13.曖昧な心臓
翌日、傷こそないもののボロボロのお終い状態になってしまったディディエは王宮を訪れていた。
昨日は大変だった。
シェリエルは神樹に寄りかかったまま身じろぎひとつせず、とんでもないガーディアンを両脇に構えた置物になってしまったから。
帰りたくても帰れない。
仕方なく珍しい植物を採取したり、見たこともない精霊を追いかけたりして過ごしていた。
しかし過酷な運動の後というのもあって、昼過ぎになれば腹は減る。
携帯食を用意していたリヒトに食事の世話をされ、シェリエルにはチョコレートのタブレットを突っ込み、小腹を満たしてまた散策。
夜になってもシェリエルは動かず、無理やり引っ張っていっても今度はシエルが言うことを聞かない。
結局また神樹の近くに戻って火を焚き、リヒトとふたりでよじよじと精霊とシェリエルの合間に潜り込んで暖を取った。
そうこうしながら夜も更け、シェリエルが動いたのは本当ならシェリエルが寝る時間より少し前。
スクッと立ち上がったかと思うとまた全速力でシエルの元へと走りだす。
ふたりは慌てて火の始末をして、ギャアギャア叫びながらシエルに飛び乗り、なんとか城へと戻れたのだった。
さすがに疲れた。学院戦より疲れた。あの頃より格段に体力が落ちているし。
日頃の陰気な暴れ方とは比べ物にならない運動量で、ディディエはお風呂でうつらうつらしながら身体を温め、着替えを済ませるとシェリエルの部屋に行く途中でパタンと気絶したように眠ってしまった。
そして今朝、目覚めたときにはシェリエルはまた姿を消していた。
リヒトも居ないのでまた森に行ったのだろう。
これ以上は体力が持たないので、こうして王宮にやって来たというわけである。
「——というわけなんだ、オウェンス君。それで、お願いなんだけど。神樹に続く転移門、僕に貸してくれない? あのとき転移門を使って迎えに来てくれたよね?」
「たしかに神樹に繋がる転移門は魔導具にしていただいております。しかし、こればかりはディディエ様のお願いでも承知しかねますね」
「うーん。どうせ死ぬんだろ? 形見分けってことでさ」
「あそこは王族の土地であり、そのように出入りして良い場所ではありません。陛下の許可が必要になります」
「陛下の許可なら貰って来た」
「なんと」
オウェンスとエリックは同じように目をまん丸にして口元に手をあてる。
たしかにあそこは国の最重要機密に値する秘められた場所だ。だが、そこに家出娘がドラゴンで日参しているのだから、出入りの許可など今更である。
誰がドラゴンを止められようか。
ともすれば不法侵入した身内を連れ戻すための必要な措置である。
「悪用はしない。約束する」
「ディディエ様は善悪の区別が付かないでしょう?」
「失礼だな、それくらいは分かる。分かってやってるから心配しないで」
「ふーむ、困りましたね」
「そういえば、心臓の移植は目処が立ってないんだろ」
「ええ。ヨハン様にはシェリエル様の許可がないと、と断られてしまい」
「悪かったね。僕もこうなるとは思ってなくて」
「いえ、私どもの我儘ですから。大人しく主の後を追うほかないのかもしれません」
「そのことなんだけどさ。もうちょっと待ってよ。シェリエルが元に戻るまで、オウェンスには生きててほしいんだ」
「……私、ですか?」
「うん。シェリエルが悪魔の森にこだわる以上、少しでもあの土地に詳しい人が必要だ。また行方不明になるかもしれないし、なにかあったときには古城を使わせてもらいたい」
「なるほど」
あまりにも身勝手なお願いだった。
交渉ですらないただの要求。
ディディエはそれをこともなげに言って、当然この要求を受け入れてもらえると思っている。
事実、オウェンスは首を縦に振った。
できるならばこの健康な心臓をエリックに譲りたい。そして、主の名と生きた証を少しでもこの世に残したい。
その強い思いがあるために、ディディエのお願いを無下にはできない。それが自分の生きる言い訳になるのでれば尚更のこと。
「ありがと。大事にするね」
ディディエはさも当然というようにオウェンスから指輪を受け取り、自分の中指にはめた。
まるでここに在るべきというくらいしっくり来る。ユリウスはこの指輪がこうしてディディエに渡ることも予想していたらしい。
最期はディディエとシェリエルに見送られると予想して迎えのための魔導具を用意し、オウェンスを古城に待機させていた。
指輪はディディエの好むゴツゴツとしたゴシックな意匠で、他の指輪や太い鎖のようなブレスレットによく馴染んでいる。
「よくお似合いです、ディディエ様」
「あいつ、本当に嫌な奴だな。最初から僕に渡せばいいのに」
「ええ。優しい方でした」
これでディディエは彼らに借りができてしまった。
ユリウスに頼まれてはいたけど、口約束みたいなものだったし。ディディエには利がないので無視することもできたのに。
「お別れはできたの? ユリウスと」
「はい。ユリウス様が民の前に立つ直前まで、私とエリックにお時間をいただきました」
「そう、よかったね」
「私はあまりユリウス様とお話しする機会もなかったので。ほとんど引き継ぎのようなものでしたが、とても…… はい」
オウェンスとエリックはつい昨日のことのようにあの夜を思って、しばし目と口を閉じた。
ディディエはそのひとときを壊さないように静かにオウェンスの淹れた紅茶を飲んでいる。
こうして神樹までの直通転移門を手に入れたディディエは夕食の時間になると自室から森までをひと跨ぎし、シェリエルとリヒトを城に連れ戻すことに成功した。
それでもシェリエルは毎朝あの悪魔の森へと向かうのだろう。
ちゃんと暖かくして、少しでも食事をして、夜は自分の腕のなかで眠ってくれればそれでいい。
いま叶うことはそれくらいしかないから。
叶わない望みは持つだけ心を蝕むから。
諦めに似た心地で、家出娘を連れ戻す日々が始まった。
◆
今年、ベリアルド侯爵家は新年の挨拶も最低限にしていたが、唯一他領から招いた客人がいた。
ロランス侯爵夫人キャロラインと、その娘アリシアである。
ディオールとキャロラインは早速サロンに篭り、アリシアはディディエに温室を案内してもらっている。
好きな人とふたりきりの時間。ジリジリと内臓を炙るような緊張やトキメキがないと言えば嘘になる。
それでも手放しでこの時間を喜ぶことはできなかった。
「ディディエ様、シェリエルは……」
「あー…… いまは、少し出かけてる。夜には戻るから晩餐のときに会えるよ」
「そう、ですか」
あの状態で? もう良くなったのかしら……
けれど、それを素直に口に出すのは躊躇われる。
少し前を歩く彼は、なにかひとつでも間違うと壊れてしまいそうな危うさがあったから。
「僕だけじゃ不満?」
「いえ。ただ、心配で。学院ではなんとかやり過ごしましたけれど……」
「ありがとね。アリシアが同じように周りを遮断してくれたからシェリエルが悪目立ちしなかった。助かったよ」
ふ、と立ち止まって振り返るディディエ。柔らかい微笑みが冬の日差しによく映える。
穏やかなようで、どこか歪。
「アリシアは優しいね」
「え」
「シェリエルを気にかけてくれてありがとう」
ディディエはプチ、と花を摘み取ってアリシアの前へと三歩足を進める。
花を持ったまま中指で髪をさらりと撫で、耳にかけるようにして髪の流れを整えると一輪の花をアリシアの耳に挿した。
「似合ってる」
僅かに右の頬だけ上げるような笑い方をするディディエがいつもよりグッと大人に見えた。
ただでさえ細い顔がさらに肉を落とし、ゴツゴツとした輪郭や首筋が“大人の男”を強調している。
嫌でも異性を意識させられ、思わず頬に熱が集まった。ときめいている場合ではないのに、どうしてかこの心臓は言うことをきかない。
アリシアは親友を裏切っているような心地がして、意識的に彼女の名前を口に出す。
「シェリエルは……」
「うん?」
「いえ。晩餐が楽しみです」
「うん…… シェリエルもきっと楽しみにしてるよ」
疲労感のある優しい微笑み。キュッと心臓が痛んで、無意識にディディエの手を取っていた。指先で引っ掛けるように、軽く。
するとアリシアの指先はディディエの大きな手にしっかり包まれ、ついでにというぐらい自然に身体を引き寄せられた。
トン、と彼の胸に寄りかかるように向かい合う。
「アリシア、しばらく居られるんだよね?」
「はい」
「夜はダメだけど、それ以外はふたりで過ごそうね」
「よろしいのですか? お忙しいのでは」
「大丈夫だよ。少し執務が入るかもしれないけど」
ディディエは軽くおでこにキスをして、「約束ね」と笑った。
毒気のない優しい甘さに、むしろ不安は募るばかりである。
夜、晩餐の席に着く。
アリシアは少し緊張していた。もう十日以上シェリエルには会っていなくて、学院で彼女はまるで別人のようになっていたから。
セルジオとディオールはとくに変わりなく、キャロラインも美容の話で盛り上がっている。
すでに上等の葡萄酒が振る舞われて大人は上機嫌だった。
そこに、ディディエがシェリエルをエスコートして入ってくる。
「シェリエル……」
「……」
ひと目見た瞬間、彼女があのときのままなのだと理解した。
瞳はボーッと一点に留められたままで、見えているのかいないのか。声をかけても反応はない。
ディディエはシェリエルを席まで連れて行くと、椅子を引いて座らせてやっていた。
正面に座ったシェリエルはフォークを握らさられ、食前の挨拶を待たずにプスと小さく切られた肉に突き立てた。
ギョッとしたのはキャロラインだった。
楽しく談笑していたディオールは「気にしないで、無作法は大目に見てちょうだい」と、なんでもないように言うだけで、他にはなんの説明も弁解もない。
給仕をしているメイドはなるべくシェリエルを見ないようにしているし、壁際に控える使用人も口を挟むことはなかった。
ディディエはそんなシェリエルの頭を優しく撫でたあと、そのまま彼女の隣の席に着いた。
「ま、見ての通り相変わらずなんだ。食事をしてくれるだけよかったよ」
「そう、ですね……」
知っていたはずなのにひどく動揺した。学院ではこのシェリエルを守らなければ、とあれほど気を張っていたはずなのに。
「アリシア、朝と夕食しかシェリエルには会えないけど、それでも会ってあげてくれる?」
「はい、もちろんです」
「ありがとう」
ほろりと笑うディディエはどう見てもつらそうで、彼だけが疲弊しているこの家族が不気味にすら思えた。
しかし、二日、三日となるとこれにも慣れてくる。
ディオールは夕食後のお茶の時間、必ずシェリエルを同席させていた。たまに手を握ったり、頭を撫でたり、以前よりもむしろ距離感が近くなっているようで、無関心ではないのだと思うとホッとした。
母キャロラインも最初こそ動揺していたが、翌日からはすんなり受け入れたようだった。
そうやって早朝と夕食、少しのお茶の時間にシェリエルと過ごしていた。
——どうしてこんなふうになってしまったのかしら。
アリシアはすでに“忘れたこと”すら忘れかけている。
シェリエルに対する説明のつかない罪悪感。
心配で少しでも近くにいたいという純粋な親愛。
これからのことを不安に思いながら、こうして毎日シェリエルの早起きにも付き合った。
「前はあんなにお寝坊さんだったのに……」
早朝、まだ明るくなる前の薄暗い時間に、シェリエルの部屋に招かれる。
ガウンを羽織ったディディエがシェリエルを抱えたまま、熱い紅茶を冷ましていた。
アリシアは向かいに座って一緒に紅茶を飲む。それがここに来て数日のお決まりになっているのだ。
「シェリエルはこの朝早くからどこに出かけているのですか?」
「悪魔の森だよ」
「悪魔の…… 森」
「そう。ホント、大変だったんだから。……部屋に閉じ込めてもいいんだけどさ。あんまり魔法も使えないみたいだし、閉じ込めること自体は簡単なんだけど」
「……そうなのですね」
悪魔の森に通うなんて危険すぎる。
アリシアにとっては魔境とか魔窟とか、とにかく想像もつかないくらい恐ろしい場所だった。
幼い頃から聞かされてきた御伽話の舞台であり、魔物が自然発生するほど魔力と穢れの濃い場所。そんなところにシェリエルを向かわせるくらいなら、監禁でも幽閉でもしてしまったほうがいいのではないか。
アリシアがそう思うくらい、悪魔の森というのは大変なところなのだ。
「鍵でもかければ、最初は出ようとするけどそのうちおとなしくなるんだよね。でも、一度失敗したから。行きたいなら、行かせてあげるべきかなって」
「失敗?」
「うん。一度監禁してみたんだ。そしたら壊れちゃって。あ、こうなったのも僕のせいなんだよね。はは、どうしよ」
「……」
アリシアにはその真偽が分からない。
けれど責めるような気持ちにはなれず、無言でふたりを見つめている。
「……なんてね。まあ、こんな妹だけど、退屈してるかもしれないから、アリシアが遊びに来てくれると嬉しいよ。また、いつでも会いに来てやって」
「はい、もちろんです」
「明日、帰るんだよね」
「ええ」
「このあと僕の部屋に来ない?」
「……あ、いえ」
ドクンッと心臓が跳ねて、鼓動を激しく鳴らしたまま甘い声を聞き続ける。
「今日はゆっくりできるから。温室も飽きたでしょ。ね、アリシア」
「……」
トキメキなのか恐怖なのか。
怖いのか、恋しいのか、緊張しているのか、喜んでいるのか。
彼のために鳴る心臓はいつも曖昧だ。
ただ、彼がシェリエルの前でそういった誘い文句を口にしたことがショックで、心配で、彼をひとりにはしておけないと思ってしまう。
この人は……
もう、シェリエルを諦めてしまったのだろうか。
いつもなら絶対に、シェリエルの前でこんなこと言わないのに。
兄の顔で「退屈しているかもしれない」なんて言いながら、男の顔で部屋に誘う。
狂気を完璧に隠蔽した——甘くて、人を魅了する微笑みであった。
「……ディディエ様の温室を見せていただけませんか。シェリエルから珍しい植物があると聞いて、ずっと気になっていたんです」
アリシアがニコリと笑うと、ソレは一瞬フッと邪悪な笑みを見せてから、「いいよ」と言った。