27.以心伝心
「いつ?」
「いま」
ディディエは“いつ”ユリウスを取り戻すのかと聞いた。
シェリエルは“いま”だと答えた。
シェリエルがトンと地面に下りると同時に、ふたりは扉に向かって歩き出す。
「父上、母上。僕らは少し出かけてきます。夕食は戻って来てからでも?」
「ええ。好きになさい」
儀式の間から出ると、リヒトが片膝をついて待っていた。
彼は頭を低くしたまま、控えめかつ硬い声で「お帰りなさいませ、シェリエル様」と言って命令を待っている。
シェリエルは彼を視界の端に入れて、そのまま通りすぎた。
「リヒト、一緒に来て」
リヒトはその一言でグッと目元を拳で握って立ち上がり、彼女のうしろに続いた。
目を真っ赤にしたまま、戦場へ赴く騎士の顔をしている。
リヒトが望んだすべてがその一言に詰まっていた。
「ディルク、デヴィッドを呼べ。先月に仕立てたドレスを用意させろ」
「承知いたしました」
「バージル、母上の美容部員をシェリエルの部屋に向かわせておけ」
ふたりは真っ直ぐシェリエルの部屋へと向かう。
ディディエはずっとシェリエルがなにを考えているのか、なにを望んでいるのか考えて来た。
二年以上、来る日も来る日も、そればかりを考えて来た。
部屋に着くと、ふたりは脳みそを共有したみたいにぴったり思考を一致させ、それぞれバラバラに喋り出す。
「ただいま。サラ、リヒトの身支度をお願い。衣装はデヴィッド様に任せるわ。メアリは全体管理を」
「衣装部屋を開けろ! 王宮に乗り込むぞ、全力で取り掛かれ」
「……ッ……!」
メアリとサラはぶわりと瞳に水幕を張り、声を振るわせ、三秒全身硬直させたあと。
「かしこまりました。シェリエル様」
と、深々頭を下げた。
それからは戦場の如き素早い動きで走り出す。
「チェストを移動させます。中央を残し余計なものは運び出してください」
「リヒト、こちらに」
「化粧台に椅子を!」
ディディエは衣装部屋に入りながら上着を脱ぎ捨て、乱暴にシャツを脱いで化粧台の前に腰掛ける。
シェリエルもジャケットを脱いでほぼ同時に隣に座った。
横に長い化粧台は正面が一枚の鏡になっていて、ふたりが並んでも充分余裕がある。
「わ…… これはまた…… わたし、本当に美人に育ちましたね」
「ね。僕より美人な人間、たぶんお前くらいだよ」
「お兄様もとんでもない色男になられたようで」
「でしょ?」
「アリシアとなにかありました?」
「ディルク! シェリエルに温かい飲み物を用意しろ!」
「ごまかした……」
ディディエは細身の身体に適度な筋肉を付け、鎖骨が滑らかな窪みを作っている。
意外と肩もしっかりあって、柔らかいシルクのシャツに腕を通すと自分でボタンをとめ、横からシルバーにブルーサファイアをあしらった飾りタイを付けられていた。
「デヴィッド様到着しました!」
「まあまあまあまあ! シェリエル様ッ!」
「デヴィッド様、急で申し訳ないのですが…… 今夜、オラステリアで一番の美人に仕立てていただけますか?」
「ええ、ええ! もちろんですわ! 特別な夜なのでしょう?」
「はい。好きな人に、会いに行くのです」
「キャァー! それは大仕事でございますね! このデヴィッドにお任せくださいませ!」
デヴィッドはこちらに向かいながら服飾士たちに指示を出していたらしく、すぐに準備にとりかかった。
シェリエル担当の美容部員はフローラルウォーターを馴染ませたシルクで軽く油分を拭き取り、緩いテクスチャーのクリームを薄く肌に乗せる。
妖精産の細かいラメを練り込んだ化粧下地で、色はほとんど付かない。が、シミもくすみもないシェリエルの肌は隠すものがないので問題ない。
頬にラベンダーピンクのチークバームを少しだけ乗せて指でトントンと馴染ませる。
艶やかな肌にセミマットのパウダーをふんわり乗せると、肌の奥からじんわり発光するような透明感のある肌ができあがった。
この二年でクレイラの工房も進化している。粉をどこまでも細かく粉砕し、質感や色味の繊細な調整を可能にしていた。
「最近の記憶はあるの?」
「一応。身の回りのことはざっくり復習しておきました」
「復習? じゃあ、バージル。シェリエルに黒雨の影響調査の資料を」
「助かります」
シェリエルは資料を受け取り、上からものすごい速度で読んでいく。
元老院に上がって来た情報と、マデリンとマリアが実際に見て感じた町の様子、研究者の観点から見た被害状況がきれいにまとめてあった。
そのあいだもシェリエルの瞼には上品なシャンパンゴールドのラメが。瞳の色に合わせたアイラインをスッと目尻より長めに引き、まつ毛はとろりとした蜜に光の微粒子を混ぜこんだマスカラで艶を出す。
と、そこに。
「シェリエルッ!」
「アリシア!」
アリシアが見たこともないくらい息を切らせて飛び込んできた。
開け放された扉口を両手で掴んで立っているのもやっとという具合に、支度中のシェリエルを見つめている。
「戻ったのね…… シェリエル。……なにが、どうなって」
「いつもお話を聞かせてくれて、ありがとうございました。そのせいかあまり久しぶりな気がしないのですけど」
「……っ、久しぶりだなんてものじゃないわ。どれだけ待っていたか」
「夕食、楽しみにしていますね。わたしも、たくさん話したいことがあるんです」
アリシアはその場にへなへなと座り込み、両手で顔を覆って小さな嗚咽を漏らす。
さらりとなんでもないように笑うシェリエルは、アリシアがよく知るシェリエルだった。
気丈に振る舞っていたけれど、いつも不安だった。信じていたからこそ、早くシェリエルに会いたかった。
今夜は絶対に寝かせないわ、と思って。
アリシアは深く息を吸い込むと顔を上げる。
「王宮に行くのね。イザベラ様に話を通しておくわ」
「ありがとうございます。お姉様に不義理はできませんものね」
そのあいだもシェリエルの支度は進んでいる。
上下のまぶた中央にそれぞれ大きめのラメを乗せ、さらに鼻筋と頬骨の上、目頭、目頭のくぼみに偏光パールの淡いハイライトを。
唇は血色の良い地の色をいかしてリップバームで潤いを出すだけ。
煌めきだけで構成されたシェリエルの顔は、ほとんど色味がない。
しかし、陰影と濃いサファイアブルーの瞳、そしてほんのり薔薇色の唇がすばらしく際立っている。
儚げで、神聖で……
精霊の如き美貌がそこにあった。
「たしかに、今夜じゃないといけないかもね」
「はい、今夜がちょうど良いのです」
鏡を通してディディエと目が合い、シェリエルは長いまつ毛を僅かに上下させた。
ディディエはどこまでもクラシックに仕上げている。目元をグレーのアイシャドウで深くして、パウダーを叩いた肌は粉っぽい。
廃墟に置き去りにされた彫刻のような、ダークな美しさである。
「ではではでは! 仕上げと参りましょうか!」
デヴィッドはズン、と仁王立ちになって鼻息荒く腕を組む。
三体のトルソーが中央のチェストを囲むように立ち、すべて淑やかなホワイトで揃えられていた。
ディディエが指定した衣装から、今夜彼らがどうあるべきかを理解したのだろう。
三人はそれぞれトルソーの横に立たされ、お互いに背を向けた状態で同時に着付けられていく。
デヴィッドはシェリエルにドレスを着せると背中を直接針と糸で閉じていった。
シェリエルのドレスは純白のマーメイドドレスである。シルエットがすべてのこのドレスにホックの弛みも余計な紐も無粋であった。
ゆえに、デヴィッドはシェリエルの肌を傷付けないよう、素早くドレスを閉じていく。
首元から手の甲までを繊細な刺繍が施されたレースで覆い、胸元はひっそりと性を閉じ込めて。
膝下から控えめに広がった裾は、動くたびに鱗のようにキラキラと輝いていた。
ウェディングドレスのようであるが、今夜はその極上の曲線をすべて隠すように、総レースのロングローブを羽織る。
フード付きのそれは引きずるほど裾が長く、荘厳な貞淑を纏うのである。
額に垂らした細い鎖の一粒ダイヤがキラリと無機質な輝きを放っている。
「マァ! マアマアマアマァ! わたくしったらうっかり女神を降臨させてしまいましたわ! 全世界に叫びたい。わたくし、天才ですわぁ〜っ!」
「うん、よく似合ってる。僕の見立ては間違ってなかったね」
ディディエがスッと横目でシェリエルを見て、自分の功績だと言わんばかりに頷いていた。
「これを、お兄様が?」
「うん。必要になるかなと思って」
「もう、ここまで来ると気持ちが悪いです」
「おい」
「でも…… ありがとうございます。これで、ユリウス先生を迎えに行けます」
「シェリエル…… 少し変わったね」
「そうですか?」
「うん。迷いがない。欲に忠実で、すごく……」
白のロングジャケットを羽織ったディディエはツカツカとシェリエルのもとへ歩き、彼女の前に立つとフードのなかにそっと両手を差し込んだ。
優しく、両の頬を包む。
ジッと瞳の奥を覗いて、そこに強烈な渇きと欲望を見た。
それは、いつかのオークション会場でセルジオが感じた“直感”と同じ類のものである。
が、ディディエはそれを何と言い表せば良いのか分からない。
「——愛してるよ、シェリエル」
それしか言葉が浮かばなかった。
それしかこの感情を表す言葉を知らなかった。
シェリエルは硬質な瞳でディディエを見つめ返す。
「愛しています。ディディエお兄様」
ディディエはキラキラと輝く瞳を隠すように目を細めて、シェリエルの頬に“おかえり”のキスをする。
それから、ふたりは揃ってリヒトに片手を差し出し、三人が揃った瞬間。
彼らは忽然と姿を消した。
「め、メアリ…… これは、夢ではありませんよね?」
「ええ…… きっと」
衣装部屋には純白の余韻だけが残っていた。
◆
王のサロンは今日も冷たく輝いている。
アルフレッドはアルフォンスとふたりで小さなテーブルにつき、まだ夢現のような心地で紅茶を飲んでいた。
前にここでお茶をした相手はユリウスだった。
ここは父子のためのサロンである。
「父上、本当にここで良いのですか?」
「うむ。彼女なら、直接ここに来るはずだ」
アルフォンスは初めて訪れた王のサロンに居心地の悪さを感じ、あたりをキョロキョロと見回している。
あまりにも煌びやかで、あまりにも広く、あまりにも寂しい。
国王とはそういう存在なのだと言われているみたいで、自分はまだこの器ではないのだとひしひしと実感している。
「此処はね、王位継承の間なんだ」
「……!」
「本来、王にのみ伝わる悪魔の話は、此処で王位と共に次代に引き継がれる。あの霊廟の鍵と共に」
「ですが私は。兄上から直接」
「ああ。正式な継承の儀をしてやれなかったことを申し訳なく思っている。けれどね。私はこの伝統を心底嫌悪している。ユリウスのためと言いながら、実のところ安堵した。義務から逃げたのだ。私は善き王ではないから」
「……私は、父上を心より尊敬しています」
「ありがとう、アルフォンス。お前ならきっと善き王になれるよ。私よりもね」
アルフレッドにとって“王”とは役割だった。
元老院が存在するこの国で、王は国の象徴であり絶対的な守護者である。
血統を守り、印を継承し、穢れから国民を守る。
残虐でも、愚かでも、軟弱でも、傲慢でも、悪魔と呼ばれる黒の因子を次代に継承することだけは必ず遂行しなければならない。
アルフレッドの父は完璧な王だった。
実の孫であっても情を移さず、国を守る道具のように割り切っていた。
彼はそういう人間だったのだろう。
自身もそれほど愛情をかけられた記憶がないから。
フ、と魔力の気配がした。
アルフレッドとアルフォンスが僅かに首を横に振って彼らの姿を視界に入れる。
「国王陛下と王太子殿下にご挨拶申し上げます」
頭の先から足の先まで純白のヴェールに覆われたシェリエル。
彼女は先ほど精霊の姿でやって来たときと明らかに姿形が変わっている。
背丈は少し伸びたくらいで、身体はほとんどがヴェールに隠れている。
顔立ちが大きく変わったわけでもない。けれど、なぜだか精霊であったときよりも美しい。
その後ろに、法衣のような礼装のディディエと、純白の騎士服を纏ったリヒトが立っている。
たった三人であるが、だからこそ、その存在感は凄まじいもので。
王族であるふたりはゴクリと喉を鳴らした。
「……人、か?」
「はい。もうすっかり。ですので、これまでの褒賞を頂戴したく、今宵参上いたした次第にございます」
「なにを望む。申してみよ」
「ユリウス様を」
シェリエルは薄く微笑んだまま一切表情を変えずに言った。
強い意志の宿った瞳は精霊よりも威圧感がある。とても王に褒美をねだっているとは思えないほど、高圧的で傲慢な微笑みであった。
しかし、アルフレッドはフッと口端を解くように笑って目を伏せる。
「よかろう」
「陛下っ! それは……!」
「国が滅びるかは民次第。そうだろう? ベリアルド」
アルフレッドは諦めたように笑ってシェリエルを見る。
シェリエルは僅かに目を大きくして、アルフレッドにユリウスの面影を重ねた。
「ふふ。話が早くて助かります」
「ま、待てシェリエル! どういうことだ。兄上って、お前。まさか棺を開けるつもりか!?」
「はい」
「結界はどうなる! 精霊の力でどうにかなるのか!?」
「なりません。精霊にそのようなことができたなら、すでにノアがどうにかしていたでしょう」
アルフォンスはほとんど反射で喋っていた。
自分だって兄に会いたい。誰でもいいから救ってほしい。それでも、国が滅べば未来はない。
土地を捨て全国民を他国に逃すにはかなりの年月がかかる。移民受け入れのための根回しや交渉も必要であるし、何割かは移住をあきらめてこの地と共に朽ちるだろう。
自分たちは王族として国の最期を見届けなければならない。どうせ他国は乗っ取りを危惧して王族を受け入れてはくれないから。
「結界を失えば他国にも…… 世界にも影響が出るぞ。そうですよね、陛下」
「ああ。穢れは大陸中央にまで及ぶと聞いている。世界に点在する魔力核が均衡を崩し、緩やかに崩壊に向かうだろう」
魔力の濃い国には同じような魔力核が存在する。
垂れ流している国もあれば、オラステリアのように閉じているところもあり、核から離れるほどに魔力が薄くなっていく。
タリアは隣国でありながら魔力の少ない国である。それは、オラステリアが強力な結界で魔力も穢れも閉じ込めているということだ。
「悪いようには致しません。信じてください」
アルフォンスはグッと拳を握って国王とシェリエルの表情を交互に確かめている。
狂ったディディエを知っているアルフォンスにはとても彼らが善いモノだとは思えなかった。
アルフレッドはオフィーリアのことでシェリエルに特別な恩を感じているため、尊敬する父であってもこの判断が正しいと確信が持てない。
なにより、ベリアルドの「信じてください」ほど信用できないものはない。
「しかしだ。私が目を瞑るのは霊廟を開くことのみ。国が滅ぶならばその責任は取ってもらう」
つまり、ユリウスを解放しても国外逃亡は許さない。必ずこの地で共に滅べ、ということだ。
「はい、もちろんです。どちらにせよ、他国の方が危険な状況となるでしょう」
「シェリエル、どこまで知った?」
「だいたいのことは」
「勝算はあるのだな」
「陛下にお力添えいただけるのであれば」
「よろしい」
アルフレッドはスクと立ち上がり、ディディエと視線を合わせた。
ディディエはニコリと笑うだけで何も言わなかった。