28.宣告
——カーン、カーン…… カーン……
王宮の鈍く巨大な鐘の音が王都に響きわたる。
周辺の領地、またその隣の領地と鐘はオラステリア全土に波紋のように広がっていった。
旧式の速報であり、通信網が整ったオラステリアでは伝統以上の意味はない。
しかし、鐘の音にはそれぞれ意味があり、今夜のそれは警鐘であるため、オラステリアの民はすぐに家から飛び出した。
平民は魔導具のある広場に集まり、貴族は各々自宅で鏡型の魔導具の前にへばりついている。
何かあれば国から放送があると、この数年で国民の常識となっていた。
王の崩御か、厄災か。民は宰相チャールズからの直々の言葉を待っている。
ベリアルドまで鐘が届いたとき、国中にある通信の魔導具すべてがパッと別の景色を映し出した。
『——オラステリアの皆様。今宵、いかがお過ごしでしょうか。わたくし、シェリエル・ベリアルドが世界の破滅をお知らせします』
華美なゴールドの装飾が埋め尽くす壁を背に、純白の美麗が立っている。
後ろには彼女を守護するように、これまた純白の男がふたり。
誰しも「なんだ……?」と思って食い入るように鏡を見つめていた。
彼女——シェリエル・ベリアルドは壊れて人形のようになったのではなかったのか。
いま言葉を発したのが彼女であるのかも疑わしく、瞬きの間すら躊躇っている。
シェリエルは「真実を話す時がきた」と言って、重そうなまつ毛を伏せるように煌めかせた。
『あれは、二年ほど前のこと…… 最厄期が終わったにもかかわらず、オラステリアには黒き雨が降りました。一時の雨ではございません。いまも土地は黒き雨に悲鳴をあげています。わたくしは、神々がお怒りなのではないかと…… そう、思うようになったのです』
嘘である。
降らせたのはシェリエルだし、土地はそれほど影響を受けていない。
しかし、シェリエルは学院二年次を無言のまま乗り切ったために、学生たちですら正しい時系列を知らなかった。
『わたくしはこの国の行く末を案じ、この二年と少し、神々との接触を試みておりました』
嘘である。
しかし民はシェリエルが廃人のように沈黙していたことを知っている。
そして、特別な魔力を持つ彼女が魔導具越しにもひしひしと感じる威光を放ちながら静かに語ったことで、「そうなのか……」と、納得してしまう。
『決して善人とは言えぬわたくしですが、この地で善行に身を投じた者がおりました。罪人であるマデリン・ゲランジット、マリア・バルカンの両名が使徒となり、神々にわたくしの想いを届けてくれたのです』
嘘である。
当のマデリンとマリアは、平民たちと一緒に広場に集まっていた。
携帯用の魔導具も持っているが、貴族の言葉を分かりやすく民に伝えられるのは自分たちしかいないから。
けれども、このふたりこそシェリエルの言葉を理解できないでいる。
まわりのみんなは「そうだったのか!」「やっぱり!」「そんな大変な責務を背負っていただなんて!」と、キラキラした目で見つめてくるのに。
彼女たちだけ「なんのこと?」とポカンと口を開けていた。
そんな話、まったく身に覚えがなかったから。
人は他人の善行に理由を求めたがる。
身を削るだけの献身に不信感を抱き、承認欲求、私利私欲、義務、罪悪感と分かりやすい理由があればたちまち安心する。
故に、それが神々に通じる神聖な使命のためであれば、今度はとてつもない信仰心を抱いて心を傾けることになる。
彼女は今夜、人の規格から外れた荘厳さと神聖さを纏っていなければならなかった。
彼女は今夜、人の身でありながら人の規格を外れた美を纏っているため、人はこれを素直に信じた。
『神々はオラステリアの民を愛しています。皆は善良で、清く正しく美しい。けれども神々は憂い、そして、憤っておられます』
ああ…… と小さな、祈るような声だけが漏れる。
やはり神々はお怒りだった。あれは、あの黒い雨は天からの警告だったのだと。
『審判の時がきたのです。これから、皆は己の罪と向き合うことになるでしょう。三日後に黒雨が降ります。それが始まりの合図です。土地が穢れ、病が蔓延します。外出にはお気をつけを。病を防ぐことは可能です、どうか諦めないで。そして、二週後のヴァルプルギスの夜。世界は終焉に向けて動き始めます』
貴族たちはゴクリと唾を飲み込み、平民たちは夜の空に悲鳴をあげた。
半信半疑の者も“嘘”であると確信が持てないため、言いようない不安で胸を心地悪くしている。
『わたくしは、皆を信じております。皆の愛を、正義を、勇気を信じております。神々の試練を乗り越えられると信じております』
シェリエルは淡々と静かに語った。
まったく思ってもいないことを、まるで人が生まれて死ぬのと同じくらい真実のように語りかけた。
二年以上使われていなかった表情筋は絶妙な不均衡を保っている。
微笑みは作り物のようで、それでいて清らかであった。
シェリエルより一歩下がって立っているディディエはそれを後押しするように沈黙している。
立っているだけで人を惹きつける男である。口を開けば人を誑かす男である。
彼が黙っているということが——敢えての沈黙が、この宣告に凄まじい説得力と緊急性を演出するのである。
『ヴァルプルギスの夜にお会いしましょう』
シェリエルは最後にそれだけ言って、プツリと通信を切った。
民への告知は予言めいた破滅への道筋だけ。
具体的にどうすれば良いとか、どうするべきとか、そういうことは一切告げなかった。
それがこの嘘しかない宣告にもっとも大事なことであった。
◆
「では、陛下。霊廟を開けていただけますか」
「其方はとんでもないベリアルドであるな」
「お褒めに与り光栄です」
通信を切ったあとの王のサロンで、シェリエルはまだ動きの悪い頬をキュッと上げて見せる。
破滅宣告はシェリエルにとっては前準備でしかなかった。
やっと会える……
シェリエルは心臓をドキドキさせて、ディディエの手を取った。
しっかり手を繋いで扉が開くのを待っている。
王はスッと壁に手を当てて魔力を込めると、スーッと壁に線を走らせ霊廟の扉に変える。
シェリエルは念の為にと扉の解析を試みたが、王の印はおろか解錠の仕組みはほとんど分からなかった。
少なくとも五つの魔法が付与されている。壁を扉に作り替える魔法と、開閉、そして印を使用した鍵に、対物理障壁と対魔法障壁。
「これも結界の一部なのかしら」
「ん?」
「あ、いえ。その。厳重だなと思って」
「それはそうでしょ。ホイホイ開け閉めするようなところじゃないんだから」
「まあ、たしかに」
アルフレッドは背後のヒソヒソ話にピクと反応し、板書中の教師のように扉に向かったまま話し始める。
「王にとってこの扉がどういうものであるか、分かるか?」
「親の残した借金のようなものですかね?」
「富と権力に付随する義務では?」
アルフレッドは「ハハ……」と軽く笑ったあと、「情緒のカケラもない……」と、低い声で言って扉から手を離す。
地鳴りのような音をさせながら開いていく扉の前で、王はゆっくりふたりに向き直した。
「この扉は…… 王位の象徴であり、呪いの証だよ。平安の世に生まれた王も、子孫に贄を生むことを強制せねばならない。王位を継承するときに自分が贄として生まれなかったことに安堵し、我が子を贄として差し出す覚悟を強いられる。開かずに済んだ王もこの扉を忌々しく思っていたことだろう」
「陛下は歴代で最も多くこの扉を開けた王となったわけですね」
「シェリエル…… 其方は会話が下手になったな」
「……、後遺症です」
「左様か」
シェリエルはム……、と口を噤んで脊髄で喋るのをやめようと思った。
けれどアルフレッドは特に気分を害した様子もなく、柔らかく目尻にシワを作る。
「行って来なさい。ユリウスを頼んだぞ」
シェリエルは「行って参ります」と強い瞳で言って、霊廟に足を踏み入れる。
ディディエと手を繋いだまま並んで歩き、うしろにはリヒトが付いていた。
サロンの光が細くなるにつれて、薄暗さに目が慣れてくる。
「緊張してきました」
「僕も。なんだか、夢を見ているみたいだ」
「今度は反対しないのですね」
「僕らはやりたいことをやるだけだ。それは誰にも邪魔されたくない。そうでしょ?」
ディディエは右の口端をニッと上げて悪い顔で笑う。いつか後悔するかもなんて微塵も思っていない顔だ。
——同族としての理解。——家族としての信頼。
シェリエルはフイと顔を逸らして潤んだ瞳を隠した。
「久しぶりにみんなで食事ができますね」
「ハァー、本当、ずっと待ってたんだから。早く酒が飲みたい……」
「それ、依存症ですよ」
そんな話をしながら三人は霊廟の最奥に辿り着いた。
霊体で訪れたときよりも薄暗く感じる。魔力で刻まれた陣が人の身では見えないからだろう。
クリスタルの棺は相変わらずだった。
茨の蔦が鎖のように絡みつき、ユリウスはあの日のまま、死体よりも虚無の静けさを保っている。
彼の周りに咲き乱れる花々さえも、生を失くした亡霊のようであった。
「先生…… いま、出してあげますからね」
いつのまにか、岩肌のような木の根のでっぱりにノアが座っていた。彼は咎めるでもなくジッとシェリエルを見下ろしている。
「……」
シェリエルはそっと棺に手をおいた。
蔦がしゅるしゅると封を解き、棺にぐるりと透明な線が一周していく。
亀裂のように深く刻まれた線はそのまま棺の蓋となってゆっくり音も無く開いた。
「……先生」
「ユリウス……」
「起きて。先生……」
開かれた棺のなかで、ユリウスは人形のように沈黙したままである。
呼吸も鼓動も無のまま、魔力だけが棺から流れ出している。
シェリエルは「そうだ……」となにかを思い出したように棺の縁に手を置き、身を乗り出した。
「なに? 一緒に入るつもり?」
「いえ。眠り姫は王子のキスで目覚めると相場は決まっているのです」
「はぁ?」
シェリエルは確信したように、微かに震える口付けを落とした。
「……」
「…………?」
「起きないじゃないか」
「おかしいですね。これは世界共通の理だと思ったのですが」
「おかしいのはお前だよ」
「では、ふたりで運び出して——」
シェリエルが振り返って言ったとき、ズン…… と霊廟内の魔力が重たく濃度を増した。
——ドクンッ……
霊廟全体が鼓動する。ユリウスの心臓が動き出したのだ。
結界に取り込まれていた魂が肉体に戻ろうとしているのかもしれない。彼がまだ結界の一部であると証明するように、緑の淡い光を放ってドク、ドク、とゆっくり鼓動している。
全方位から圧迫されるような濃密な魔力に三人はクッと眉を顰めた。
「少し離れましょう」
全員が数歩引き、ジッと棺を——ユリウスを見つめる。
ゴゴゴ…… と霊廟全体が揺れ、その揺れがピタりと止んだとき。
ユリウスの上半身が重力を失くしたようにゆっくりと起き上がった。
「先生!」
ユリウスは薄く開いた瞼の奥で、虚ろな目をしている。
完全に上半身を起こしたかと思えば、糸の切れた人形のようにガクリと頭を落とした。
心臓は動いている。
魔力は以前より多いくらい。意識のあるユリウスならば絶対にあり得ない量の魔力を垂れ流していた。
「——……」
カラスの濡羽色をした髪が彼の表情を隠し、その向こうから低く唸るような呻き声が漏れ聞こえる。
ユリウスが苦しんでいる。
地獄の余韻に精神を汚染されている。
シェリエルは反射的に駆け寄ってユリウスを抱きしめ、すっぽりと覆い隠すように自らの魔力で彼の頭を閉じ込めた。
「大丈夫。すべてわたしが祓います。呼吸をして。ゆっくり、息をしてください」
「……ハッ、ハァ…… ッうぐ……」
「おかえりなさい、ユリウス先生……」
シェリエルは汚染された魂を浄化するように、ユリウスに魔力を重ねた。
しかし、内側を祓おうにも内在世界を繋げられるのはユリウスだけである。それでも、全の魔力で洗い流すように、シェリエルは彼の背中をやさしく摩りながら魔力を注ぎ続けた。
「……っ、」
だんだんとユリウスの呼吸が落ち着いてくる。
シェリエルは少しだけ身体を離して、彼の顔を覗き込んだ。
……ずっと会いたかった。
目を見て、言葉を交わしたかった。
迅る気持ちを抑えて、特上の微笑みで、特別な目覚めの挨拶を——
「おはようございます、眠り姫」
「……」
ユリウスは重そうに瞳を上げてシェリエルを視界に入れる。
いまだ光のない瞳がジッとシェリエルのブルーサファイアを捕らえ、彼の心臓はふたたび大きく鼓動する。
「何者…… だ」
低く掠れた声が静かな霊廟に響いた。
ディディエは息を飲み、リヒトはグッと拳を握り込んで下を向く。
それくらい、警戒と怒りに満ちた他人に向けた声だった。