32.半信半疑
さて、当のユリウスはと言うと。
葡萄ジュースでこの地獄を生き残ってしまったがために、大汗をかいてグッと拳を握っている。
目の前には真っ白な手が差し出されていた。
触れようと思えば触れられる距離。けれど彼女はそれ以上近寄って来ない。
ユリウスにとって適切な距離だった。
それでもその手を取るか迷う程度には彼女を警戒している。
落ち着いているように振る舞っているが、彼は充分混乱していた。
見ず知らずの大人たち。意味のわからない会話。見たこともない食べ物。酒の匂い。唐突な涙。笑い声。いつの間にか大人になってしまった従者と、自分。
そして、身体の変化。
視界は遥かに高くなっていて幽体離脱しているみたいだった。座っていても届かないはずの床が近く、膝を曲げても余っている。
突然未来に来てしまったような感覚。
昨日まで七歳だったのに、いまの自分は二十三の大人である。二十三で棺に入り、二年と五月眠っていたらしい。
約十九年、世界と噛み合っていないのだ。
本当に、昨日だっていつものように布団に入り眠ったはずなのに。
あまり覚えていないけれど、とても、とても長い酷い夢を見ていたような気がする。
気付いたら霊廟にいた。
目が覚めてしばらく余韻が抜けず、ただただ悲しみと苦しみだけが渦巻いていた。
脳を直接弄られたみたいに頭がぐらぐらと揺れ、肺を患ったように呼吸が苦しく、首を絞められたように喉が痛んだ。
実に二年ぶりの感覚である。ユリウスは五歳のころから身体が痛みや苦痛を忘れてしまっていた。
不安で胸がモヤモヤしたり、顔に熱が集まったり、胃をキリキリさせたり、心臓をドキドキさせたり、悲しみが涙を溢すことすら無くなっていた。
それが、急にぶり返したのだ。およそ人生で経験することがないであろう、あらゆる悲しみと苦しみが一挙に押し寄せ、まともに思考することすらできない。
夢か現か。
夢も現も地獄である。
そんなとき、清潔な薔薇の香りと柔らかい人の体温に包まれた。
『——大丈夫。——すべて……祓います。——、呼吸を…… ゆっくり、息をしてください』
耳元で女性の優しい声がした。
耳に心地よい清らかな声は何度も「大丈夫」と繰り返し、ユリウスは「ああ、自分はまた穢れを溜めたのか」と理解した。
けれど、それも次第にスーッと楽になっていく。
不思議な心地だった。
光を求めるように顔を上げると、目の前には見たこともない美しい女の顔があった。
朝露のような雫を煌めかせる純白のまつ毛、透けるような肌に銀糸のような髪。唇は血のように赤く、火で炙られたみたいに苦しそうに微笑んでいた。
穢れに堕ちる間際の母と同じ。苦しみのなかで懸命に笑おうとする彼女と目が合う。
すると彼女はすべての負の感情を消し去るように、今度は清らかに笑った。
ユリウスの心臓は破裂しそうなほど、激しく鼓動していた。
なにも考えられないくらい、心臓がドキドキしていた。
彼はこの感情を知らない。
ただ胸が痛くて苦しくて、心臓が壊れて死んでしまうのではないかと——危険であると判断したのだ。
けれども、彼の予想に反して彼らからは微塵も敵意を感じなかった。
シェリエルが泣くと胸が締め付けられるような痛みを感じてものすごく嫌だったし、ディディエにくっ付かれるのも普通に嫌だった。
慣れてくると会話は心地よく、黒猫も彼らを放置しているし、父もユリウスですら知らない顔で親しげに話している。
知らないことを教えてもらって好奇心がくすぐられる。
状況から判断するに敵ではない。
——けれど、ライアもそうだった。
どんなに優しくても、どんなに頭が悪そうでも、どんなに面白いことを話してくれても、子どもの自分は騙されてしまう。
だから、いまもユリウスは努めて目の前のシェリエルを警戒しているのである。
「大丈夫ですよ。ユリウス様が嫌がることはしないと誓います」
「……うん」
「怖いですか?」
「コワくない」
怖いかと聞かれれば怖くないと言うしかない。
隙を見せることになるし、自分は男の子だから。
「じゃ、行きましょ」
ユリウスの手を取ったシェリエルは、パチとディオールにウィンクを送る。ベルティーユもジェフリーを撫でながらグッと親指を立てていた。
ぼくはどうなってしまうんだ……
と、ユリウスはヒヤヒヤと大汗を垂らしながらシェリエルに手を引かれて歩いた。
深夜の城内は静まりかえっている。明日から忙しくなるからと、使用人たちも早めに休んでいるのだろう。
ユリウスはチラチラとシェリエルを見ては身体の異常に目を回していた。
「どうかしました?」
「いや」
「緊張しています?」
「べつに」
緊張している。本当はずっと緊張していた。
大人の身体に見合うように澄ましているが、彼女と目が合うと体温が上がり心臓が跳ね上がってしまう。
彼女はとてもキレイな女だった。
たぶん、ユリウスがこれまで見た人間で一番美人でかわいく笑う。魅惑のお姉さんだ。
それでつい目で追ってしまって、そのたびに彼女と目が合った。
おかしな言動は多いが勘が良いのだろう。油断ならない相手である。
そんな彼女と自分が恋人だったなんて到底信じられない。なにをどうすればそんなことになるのか。
だって自分は棺に入るために生まれた悪魔で、バカな女に騙されて母までも穢したのに。
こんなキレイなお姉さんが自分のことを好きになるなんて、どう考えてもおかしすぎる。
「ほ、本当に恋人だったの?」
「え…… や、はい。本当です」
彼女はやはりしどろもどろになって手にうっすら汗をかいていた。
やましいことがあるのだろう。
ユリウスはキリッと警戒を強めて、彼女の本心を探ってやろうと思った。
元より賢い子だったし、七歳の頃には並の大人以上の知識を備えていたから。
「知らないお城で不安ですよね? 一緒に寝ましょうか?」
「ひとりで寝られる」
「……」
「、?」
「ずっと一緒に寝ていたのに」
「そう、なの?」
あまりにも残念そうな声音にまた胸のあたりがソワソワする。
彼はまだ“母のように大事な人を傷つけているのかもしれない”という可能性を捨てきれないでいるのだ。
記憶がないのは事実で、棺から出してもらったのも事実。敵意があるならわざわざ棺から出したりしないだろう。
いやでも、別のことに利用するつもりなのかもしれない。
「着きました。ここですよ」
「たしかに、好みの部屋だ」
「ね? お着替え手伝います」
「それはいい。ひとりでできる」
「でも……」
ユリウスはスンと孤高の猫ちゃんみたいな顔をしてスタスタと歩いて行き、着替える場所が分からなくてピタと足を止めた。
そして、チラ、と困った顔で振り返る。
こういうとき、たいてい子どもの顔をしていれば彼女は優しく笑ってくれると学習していた。
このユリウス、すでにあざとさを身につけようとしている。
「ふふ、こちらですよ。ここが衣装部屋で、こっちが寝室です。寝巻きは…… あ、ここですね。脱いだものは適当に置いておいてください。簡単な服なので着られると思います。洗浄は…… そうだ、一緒にお風呂に入りますか?」
「おふろ?」
「入浴です。温かいお湯で身体を洗うんです。恋人はお互いの身体を洗いっこするんですよ」
「え」
……記憶もないのにこのお姉さんと身体を洗いっこするのか?
ユリウスは耳まで真っ赤にしてブンブンと首を振る。
するとシェリエルは「わたしたちの、毎日の日課だったのです……」と寂しそうに目を伏せた。
そうなるとユリウスはまた胸のあたりがジクジクと膿んだように落ち着かなくて、「どうしよう」と思っているうち、今度は裸に剥かれて鞭を打たれたことを思い出してサーッと青ざめてしまう。
「あ、えと…… すみません。これは…… 犯罪でした」
シェリエルは唇をほとんど動かさずに極々ちいさな声で「これは青少年を誘惑し、威迫し、欺罔(人をあざむき、だますこと)し、困惑させる等その心身の未成熟に乗じた不当な手段により行う性交又は性交類似行為——にあたるわ。さすがWikipedia先生だけど、なんでこんなページ見てたんだろう。でも助かった、やっぱり持つべきものは前世の記憶だわ。ベリアルドじゃ倫理が追いつかない。怖がらせちゃったかしら…… ガマン、ガマンよシェリエル」と、なにやらぶつぶつ言っている。
完全に瞳孔が開いていて異常者にしか見えない。
早く出ていって欲しかった。
しかし、一通り反省したらしいシェリエルは眉を下げ切ったしょんぼりした顔で「ごめんなさい、いまのはわたしが悪かったです」と泣きそうな声で言う。
「……べ、つに。気にしてない」
ユリウスはこれに弱かった。
潜在的にシェリエルの涙に弱いのだろう。ユリウスはシェリエルが悲しそうにすると具合が悪くなるくらい嫌な気持ちになるので、どうしても拒絶しきれない。
堪らずシェリエルを衣装部屋から追い出し、適当に衣服を脱ぐ。
改めて姿見で自分の姿を見ると、惚れ惚れするような美麗な男に成長していた。しっかり筋肉が付いていて彫刻のような陰影を作っているし、顔は母に似たらしく中性的である。
なるほど、これならお姉さんが好きになるのも無理はないかもしれない。あの人たち性格や思想の良し悪しはあまり気にしなさそうだし。
と、ユリウスは正しく自身を評価し、シェリエル恋人説を本格的に視野に入れ始めた。
それから、言われた通り緩いズボンを履いてその上からガウンを適当に羽織り、おずおずと衣装部屋から顔を出す。
「わ、ユリウス様! ワッ、ワァ!」
シェリエルが顔を真っ赤にして駆け寄ってくる。
驚いて咄嗟に覚えたての魔法を放ちそうになったが、恋人説が頭を過ってギリギリのところで堪えることができた。
シェリエルは慌てた様子でガウンの前を閉じ、紐を前でキュッと結んでフゥと息を吐く。そのあとすぐにハッとしたように僅かに目を大きくして閉じたばかりのガウンを少し緩めた。
「ね、寝苦しいといけませんからね……」
「ありがとう」
「こちらこそ、ごちそうさまです」
「?」
「わ、えと。寝室はこちらですよ。あ、お水は…… 魔法使えるから大丈夫か。っ、と……」
「???」
ユリウスもさすがにこの慌てぶりに首を傾げた。
もしや、このお姉さんは頭が悪いのでは無いか。警戒していた自分がバカみたいだ。でも、バカなライアに自分は騙された。七歳だからもっと警戒しないと大人には騙されてしまう。
と、自分と同じくらい心臓を速くしている彼女を前にまたしても堂々巡りである。
ユリウスは寝台に連れていかれて小さな灯りをつけるシェリエルの後ろ姿を眺めた。
悪い人には見えない。キレイで優しいし。
なにより、あの棺からぼくを出すのは大変なことだ。
「ユリウス様が眠るまで側にいてもいいですか?」
「で、出ていって」
「そ…… う、ですよね」
「あ、いや……」
彼女は顔を真っ赤にしたまま目に涙を浮かべていた。そのうちポロポロと涙を流しはじめて、それを素早く手の甲で拭っている。
シェリエルは「これは違うんです。なんだか、その。悲しいとかではなくてですね。嬉しいんです。ユリウス様がいてくれて、こうやってお喋りできて、触れられて。嬉しくて。本当に夢みたいで…… わたし」
ユリウスはキュ…… と心臓が痛んでついシェリエルの手を取っていた。
「一緒に寝る?」
「良いのですか?」
「うん…… なにかあればアレが処理してくれるはずだから」
「ふふ…… 処理って。それと、ノアですよ。ノア」
「ノア」
シェリエルがストン、と寝台に腰を下ろしてユリウスの肩に頭を預ける。
予想できないことの連続にユリウスも混乱を極めて動けない。
いい匂いがする。柔らかい。温かい。ドキドキする。緊張している。まともに頭が働かない。
「あまり眠くありませんね」
「ん」
「横になってお喋りしましょうか。知りたいことがたくさんあるでしょう?」
「ウン……」
ふたりで寝台に寝転んで灯りを一段落とす。
シーツから伝わるお互いの存在にドキドキしながら、枕を抱えて向かい合った。
「記憶がないと不安ですよね」
「多少は」
「落ち着きませんか?」
「ン……」
「ふふ、かわい」
「君は、……本当にぼくを愛していたの?」
「いまこの瞬間も愛しています。国を滅ぼしてもいいと思えるくらい」
「危険思想だ、改めたほうがいい」
「もう! かわいくない」
「どうしてぼくなんかを好きでいられるのか理解できない。悪魔の話を知らないわけでもないだろう。母のことも、知っているようだし」
「んー、どうしてかと言われると困りますね。好きなところを言っていきましょうか? まず、顔でしょう」
「ふむ。たしかにぼくは芸術品のような美しい男に育っていたね」
「フフ、そういうところも好きです。あとは、優しくないところ。優しいフリをしていますけど、実は意地悪です。いつも勝てないので悔しくて、楽しいんです」
「変わった趣味だ」
「あと頭が良くて謎が多いところ。気になって、知りたくなって…… 好奇心は恋のはじまりなんですよ」
「そう、なんだ」
「もしかして、わたしに興味がありますか?」
「それは…… いや。髪色。前世とか……、君はぼくが知らない類の人間みたいだから」
ユリウスは否定しながらも、これが、恋……!? と、目をうろうろさせて口籠る。
このドキドキは恋というものなのか……!
そんなまさか、ありえない。いやでも。
「一番気になることがわたしのことだったのでしょう? 棺の結界とか、記憶のこととか、いろいろあるのに。ね? きっと、恋のはじまりですよ」
ユリウスはとうとうキュウと目を瞑ってしまった。
涙目になって困ったように眉を下げるので、ただでさえ中性的な顔が女の子のように可愛くなる。
しかしそれも仕方のないことであった。
だって、シェリエルはなんでも知っている。
それらを教えたのはユリウス自身であるらしいから、きっと彼女の知識は正しいのだろう。
と、ユリウスはあまりにも賢かったために、未来の自分に絶大な信頼をおいていた。
それに加えて知らない女の人と共寝するという非日常。
いい匂いがするし、不思議な話をたくさんしてくれるし、七歳とはいえこの自分が会話の主導権を奪われている。
シェリエルは頭の回転が速く、洞察力が優れていて適切な距離を保ってくれる。少しおかしなところもあるが、とにかく美人だ。
そんな彼女が手を伸ばせば触れられそうなほど近くで、真っ直ぐに目を見つめながら、自分の好きなところを言っては嬉しそうに笑うのだから、当然、ユリウスはシェリエルで頭がいっぱいになってしまう。
「ぼくは大変な醜態を晒しているんだろうね」
「そんなことありませんよ? かわいいユリウス様も大好きです」
「君のことを覚えてないのに。恋人らしいこともしてあげられない」
「いいんです。これからわたしが恋の仕方を教えます」
「ほんと?」
「はい! こんなに幸せなことってありません」
「じゃあ、どうすればいい?」
「あ、ッと…… その。手を繋ぎましょう」
ユリウスは「?」と枕の下から手を伸ばす。シェリエルも同じように手を伸ばして握り合わせた。
するとシェリエルは頬を薔薇色にして「照れますね……」と乙女の顔をする。
ユリウスもつられて頬をぽかぽかとあったかくした。心臓をくすぐられるような心地がして、これがずっと続けばいいのにと思う。
「これでいい?」
「そ、ぅ、ですね。心は七歳ですから。これ以上は我慢します」
「おやすみのキスはしないの?」
「はぇ」
「ライアが言っていた。家族や親しい者は寝る前や挨拶のときにキスをするって。ぼくは廃嫡されて家族ではなかったからキスはしなかったけど。でもライアは母ではなかったから、べつにしなくても良かった。と、いまでは思ってる」
「たくさん喋った……」
「必要ないならいい」
「必要です! おやすみのキスをしないと愛情不足により青少年の心の発達に良くないとどこかの大学で発表されていた気がします!」
「ふふ、たくさん喋るね」
「もう…… ッふふ」
クスクスとふたりで笑って、フ……と静かになる。
シェリエルが上半身を軽く起こすとユリウスは目を瞑った。
チュ…… とおでこに柔らかい口付けが降りてきて、ユリウスはワッと胸に花が咲いたように嬉しくなる。
「おはようのキスもしましょうね。これから毎日ですよ」
「うん。悪くないと思う」
「手を繋いでお散歩して、一緒にお菓子を食べて、ふたりでお昼寝もしましょう」
「うん」
「もう少し情緒が育ったら一緒にお風呂に入ったり、大人の恋もしましょうね」
「努力する」
「……、ユリウス先生」
「?」
「くっ付いてもいいですか」
「かまわないけど」
シェリエルは枕をポイとうしろへやって、ユリウスの胸に潜り込んでくる。
ユリウスはどうしていいか分からずに手を上げたまま固まっていたが、そろそろとシェリエルを包むように腕をおろした。
ものすごくドキドキしている。
落ち着かないし、顔も熱い。
青少年には毒でしかない夜である。
しかし、そのうちシェリエルはグス、ヒク…… とユリウスの胸元を熱い涙で濡らしはじめた。
「どうしたの?」
「ずっとこうしたかった」
「二年……だっけ。ぼくが眠っていたあいだ、君も大変だったと聞いた。ごめんね」
シェリエルがふるふると首を振るのでユリウスはくすぐったくてそろそろと頭を撫でる。
落ち着いて…… と思ってしたことだが、シェリエルは余計にヒクヒクと泣き始めてしまった。
困っているが、嫌ではない。
彼女はお姉さんだけどぼくは男の子だし。頭も良いし。身体は大人だし。守ってあげないと……
七歳のユリウスはしっかり洗脳されていた。
それから、シェリエルの髪をそっと耳にかけるようにして優しく微笑む。
「シェリエル、泣かないで。もう君を悲しませない。約束する」
「約束…… ですからね。うう…… 大好き」
シェリエルはお酒も入っていたためか、しばらくするとスウスウ寝息をたてて寝てしまった。
ユリウスは不思議な気持ちでしばらく彼女を眺め、人とくっ付いて寝るのは初めてだと思ってソワソワしながらも、そのうちすやりと寝入ってしまう。
幸せな夢を見た。
涙が出るほど嬉しくて幸せな夢を見た。
——そんな淡い恋のはじまりを思わせる夜であったのだが。
問題は翌朝である。
パチ、と目覚めたユリウスは腕のなかのシェリエルを見て「!?」と目を丸め、「なんてことを……」と顔を覆う。
彼はこの一晩で十歳までの記憶を取り戻していた。
ユリウスは十歳のころには完璧な計画を立てている。
つまり、いま抱きしめている少女の両親を葬り、ベリアルドに入り込んで、彼女を手懐けてアルフォンスと婚約させ、自身の代わりに棺に入れようという企みが完成していたのである。
なにがどうなったらこんなに懐かれることになるのか……
まして恋人など…… 自分は本当に彼女を好きになったのだろうか。彼女だって……
昨日悲しませないと言ったばかりなのに、どうしよう。
まあ、ディオールもセルジオも生きているし、ディディエもいまのところ好意的であるらしい。
計略が失敗したのか、それとも変更したのか。
バレているのかいないのか。
恨まれているのか愛されているのか。
殺そうと思っていた人間が無防備に寝ていて、裏切っているような気持ちで心臓がバクバクと鳴っている。
十歳の頃のユリウスはすでに人を人として見ていなかったが、昨晩のあったかくて嬉しい気持ちも本当だったので、余計に混乱している。
そして、復讐のために棺から出されたのでは、とまたしても疑念が生まれるのである。
こ、このまま殺してしまうか…… 大ごとになる前に……
「ん…… おはよ、ございます」
「……お」
ユリウスは記憶のない十九年も含めて、人生で一番大変な朝を迎えたのだった。