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眠れる森の悪魔  作者: 鹿条シキ
最終章 眠れる森の悪魔
426/469

12.はじまりの日


 祝祭が明けて新年最初の日に、シェリエルは上司のヒステリーより唐突に戻ってきた。

 帰りますの連絡もなく、しかし裏庭にドラゴンを横付けにしての帰宅だったためにその轟音は凄まじいもので——


「シェリエル様だ!」

「シェリエル様がお戻りになった!」

「セルジオ様にお知らせしろ!」

「ドラゴンが帰ってきた!」


 当然、城内の全員が同時に知ることになる。

 メイドも、常勤の衛兵たちも、仕事初めの挨拶をしていた側近たちも、暴風のなかでどれほど安堵したことか。

 ちょうど麻酔の切れかけたディディエも瞬時に飛び起きて城を全速力で駆け出していた。

 転げるような勢いでシェリエルの部屋に一番近い裏口へと向かい、そこでやっと、久しぶりに人らしく息をすることができた。


「ッ、ハァ…… シェリエルッ! どこ行ってたの!」

「……」

「なんとか言えよ脱走兵」


 目を合わせることもなく、黙ってディディエの横を通り過ぎるシェリエル。

 ディディエは斬首されたみたいにカクンと頭を落として顔をくしゃくしゃにする。

 唇は震えていて、けれども目尻は下がっていた。

 怒っているし、傷ついている。帰ってきてくれたことが嬉しかった。

 言いたいことはたくさんあったけれど、言っても仕方ないという気持ちでグッと堪えた。

 拳を握ってフーッ、と長く息の塊を吐き出し、「待って、シェリエル」と、愛しい妹の後を追う。

 もう一瞬でも目を離すまい。次は帰ってくる保証もないのだから。

 死なせるよりマシだと思っていたのに、近頃はそうも言えなくなっている。





 シエルはというと、シェリエルをおろしたあと、用意してもらった寝床へ——は戻らず、そのままクレイラの火山帯に向かうことにした。

 一応、シエルは城の裏手にある山を一部削って小さな寝床を作ってもらっている。学院の訓練場ほどの広さではあるが、それでもシエルは身体を丸めてやっと収まるというくらいで、彼には狭すぎるし寒すぎる。

 賢いドラゴンことシエルは一瞬故郷へ戻ることも考えたが、せっかくなのでクレイラで過ごすことにしたのだ。

 暖かいし、魔力も故郷には劣るが都市部とは比べものにならないくらい濃い溜まり場がある。

 それに、なんと言ってもクレイラといえばバカンスだ。この時期は悪魔の森よりも暖かく、ドラゴンが冬を暖かく過ごすための聖地になっている。

 かくしてシエルはなんだか大人になったような心地でフンフン鼻を鳴らしながら大空を舞っていた。

 あの場所が親に捨てられた、あるいは生き別れた悲しい場所ではなく、仲間の居る温かい場所だと思えることが嬉しかった。

 あそこはもう、シエルにとっては大好きなシェリエルと出会った「思い出の場所」になっている。

 いつかはよく分からないままワイバーンを追いかけたこともあった。

 いまもアレがなんだったのかよく分かっていないが、なんとなく野性に還る訓練だったのかなと思っている。

 捕食はドラゴンにとってオヤツとか娯楽の類であるが、大地の魔力だけで生きるドラゴンは老いるのが早いらしい。

 先輩ドラゴンには筋が良いと褒められたこともあり、シェリエルとクレイラのワイバーンたちには感謝している。

 それでも目の前でふよふよ飛んでいるのを見かけるとつい本能で追いかけてしまうのだが。


 そういえば、このあいだ食べたおっきな魔力は少し苦くてエグみが強かったけれど、ちょっと癖になる味だった。なんならまた食べたいくらい。これが大人の味ってやつか。

 なんてことを思いながら。

 お腹は空いてないし、シェリエルともずっと一緒だったし。いまも繋がっている感覚があって、少々離れていても寂しくない。契約してよかった。置いていかれてものすごく寂しかったから。

 いつかお別れが来ても、この魂はシェリエルを覚えていられるという確信めいたものがある。

 シエルはいまが一番幸せだった。

 もうシェリエルから魂が引きちぎられるような悲しみや、鱗に霜がおりるような辛い気持ちも流れ込んで来ることもない。

 彼女の魂はいま、あのいけすかない黒い奴みたいにどこまでも凪いでいて穏やかだから。





「ディディエ様、入浴はわたくしたちにお任せください。さすがに」

「いや、僕も付いていく。この目で見張ってないと安心できない」

「いけません! いくらご兄妹とはいえ、それだけは!」

「じゃあお前たちに責任が取れるのか? もし入浴中にシェリエルが消えたら? 命で償えるほどの価値がお前たちにあるとは思えないけど」

「マルゴット様を呼びますよ」

「扉の前で待ってるから何かあったら知らせて」


 ディディエは浴室の扉を閉めてリヒトの隣に並び、目の前の壁を真っ直ぐに睨み付ける。

 リヒトは護衛として立っているだけでディディエとはなんの関係もないので、特に声はかけなかった。

 元より雑談をするような間柄でもないためリヒトの対応は正しいのだが、ディディエはメイドたちに閉め出されたせいで気が立っている。


「おい役立たず、僕になにか言うことはないのか」

「はい……?」

「専属の護衛騎士のくせにどうしてシェリエルを見失ったりしたんだ」


 ただの八つ当たりだ。謝罪しか返ってこないと分かりながらもリヒトを詰って時間を潰している。


「途中で振り落とされました」

「は? なにそれ、聞いてないんだけど」

「聞かれなかったので……」

「いや、聞いたよね? 僕、シェリエルはどこに行ったんだって聞いたよ?」

「どこに行かれたのかまでは分からなかったので……」

「待て待て、お前、もしかしてシェリエルが脱走したとき気付いてたのか?」

「はい」

「それで付いて行った?」

「はい」

「シェリエルと一緒にドラゴンに乗ったはいいけど、途中で落とされたってコト?」

「はい」

「言えよ〜」

「も、申し訳ありません」

「まあ、それを聞いたところで結局行き先は分からなかったんだけど」

「はい」

「やっぱ役立たずじゃないか。護衛としてどうなの? やる気あるのか反省しろ」

「申し訳ありませんでした」


 リヒトはこれでもかなり落ち込んでいる。

 シェリエルが消えた日、リヒトだけは夜中に目を覚ましたシェリエルに気付いていた。

 ディディエの言うとおり彼女を追い、シエルになんとかよじ登ったが、リヒトは魔術が得意でないためにすぐに落下してしまったのだ。

 シェリエルに落とされたわけでもなし。単なる力不足である。

 それゆえに、主をボロボロになるまでひとりにしてしまったことを強く後悔していた。ディディエにしつこく詰られても謝罪するほかなく、いまは立番をしながら魔力循環の訓練をしている。

 要するにあまり真面目には聞いていない。言われなくても分かっているし、人に責められるのは自分には過ぎた赦しの機会だと思っているから。

 お前がいけないんだと責められれば反論することもでき、謝罪すればそれは終わったことになる。

 誰より辛いのはディディエだろう。

 だって誰もディディエを責めようとはしない。誰もディディエが悪いとは思っていない。

 だからディディエは誰に反論することも赦しを得ることもできずに、罪悪の念を拗らせ続けている。

 リヒトにできることは魔法の訓練をすることと、主の兄から文句を言われることくらいなのだ。



 浴室ではメアリとサラがふたりでシェリエルを頭の先から足の爪先まできれいに洗い上げていた。

 五日間なにも食べていなかったのか肋がボコボコと浮いている。それでも腹筋を縦に割るにしなやかな一本筋は健在で、女性らしい皮下脂肪だけが消費されていた。

 寝たきりで衰えた身体ともまた違う、過酷な跡が残る少年兵のような身体だった。


「メアリ、身体に傷はないようです」

「そう、よかった…… シェリエル様、こちらをお飲みください。脱水症状になりかけています」

「お湯は熱めにして時間を短くしましょう」


 メアリが洗髪している間にサラがシルクの布で身体を洗い、ブラシで爪の間に入った泥を落とす。

 生傷はないものの、いくつか紫色の痣があった。シェリエルの治癒力であれば一晩で消えるはずなので、戻る直前に内出血があったということになる。

 肌は乾燥していて丁寧に洗わなければ皮膚が割れてしまいそうだった。

 ふたりはやっと戻った主の身体を労り癒すように整えていく。彼女たちにできることはそれくらいしか無いから。




「遅い!」


 浴室から出てきたポカポカのシェリエルをディディエがぎゅっと抱きしめて、そのまま肩に担ぐように抱き上げ、ふたりのメイドに「で? どうだった?」とシェリエルの状態をたしかめる。


「内出血が右の腕と肩、左の太腿とくるぶしにありました。傷は治った痕があり、これは木に引っ掛けたものだと思われます。剣やナイフのような鋭利な傷跡は見られませんでした」

「木? やっぱり森にでも入ってたのか」

「食事はとられていなかったようなので、療養食を用意いたします。ディディエ様、許可を」

「許可する。薬草は好きに使っていい。ただし何にどれだけどう使ったかはすべて記載するように」

「かしこまりました」


 メアリは頭を下げてからすぐに調理場の方へ早足で歩き出す。サラはディディエに付き添い、そのうしろをリヒトが歩いた。

 シェリエルは石鹸の香りを漂わせて、大人しくディディエに担がれている。ディディエはギュッと腕に力を込めた。


「シェリエル、見て。黒い雨だよ」


 断続的に過ぎ去る窓の景色は黒ずんでいる。黒い雨は世界を灰色にして、昼間なのに薄暗い。

 時折パラパラパラ……と、風が窓を鳴らし。

 ガラスに黒ずんだ模様を描いている。

 シェリエルが追い求めた黒が降っているというのに、彼女はそれに見向きもしない。

 涙ひとつ溢さず、眉ひとつ動かさない。


 ディディエはシェリエルを寝台に降ろすと、布団でぐるぐる巻きにしてから自身も靴を脱いで上がり込む。

 手と足で抱え込むようにしてもこもこのシェリエルをガッチリと捕縛した。

 布団の塊から頭だけ出したシェリエルは抵抗することなく置き物みたいに大人しくしている。

 これでどこにも行けないだろう。絶対にどこにも行かせないという強い意思でディディエはシェリエルを抱きしめた。




「お食事の準備が…… ディディエ様、それは……?」

「レシピをよこせ」

「こ、こちらに」


 ディディエはシェリエルを抱えたまま紙を受け取り、シェリエルを抱えたまま目を通す。

 メアリは雪だるまのようになってしまったシェリエルに目をパチパチさせ、有無を言わせぬディディエに口をパクパクさせている。


「うん。ヤマリナの実はこれの倍入れてもいい。カロ・ハーメアは滋養に良いけど蜂蜜と相性が悪いから菓子は気をつけるように」

「はい。そのように伝えておきます。では、あの。ディディエ様」

「なに? 僕が食べさせるから下がっていいよ」

「その格好で、ですか?」

「そうだよ。文句ある? ついでに僕の食事も用意してくれ。これからずっとここで過ごすから」

「は…… い」


 思わず「は?」と言ってしまうところだったが、メアリは出来るメイドなので寸前で了承の返事に整えることができた。

 ディディエの奇行がいまに始まったことではないにしても、これはあんまりだ。

 それをディディエも理解しているのか、病んだ瞳で睨み返す。


「いいか? ひと月近くシェリエルの世話をしてたのは僕だ。僕が一番シェリエルのことを分かってるし、部外者のいないこの部屋で外聞や礼儀作法を気にする必要はない。お前たちが部外者になりたいなら話は別だけど」

「失礼いたしました。仰せのままに」


 メアリが深々と頭を下げると、その後ろでサラが倣うように頭を下げる。

 こうしてディディエはシェリエルを独り占めすることに成功した。そして、久しぶりに自主的に食事をとり、安心を抱きしめながら眠った。


 が、人生そんなに甘くない。

 翌日、と言うよりも日が昇るより前のまだ暗い時間。

 腕の中でスヤスヤ寝ていたシェリエルがパチと目を覚まし、もぞもぞ動き出したかと思うとディディエの腕ごと布団を跳ね除けて寝台を抜け出したのだ。


「うぇ、待って…… え、どこ行くの。待ってよ!」


 シェリエルは勝手に衣装部屋に入ると簡単な騎士服に着替えだす。

 シンプルなシャツを着て、のそのそボタンをとめ、ズボンを履いてベルトを締める。その上から胸元まであるコルセット——ビスチェをあて、フロントのホックを三つ合わせると背面の編み上げリボンをウエストから絞るように締めた。

 これでシェリエルの体幹は外からも強化され、空気が入り込まないので温かい。上からショートジャケットを羽織れば見た目は騎士のそれである。


「って、早ッ! 待って、待って。ちょっと、シェリエル!」


 ディディエはなんとかシェリエルを寝台に戻そうとするが、彼女には手加減という概念など残っていないらしい。彼は壁まで吹っ飛ばされるかズルズル引き摺られるだけで、まるっきり無視されている。

 あとはロングブーツを履いてローブを羽織るだけ。メイドに着付けて貰わなくても簡単に着られる服が仇となった。

 ディディエは明日にでもデヴィッドに苦情を入れようと思った。


 そうしてシェリエルは難なく着替え終わり、衣装部屋にはお出かけ準備が整ったシェリエルと寝巻きのディディエだけになる。


「あー!もう! 分かったよ。付いてく! 付いてくからちょっと待って。着替えさせてよ。え、それも無視? やっぱ聞こえてないのかな。待って待って。置いてかないで!」


 ディディエはよろよろ立ち上がって適当にシェリエルのローブを二枚重ねて羽織り、慌ててシェリエルの後を追った。

 この騒ぎでメアリとサラは起きて来たが、リヒトの姿が見えない。「あいつは本当に使えないな!」と憤っていたのも束の間。

 裏庭では討伐にでも行くのかという万全の装備でキリッと立つリヒトが待っていた。

 前回はローブを取りに行く余裕もなく、いまのディディエのように着の身着のままで後を追うことになったために同じ失敗はしないで済んだのだ。


「え、ズルい。僕なんてこの下、寝巻きなんだけど」

「一応、お着替えをお持ちしておりますが」

「お前は出来る奴だよ。シェリエルの騎士をやめたら僕のところにおいで」

「いえ、結構です」


 リヒトは食い気味に答えると黙々と歩くシェリエルの後を追って森に入る。

 森と言っても城の裏手にある小さな山である。目指すはシエルの寝所だろう。転移で移動されるとまた置いて行かれることになるが、シェリエルは人形のようになって帰ってきてから、ほとんど魔法を使っていなかった。

 魔法を使ったのはディディエが頬をぶん殴ろうとしたあの時だけ。

 それ以来、水を出すことさえせず、ディディエが念話で呼びかけても反応はないし、ああやって布団でぐるぐる巻きにされても転移で抜け出そうとはしなかった。

 いまも、愚直に自分の足で木々の合間を一定の速度で歩いている。


「前もこんな感じだったのか?」

「はい」

「本当、人形みたいだな。怖いくらいに感情の揺れがない」

「ドラゴンとはどうやって意思疎通をはかっているのでしょう」

「、? あっ。そうか。たしかに。感情というか、意思がなければドラゴンに指示を出すこともできない。じゃあ、シェリエルは…… まだ少し、残ってる……?」


 ディディエのやつれた目元にジッと朱をさした。

 たったこれだけの希望に感情を揺らすほど、ディディエの心は疲弊している。なにもかもダメになったのかと思って。諦めかけていた。


「よ、よかった。よかった。あは。まだ、残ってる。僕のシェリエルが……」

「ディディエ様、シエルが来ます」


 バラバラバラバラ……! 

 と、木々を盛大に鳴らして巨大な塊が降りてくる。シェリエルに合わせてやって来たところを見ると、やはり両者は意思の疎通が取れているらしい。

 これはディディエにとって何よりの希望となった。

 が、やはり人生とは辛く厳しい涙味だと相場は決まっているので、ディディエはこのあと大変な思いをすることになる。




「バカッ! バカバカバカ! 人に適した速度を保てよバカトカゲ! て、リヒト生きてる!? それ本当に大丈夫なの!?」


 彼らはいま、上空約1万メートルを亜音速で飛んでいる。

 生身の人間が無事でいられる環境ではないが、シェリエルは平然としていた。

 彼女の目の前に張られている風除けの魔法障壁はシエルによるものらしく、ディディエは自分で身を守るしかない。

 よって、死にそうになりながら結界やらなにやらを張り、シェリエルの胴体に小猿のように隙間なく抱きついて、薄い空気と極寒の朝空に耐えている。

 唯一の救いは黒雨がここより下で降っていることくらいだろうか。いまあれを受けたら真っ黒な氷の塊になるところだ。

 なお、リヒトは最初から諦めていたのか、ロープで自身の身体をぐるぐる巻きにしてシエルの角に結び付けていた。

 つまり、彼はいま身体強化で身を守りながらほとんど仮死状態でドラゴンの髭と一緒に靡いている。

 これはリヒトなりに考え抜いた最善の策だった。ちゃんと身体を温める魔導具も用意しているし、悪魔の森での訓練を思えばこれくらいなら耐えられると思って。

 バカの最善だが、これはこれで侮れない。

 半端な速度で飛ばれればバチバチと身体を打ち付けられたかもしれないが、ほとんど水平に引っ張られるような形なので呼吸と体温の維持にだけ集中すればいい。

 ほとんど死んでいるが一応は無事だった。

 

 さて、年明け二日目の空の旅は一時間経ったあたりで様子が変わることになる。


「おぇ、うおぉい、やっぱり悪魔の森かよ〜!」


 日が昇りはじめた頃、ディディエはベリアルド領の端っこで悲鳴をあげた。

 ここから先は悪魔の森である。

 本当なら転移門を使っても一日はかかる距離だった。

 予想通りというかなんというか。そうだろうなとは思っていても実際に行くとなると話は別だ。

 もし、ここで落ちたら絶対にひとりでは帰れないし。魔力も濃くなるし何が起こるか分からない。

 送り迎えしてくれる友はこの樹海の奥地で物言わぬ棺と同化してしまったのだから。


「そんなにあいつのところに行きたかったの?」

「……」


 地下に監禁したのはこれを阻止するためでもあったのに。

 なにもかも無駄だったのかもしれない。ベリアルドが本当にやりたいことは誰であっても阻止できない。たとえ呪いを持たずとも、シェリエルもベリアルドだったということなのか……


「分かったよ。ごめん。でも…… ぅ、うわぁあぁおおおおえぇ、ちょっとは考えて飛べよイカれてんのかぁおおぉぁあ嘘ウソごめん! 悪かったよ、もう言わないから! 助けてあぁあぁぁぁぁぁー!」


 悪魔の森に入ってすぐ、シエルは急に転移を使い始めた。

 いくつも座標を持っているらしく、パッ、パッ、と景色が切り替わっていく。そのたびに魔法障壁が乱れるので、ディディエは急に風圧を感じたり胃が浮くような浮遊感を味わったり、叫んでいないと息を吐き出せないような圧迫感に襲われた。

 あまりにも過酷な空の旅はこのあと三〇分ほど続き、最終的には開けた場所にもかかわらず周りの木々をバラバラ薙ぎ倒しながら降下することになる。


「……う、死んじゃう。もう嫌。帰りたい。リヒト、生きてる? おい、起きろ! 勝手に死ぬな!」

「ヒッ、ハッ、ハッ…… 命の加護があって、よかったです」

「本当だよ。僕も命の加護がなかったら死んでた、絶対。て、それよりシェリエルだって! 追いかけるぞ」


 ディディエはリヒトのロープを解いてやり、少しリヒトに治癒をかけてやる。リヒトも礼を言ってからディディエに治癒をかけた。

 命の加護は自身の治癒力を高めていい感じに身体を保ってくれるが、治癒の魔法は自分自身にはかけられない。制約というより、仕様というべきか。

 治癒の魔法については疫病の研究で明らかになったことがいくつかある。

 ほとんどがシェリエルとユリウスの仮説を証明したに過ぎないが——


 ひとつ、治癒魔法は細胞を活性化させるものである。

 ひとつ、治癒魔法とは外部から刺激を与えて強制的に細胞の修復を促すものである。

 ひとつ、自己の魔力はすでに体内に飽和状態であるため、自らの魔法を体外から発動させても刺激と判断されず効果はない。

 ひとつ、命の加護がある者は魔力を集めることで治癒力を高めることができる。


 また、魔力による効果と魔法による効果は別物である。

 これらのことから、ある種の疫病が治癒魔法で悪化することに説明がついた。

 自己の治癒力と細菌の増殖力が拮抗しているところに、外部から養分となるような魔力が注ぎ込まれれば抗争は悪化する一方だ。スラムの縄張り争いに軍事用の武器を箱ごと投下するようなものである。

 とまあ、そういうわけで治癒魔法は他者にかけてもらったほうが効果的だった。

 そして、命の加護持ちであるディディエとリヒトは、少数で動くならば特別相性のいい組み合わせなのだ。

 お互いに治癒をかけられるのでうまくやれば死にはしない。ディディエが指示を出し、リヒトが動く。

 脱法奴隷強奪作戦の際にふたりはたくさんの人間を追いかけ回したので、細かい打ち合わせもなくシェリエルを追うことができた。


「いいぞ。リヒト、そのまま視界を確保しろ」

「了解」

「これ以上離されるな、迷子になったら帰還は絶望的だぞ」

「了解」

「敵はすぐそこだ。焦らず行けよ」

「了、解?」


 シェリエルは木々の合間を全力疾走くらいのものすごい速度で走り抜けている。

 枝を避けるそぶりもなく、細かい傷が顔や手に走っては消えていく。

 ああ、もう本当に、何もかも手放したのか。

 直感的に理解した。感情を閉じたのではなく、あらゆる感覚を手放したのだと。

 痣や傷も、痛みすら手放したためにこうして全力で駆けて出来た傷なのだろう。

 苦しみに耐えられなかったのか……

 久しぶり元気いっぱいに走り回るシェリエルの姿が嬉しくて、その理由を思うと悲しくて、ディディエは複雑な心境で彼女の後を追っている。

 森は朝日を取り込み明るくなりかけていた。

 黒い雨はここには降らないらしい。

 あの雨は王国中例外なく降り続けているというのに。


 走っていたのは十五分程度だろうか。

 たどり着いたのはふたりにも覚えのある、あの黒い神樹の丘。

 森はあの日よりもさらに鮮明に色付き、野生動物や魔獣、ありとあらゆる魔法生物がチラチラとこちらを気にしている。

 シェリエルはゆっくりと神樹の元へと歩き、幹に寄りかかるように腰を降ろすとピタ、と動きを止めた。

 それから、ノソノソと這ってきたシエルが尻尾で囲う。

 さっき降りた場所は着陸用の広場だったらしい。ここに降り立つと風圧でなにもかも滅茶苦茶になってしまうから。

 そう配慮して然るべきの光景だった。


 宝石のように煌めく毒花が鈴の音を響かせ。発光するキノコが煌めく胞子を飛ばす。鮮やかな鳥が歌い。巨大な空魚がゆったりと空を通り過ぎていく。

 スッ……と、巨大な白と黒の精霊が姿を現した。

 黒豹のような滑らかな肢体はシェリエルの右側に。

 白獅子のような荘厳な肢体はシェリエルの左側に。

 二頭が彼女を挟むように、日向ぼっこでもするように寝そべった。

 

 一面の極彩色に、大きな漆黒の太い幹。

 その大樹は世界の縮図であるかのように、地域や気候にかかわらずありとあらゆる花が咲き乱れている。

 

 神話のような光景だった。

 ここに、人の理から外れた楽園が在った。


「あいつの墓標にしては……、派手すぎるだろ」


 ディディエはなんだか悔しくて。

 楽園の一部になったシェリエルが悲しくて羨ましくて。ヘナヘナとその場に座り込んで言った。


「帰ってきてよ、シェリエル。そんなとこに、執着するなよ…… なぁ」


 

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