戦ってみたいです」
「ん? リヒトが? アレと?」
「は、はい…… 私などが申し訳、ありません。セルジオ様の邪魔にならないようにします、ので」
シェリエルは驚いてしばし目を丸め、プッと吹き出すと片手をヒラヒラさせて「早い者勝ちよ」と、快く送りだす。
リヒトはモーゼスくらい顔をピカピカに輝かせて思い切り頭を下げると、その勢いのまま光の速さで戦場へ駆けて行った。
あっという間に大ムカデにたどり着き、セルジオの横をすり抜けて器用に身体を半回転させ一撃。
五本ほど足を切り落としてセルジオをチラと見る。
リヒトの挑発的な顔に、セルジオはピキピキと青筋を浮かべて「あ゛ぁ゛ぁぁぁあぁぁ!」と凄まじい咆哮をあげた。
「うぎぎぎ……! リヒトぉ……、生意気なことをしてくれますねぇ……」
「早い者勝ちだそうです」
「ギィイィぃぃぃ!」
セルジオは魔物より魔物らしく鳴いていた。
シェリエルは「そんなに怒ります?」と、半分笑いながら、さらに挑戦者を追加する。
「シエル、おいで」
シェリエルが呟くように可愛い相棒の名を呼ぶと、厚い雲の上からゴロゴロゴロと雷のような唸り声が響き、空色のドラゴンが雲を割って垂直に降りてくる。
巨大ムカデvsドラゴンのマッチメイク。
セルジオとリヒトはギョッとしながらも、このリングから降りようとはしない。本気で勝てると思っているのだ。
「シエル、ハウス! これは僕の獲物です!」
「ガルルルルッ!」
「よろしくてよ、シエル。ここではあなたが一番美しいわ。その鱗、ひとつ残らず削ぎ落としてあげましょうね」
ディオールは短杖をシエルの首元に向け、鱗の隙間で「ボン!」と小爆発を起こした。
シエルは「グル?」と首を傾げて猫のように後ろ足で首を掻く。
そんなシエルに大ムカデが巻きつきズルズルと地上に引き摺り下ろせば、ディオールの熱い視線にこめかみの青筋を増やしたセルジオが「トカゲ風情が良い気になるなよ」と、低く言ってシエルに切り掛かる。
滅茶苦茶だ。協調性のカケラもない利己主義者と人の思考を持たないモンスターが舞い乱れ、殺し合う。
しかしシェリエルはまあまあ悪くない贈り物になったと胸を撫で下ろす。
こんなに大はしゃぎする両親を見るのは生まれて初めてだった。