24.眠れる森の悪魔
捨てたはずの感情がシェリエルの魂を酷使する。
触れられそうな距離まで来て、彼がもう人ではないのだと実感して、それが魂にヒビを入れるほどの苦しみをもたらした。
触れたい。言葉を交わしたい。
笑ってほしい。抱きしめてほしい。
幸せに、生きていてほしかった。
これが恋でなければ何だと言うのか。
シェリエルは感情が身体に及ぼす痛みまでも再現してしまった。
胸が押しつぶされるような痛みに血が昇るような圧迫感。
彼を愛おしく思えば、失ってしまったという喪失感が膨れ上がる。
魂が悲鳴をあげている。
削り、傷付き、鉄を打つように、ダイヤを研磨するように——酷使された魂は砕け散る寸前だった。
それでもシェリエルは一秒でも長くユリウスの側にいたくて、どうにか自分を保とうとする。
納得するために、苦しみを乗り越えるために、ヒトの思考で負の感情を抑え込もうとしている。
「シェリエル、壊れてしまうよ。戻ろう」
「……もう少しだけ」
「これ以上はいけない」
「これくらい…… 先生はもっと苦しいはずです。他人の、世界の負の感情をこうして浄化しているのでしょう?」
「君まで苦しむ必要はない。ベリアルドは共感しないのだろう?」
「ベリアルド…… でもわたしは」
呪いを持たないベリアルドだ。
スッと思考に劣等感と疎外感が割り込んで、同時に家族への想いが溢れてくる。
お母様…… もう少し甘えてみたかった。ビジネスパートナーのような始まりだったからか、それとも精神年齢のせいなのか、思い切り甘えたことがなかったから。
お爺様とももっといろんな話がしたかった。書斎で静かに考え事をしている姿が好きだった。いつでもスマートで、そんなお爺様が目尻に皺を寄せて笑ってくれると、愛されていると実感してすごく嬉しかった。
お父様にも、本当はものすごく感謝している。放任は信頼の証だと分かっている。でも、呪いのないわたしを本当に愛してくれていたのか、知りたかった。可愛くないことばかり言ってしまった。お父様に、もっと優しくしてあげればよかった。
お兄様……
「お兄様に、会いたい」
「彼なら、いつでも君の側にいるよ」
「はい。はい…… お兄様だけは、ずっと側に居てくれるって、信じているんです。甘えてしまった。お兄様の執着に甘えて、お兄様だけはずっとわたしを愛してくれるって思って……」
裏切ってしまった。自分だけ楽になって、お兄様がどんなに苦しむか……
それでもまだ、愛してくれていると信じられる。
微かに藤色の魔力を感じるのだ。どうしようもない人だけれど、そんな兄を愛している。
家族に貰った愛が、家族に対する愛が、シェリエルのひび割れた魂を修復していく。
人の身であったときもシェリエルが穢れを溜めずに済んだのは確かな愛を知っていたからだ。
離れたからこそ、失ったいまだからこそ、強く実感する。
ネージュはこの愛が満ちていく感覚を心地よく、懐かしく思って目を細めた。
魂が洗浄されたために前世の記憶は残り香程度しかないが、人を愛することに飢えている。
故に、精霊は人と契約したがる。
「完全に器を捨て、精霊としてディディエと契約するかい?」
「そんなことできるんですか? ネージュさんとの契約は」
「精霊同士であれば契約など必要ない。私とノアがそうであるように、意思の疎通は問題ないよ」
シエルはシェリエルが精霊であった方がより鮮明に意思の疎通ができるだろう。
そして、シェリエルは思考を残した霊体のまま、ユリウスの魂が朽ちるその時まで側に居ることができる。
「でも……」
シェリエルは柩のなかで眠るユリウスを見つめ、ゆっくりと首を振った。
この愛おしい寝顔はシェリエルの罪そのものである。彼女もまた、自らの失敗を受け入れることができない。
「わたし、やっぱりベリアルドみたいです。抜け殻の先生を眺めるだけなんて、満足できません。側に居られるだけでいいなんて思えない。お兄様とも一緒に年を重ねて、怒ったり泣いたり、笑ったりしたいもの。アリシアやイザベラお姉様とお茶をしたり、シャマルやジゼル、モーゼス、アロン…… リヒトと同じ世界で生きていきたいです」
「強欲だね。だが、今の君ではどれひとつとして叶わない。それは、分かってるだろう?」
魂はいまの間にも強度を増している。器に戻ったところで肉体がこの魔力に耐えられず、戻った瞬間に身体は石化して粉々に砕け散るだろう。
「それでも、わたしはシェリエル・ベリアルドです。全部手に入れたいし、何も奪われたくない。わたし自身にも何ひとつ奪わせやしないわ」
すべてを——自らの生までも失ったいま、人の情というものが恋しくて仕方ない。
シェリエルは自分の人生を愛していた。
家族を、友人を、信頼する側近たちを、愛していた。
そして。
「嗚呼、これが渇きというものか……」
精霊として、欠落を実感する。
強度を増していく魂は次第に人の感覚から離れ、かつて持っていた人としての人生や愛に飢えを感じている。
知っているからこそ、失ったからこそ、欠落を感じるのである。
——今度は自らの意思で感情に苦しむ思考を切り離した。
戦略的撤退である。内在世界がすべての存在になったいま、自身のすべてを完璧にコントロールできるようになっていた。
「それは?」
「VMですかね? 内部の構造は知らないので、形だけ」
身体を実体化するのと同じ要領で内在世界も可視化できた。
目の前には透け感のあるブラックのスクリーンが五つほど。
これまで器の耐久性に合わせて魔力の供給が限られていた。が、いまは剥き出しの魂だ。
世界は変えられなくても、自分は変えられる。
魔力で再現した脳であるならば、感情を処理している部分を切り出してしまえばいい。
情報としては残しつつも、それに伴う身体の痛みや動悸、不調と捉えられるすべての感覚を閉じていく。
どうすれば良いのかは本能が知っていた。ネージュが完全にシェリエルを閉じる前、彼女は心を守るために無意識下で少しずつ感覚を切り離していたから。
かつてユリウスが感情を閉じたのも、こういうことだったのかもしれない。
「お揃いですね、先生」
痛みは警告である。
その警告を切り、極限まで思考を引き上げた。
仮想脳だと考えていたVMはそれほど多くはない。代わりに、CPUコアとメモリが信じられないくらい増大している。
こんなもの、人の脳が耐えられるわけがない。生まれたときからこの仮想サーバーをメインで使っていたのだ。
だから、洗浄しきれなかった前世の脳をも使うことができた。
「……? ああ、なんだ…… ふふ、お兄様もユリウス先生も、騙されたわね」
メインサーバーのOS——すなわちシェリエルの脳機能には前頭前皮質の一部の機能が申し訳程度しか備わっていない。
これがベリアルドの呪いである。
遺伝的な脳の欠陥であり、魔力でそれを補完するどころか、リミッターを外して最大限に脳を使えるようにしている。
「お揃いよ、お兄様……」
シェリエルはお揃いの欠陥を嬉しく思う。
仲間外れにされたような心地がして、ひどく寂しかったから。
しかしである。シェリエルはすでにベリアルドの域を超えている。
ベリアルドではできなかったことも今ならできるだろう。
手始めに先ほどの映画館がなんだったのか自身のサーバー内を調べてみる。が、それらしい記録は見当たらない。
基本的にデータベースというものはそれらしいテーブル名が付いているのでザッと見ればなにが保存されているのか分かるのだ。
しかもそれが自分で構築したものなら、分からない命名をするはずがない。
「アレは、わたしの記憶では無い? 世界の記憶? いや、記憶ではないのか」
なぜなら、あの映画たちのなかには未来の物語もあった。記憶、記録は過去でしかない。
ならば……
「理はシステムとも言える。神が自分に模して人を造ったというのは、あながち間違いではないのかもしれない」
シェリエルは世界を巨大なサーバーであると考えた。
彼女が絵描きであったならレイヤーとかキャンバスに例えたかもしれない。
彼女が小説家であったなら膨大な物語に例えたかもしれない。
しかし、彼女はプログラマであった。
そして、システムを扱うプログラマは“仕組み”と特別相性が良かった。
「あれは世界が持つ情報を使って、世界が予測したIFの未来——」
シェリエルが生まれた時点で存在した人間の行動予測。遺伝と環境、社会情勢すべてが集まる神のデータベースがあれば、理論上は可能である。
「……そこに、わたしはアクセスした。魔力属性はアクセス権限なのか。あの死の夢も。全の属性で、精霊になりかけていたわたしは…… 人の器に馴染むまで世界のシステムに触れることができた」
生まれてすぐに繰り返し見た未来の死の夢。
あれは辿るべき運命ではなく、あの時点で最も可能性の高い未来の予測であったのだ。
そしていま、精霊となって他の未来も参照することができた。
「なるほど。なら、他にも出来ることがあるはず」
生命活動に割くリソースは器に少しだけ残しているため、すべてを思考に使うことができる。
ちょうどここには世界に繋がる神樹もある。
シェリエルは世界の仕様を紐解きはじめた。
柩の隣、真っ黒な木の根に腰を下ろす。
この神樹は結界の核だと言っていた。個人に許された魔法ではなく、国を支える大きな魔導具だ。
ならば、これは世界というメインサーバーで動く複雑なシステムだと言えないか。
意識を霊廟に向ければ、刻み込まれた魔法陣をすべて見ることができた。
霊体であるために魔力との親和性が上がっている。
核というだけあってやはり複雑で膨大なソースだった。処理を追う前にクラス化しないといけない。
それには全体を知る必要があって……
シェリエルは意識を外に向ける。
精霊に物理的な距離は関係ないから。魔力の次元を経由すれば密室でなければどこにでもいける。
上空からオラステリア全土を眺め、あまりの複雑さにしばし沈黙。
壱式大祓のための陣と重なっているし、なにより全体を見渡すほど離れると今度は縮小されすぎて何がなにやら分からない。
全知全能ではないのだ。
けれど、生前よりかなり多くの情報が集まった。
シェリエルはひとつひとつの処理を関数に、おおきなシステムをライブラリに置き換えていく。
ライブラリや関数が揃えば、解析だって楽になる。
そのまま、シェリエルは天を見上げる。
なんだか嫌な予感がしたのだ。合併を繰り返した銀行システムなどは思わぬところに思わぬ処理が残っていたりするから。
「うわ……」
空にもびっしりと魔法陣が張り巡らされている。
たしかに、これをすべて解析するなんて無理かもしれない。
彼女は精霊であっても神ではないから。
サーバーから直接処理を参照しようとしても、コアな処理は完全に隠蔽されている。
ひとつのシステムですらこうなのだから、世界を構築するOSにあたる部分などは一切参照できなかった。
いわゆる、ブラックボックスだ。まあ、普通に考えれば当たり前のことである。
精霊なんて特に倫理観と無縁なのだから、気まぐれに修正できてしまったら大変なことになる。
つまり、世界を改変することは不可能だということ。
世界の存続に関わるシステムも改修することはできない。
世界はそんなに簡単ではなかった。
けれども、世界は寛容だった。
魔力を持つものにはAPIを用意していくれている。
それが、魔法であり魔術である。
シェリエルは一通り魔法陣を読み取ると、神樹の丘に戻ってきた。
「え、あれ? シエル!」
物理世界でどれだけ時間が経ったのか分からないが、丘にはスカイブルーのドラゴンが横たわっていた。
肉体が滅んでも魂で繋がっている。それどころか念話のようにおしゃべりだってできた。シエルはそれをものすごく喜んでくれた。
当の肉体はと言うと、神樹の幹に寄りかかるように座っている。
なんだか不思議な心地がして近くに寄ってみた。
客観的に見ても上等の美人に育っている。
「ネージュさん、これは?」
「君の魂に引き寄せられたんだろう」
「あの、申し訳ないのですけど、適度に運動させておいてもらえませんか。わたしはなぜか干渉できないみたいで」
「それは構わないけれど。先にも言ったように、君の魂はもうこの器では耐えられないよ」
「でも、せっかく美しく生まれたので。たとえお人形でも美人な方がいいでしょう?」
「?」
「ガリガリに痩せ細るのは美しいとは言えないので」
「???」
ネージュは心底分からないと言いたげに耳を立て、少しだけ首を傾けたまま「まあ、君のものだからね」と了承した。
シェリエルはそれに満足し、自分の身体のすぐ隣で、木の幹に手をあてる。
「先生、少しお借りしますね」
通り抜けるためではない。
処理を一部抜き出し、それをもとに新たな魔術を創り出す。
これはただのお試し実装だ。
新しいライブラリやフレームワークを使ってどんなことができるのか試すための試作のようなもの。
この日、オラステリアに黒い雨が降った。
空白の祝祭に——穢れの雨が。
彼女は精霊でありながら、人の思考を残し。
人の思考を持ちながら、人としては欠落している。
欠落しながら、人の領域を超えた力を手にした。
それは聖人か、精霊か、神か。
否、眠れる悪魔が目を覚ましたのだ。
ベリアルドの呪いは国を揺るがす才を発揮する。