10.雨に天使
空白の祝祭三日目。
王都の貴族街は祝祭だというのにどこか不穏な空気に包まれている。
「どうしたのかしら。最厄期は終わったのよね?」
「祝祭に雨が降るなんて聞いたこともないぞ」
「災いの前触れではないといいのだけど」
「怖いわ。ジェフリー様、なにか知らない?」
「あ。え。ボクは教師とは名ばかりの研究費不正受給者だから……」
ジェフリーはベルティーユにモチモチの胸元をくっ付けられて、初心な男の子みたいに顔を真っ赤にする。
彼女は「そうなのね」と、ハの字にした眉でジェフリーを見上げたあと、すぐにまたお友達との会話を再開した。が、不安なのかジェフリーの腕はさらにぴったり隙間なくモチモチに挟まれてしまった。
ご褒美が一周まわって懲罰になり、また一周まわってご褒美に変わる。
彼はこの煌びやかな井戸端会議が授業の次に嫌いだったが、愛するベルティーユのエスコートを放棄するわけにはいかないので、まったく興味のない会話が延々と続くなか「ボクはベルティーユを引き立てるための彫刻とか置き物です」という顔で聞き流していた。
話を振られたくないのだ。会話に混ざりたくないし、できれば無視してほしい。
五日も祝祭が続くなんて拷問みたいなものだ。一晩だって嫌なのに。こんなもの“仕事”に類してしかるべきであり、祝祭なのだから仕事は休むべきである。
だいたい、上位が夜会を開くのは下位の貴族たちのためであって、奉仕活動と言っても過言ではない。
当番制にできるほど使用人を抱えていない(もしくは使用人の立場にある)者たちが五日間の食事に困らないよう、上位の者が場と食事と酒を提供する場なのだから。
日頃の感謝を込めてとか、新年もよろしくだとかなんとか。
そして主催はこの五日間で気前と景気の良さをアピールして新年でさらなる羨望と人望を集めるというわけである。
夜会嫌いのジェフリーのために格式の高い集まりは避けてくれているが、むしろ身分や性別に関係なく会話が弾むためにジェフリーは大層苦労するのであった。
「神々がお怒りだというお話も聞きますわね」
「最厄期は神々からの試練だというお話もあるでしょう?」
「ふむ。ジェフリー様はどうお考えですかな?」
ブツブツとオラステリアの文化に物申していたジェフリーは、彫刻のフリも虚しくまた会話に引き込まれて「ヴ」と顎にシワを寄せた。
神々なんているわけないだろう。百歩譲ってあれが神々の意志ならそんな神を信仰するなんて被虐嗜好もいいとこだ。なにが試練だバカバカしい。
そう思いながらも精一杯のすまし顔で「反動かなにかでしょう」と適当なこと言った。
けれども彼らは余計に「ほう」「と言うと?」「やはり大地になにか影響が?」と、学院の生徒たちより真剣な好奇心を向けてくる。
そうなるとジェフリー、研究者として応えないわけにはいかない。
というのも、学院での研究は貴族たちの税金で成り立っている。こうして彼らに知り得た情報を開示することは、教師および研究者にとっては大事な職務のひとつなのだ。
「これは師であり友人の——ある男の受け売りなんですが…… 彼は最厄期というものを社会の浄化機能だと捉えていました」
「社会の?」
「はい。社会が最も豊かなのは成長期なんです。人も成長期が一番元気でしょう? 社会だって若く初々しい思春期が一番新鮮で不調がない。経済はまわり、民に活気がある。じゃあ成長の止まった社会はどうなるか。豊かさが一定を超えると人は堕落し成長しようという気力を失くすんです。天井なんて見えたらお終いだ。死に向かって全力で走れる人間なんて頭のおかしな奴くらいですからね。人は衰退を嫌い、成長を好む。社会も一緒で、不便なくらいがちょうどいいんです。伸び代が必要ということですね」
「……?」
「と、いうことは?」
「ふむふむ。社会が老いる前に厄災で壊してしまうということですかな? しかし、それはあまりにも……」
「はい。彼は最厄期がそういった役割を担っているのだと言っていました。ボクもそれは正しいと思うなあ。一等豊かで富に恵まれた世代は最厄期でなにもかも奪われる…… フハッ、あなた方の大好きな神様ってヤツはとことん性格が悪いんでしょう。ボクはそうであってほしいとすら思います。自分より性格の悪いやつには心置きなく唾を吐けますし」
——ユリウスとこの話をしたときにも、たしか同じような毒を吐いた。すると彼は『はは、同感だ』と爽やかに笑っていた。
目の前の品行方正な貴族たちは困ったようにお互いの視線を合わせて苦く笑っている。
ここには彼の記憶を持つ者はひとりもいなかった。それでいて、どうにも説明の付かないやましさがあるのか、「神の怒り」だとか「災いの前触れ」だとか超常的な“罰”に結びつくのだろう。
ジェフリーも敢えて彼らの不整合に触れることなく、こうして適当なことを言ってやり過ごしている。
誰かとユリウスのことを話したいとは思わなかったし。
話す相手なら厄介なのがひとりいる。それで充分だった。
「では、反動というのは?」
「さあ? そんなこと言いましたっけ?」
「え」
「ただまあ、今回はその“浄化”あるいは“再構築”が正常に機能しなかったわけで。どこぞの天才様が文明を大きく進めたにもかかわらず、最厄期も途中で切り上げてしまった」
ジェフリーは授業でもするようにゆっくりとバルコニーに向かって歩きながら喋る。やけに様になっている背中が貴族たちを童心に戻した。
そして、彼はサラサラと降る霧のような雨に手を伸ばして、顔だけ生徒諸君に振り返って言う。
「だから雨が降る。そういうことです」
「???」
……あの子はまだ壊れたままなのか。あいつはまだ正気を保っているだろうか。
ジェフリーはそれ以上の感傷は避け、貴族たちに義務を果たしたことに安堵する。
この雨にまったく心当たりは無いし、仮説すら立てようもないが、こういうときは雰囲気が大事なのだ。
どうせ本当のことなんて分かりやしない。あの賢者たちが調べたって、肝心の記憶がないんじゃあまともな調べはできないだろう。
「あ……」
「ジェフリー殿…… それ、は」
「へ?」
深刻そうな驚きの声。恐れ慄く貴族たちはただ一点、ジェフリーの伸ばした手に視線を固定している。
ジェフリーもつられて自分の手を見て、「ヒェッ」と間抜けな声が漏れた。
「黒い雨……?」
貴族たちは初めて見る夜と同じ色をした雨に言葉を失くした。
ただの雨ではない。
祝祭に降る、穢れの雨がジェフリーの手を濡らしている。
夜会終わりの夜夜中。
ジェフリーは黒い雨に打たれないよう頭上に結界を張ってベルティーユと馬車に乗り込んだ。
黒雨は夜によく馴染んでいる。窓に光を近づけなければただの雨だ。
しかし祝祭に雨が降ること自体が薄気味悪い。黒雨となれば気の小さな人間が絶望するに充分な雨雫である。
いつもニコニコとお日様みたいに明るいベルティーユもモチ、とジェフリーにくっ付いて離れなかった。
「こわい…… 嫌な祝祭になってしまったわ」
「大丈夫だよ、ぼ、ボクがいる、から」
ジェフリーは渾身のカッコ付けを失敗しながらも、気になるのは「この黒雨が彼らにどう作用するのだろう」という一点だった。
——あいつはこの雨をどう思っているんだろうなァ……
廃人のようになってしまった妹を前に、心を崩した藤の君。
それみたことかと笑うのか、黒に染まって泣き濡れているのか。
頼むから、正気でいてくれよ。なんて思いながら、彼と最後に話した時間を思いだす。
それは数日前のこと。
空白の祝祭前は学院も大忙しだった。試験の採点に一年の総括、教師には終業式典の準備もある。
研究室に篭り、例に漏れずいそがしくしていたジェフリーは——
「なんかさあ、この部屋すごくジメジメしてない? 人の腐った臭いがする。ただ長椅子に寝っころがってうじうじ脳みそを腐らせるしか能がない人間の放つカビ臭さっていうかさ」
「ふーん」
「聞いちゃいないな。ねぇ、本当さあ。いい加減にしてくれよ。おーい、用がないなら出てって。それか試験の採点手伝って」
「んー」
「聞いてる? ディディエくん? ディディエ様? おーい!」
「うるさい」
「はァ? 人の研究室に入り浸っておいて? うるさい? 信じられないな君ってやつは。ここまで優しくされてどうしてそんな態度でいられるんだよ。それ、人に愛されて当たり前の人間しか持てない思想だよ。治した方がいい、そういうやつは無意識に人を傷付けるから」
「酒」
「て、ててて手伝えよゴミ虫ッ。肥溜めに落ちた豚の肺より役に立たないな」
「……ふふっ、」
「聞いとるんかい! はー、バカ、もう。仕方ないな」
ジェフリーはディディエが持ち込んだ酒の瓶を取り出し、シェリエルに貰ったグラスをふたつ並べる。
カラン、と指先から氷を出し、酒を注いでそのまま指でくるくる回す。
すると、末期の肺炎患者みたいな顔をしたディディエがズリズリと這うようにやってきて、グラスを手に取るとその場にグシャ、と座り込んで見えなくなった。
ディディエは机にもたれ掛かるようにして身体を起こし、片方の膝を立ててその上にグラスを置いている。
カラカラ、カラン……、と氷が琥珀に完全に沈み、ディディエはそれを見届けると一気に酒を呷った。
ヤケ酒というよりも、少しでも以前のシェリエルを感じていたかったのだろう。
もう酒に酔えなくなっているようだった。脳が麻痺しているのか、飲んでも飲んでも…… というような具合である。
葉を使うのも躊躇っているらしい。
きっと「ああ、僕ってなんて可哀想なんだ」とでも思いながら、酒に酔えないからと自分に酔っているのだ、この男は。
「無茶な飲み方するな。てか、ボクまで飲む必要なかったな……」
ジェフリーは独り言のように言った。どうせろくな返事はないだろうと思って。すると。
「飲もうよ。ひとりじゃ寂しい」
「まあ、飲むけどさ」
珍しい弱音で珍しく会話が成り立った。
ちびりと上唇を濡らすように酒を舐め、途中だった採点を再開する。
今日も昨日も二日酔いだ。成績の総括もあるというのに、夜な夜なディディエがやってきてバカみたいに酒を飲むものだから、ジェフリーもついつい付き合って飲みすぎてしまった。
弱っている友人を放っておけなかった。彼を友人だと思っている自分に驚いて、パニックになった勢いでまた酒を飲んでいた。
まあしかし、冷静なときでもディディエの酒は断らなかっただろう。
研究室から追い出すこともしないし、彼がどうしてもというなら一緒に寝てやることだってできる。
それくらい、ディディエは限界に見えた。
シェリエルがあのようになってから、常人ならとうに魔に堕ちているだろうというくらい。
彼らは狂いはしても魔には堕ちない。終わりのない狂気である。終わるときはきっと——
だから文句を言いながら彼にとことん付き合ってやる。
兄妹というのはよく似るもので、ジェフリーが毒を吐くとディディエは少しだけ笑うから。
ふたりは感情を共有するわけでもなく、ただこうして一緒に居た。
ディディエは共感というものを知らないし、誰かに共感されることを望んでもいない。
ジェフリーはジェフリーで他人の感情に引っ張られるのが親の説教より嫌いだった。
「ジェフリーはさあ……」
「はい」
「ユリウスのこと、どれくらい覚えてる?」
「んぁ? え、ユリウス氏のこと? ぜんぶじゃない? ボク、意外と記憶力良いんだよ」
「いや、なんか。不自然な記憶とか無い?」
「んー、どうだろ? 嫌な記憶しかない」
「じゃあ大丈夫か。ね、毎日ユリウスのこと考えてる?」
「んなわけあるかい。一瞬だって思い出したくないよ。だいたい君が一緒だったし、まあ、教えてもらった魔術とか、魔法の仕組みとかよく考えるけど」
「へぇー、そうなんだ。なんでだろ」
「なに?」
「いや、べつに。もしかしたら、ジェフリーの方が僕より長くユリウスのこと覚えてるかもね」
「ハァ…… そすか。いや、べつに覚えていたくもないですが。だってあの人さ、ボクにはなんの挨拶も無しだよ? 酷くない?」
「ンハ、たしかに。あんなに懐いてたのにね」
「ね。変な遺跡に連れてかれたり。一回さ、国外に連れてかれたことあったでしょ」
「あー、なんだっけ。結界があとどれくらい持つか調べるとか言ってたやつか」
「え、アレそういうことだったの? 知らなんだ…… 言ってくれよ、ボクも魔術教師の端くれなのに」
「で、それがどうかした?」
「うん、あのあとさ、実は王宮から問い合わせがあって。国外へ出たかって」
「なにそれ、聞いてない」
「教師と賢者って勝手に国から出ちゃいけないんだって。初めて知ったし捕まるところだった」
「笑う。それ、ユリウス用にできた決まりだよ、たぶん」
「そうなの?」
「ほら、あいつ転移で出られるからさ。記録が残らないだろ? 知的財産の流出とか、亡命の手引きとか、簡単にやれちゃうから。一応ね」
「あ〜。陛下も大変だね。いや、元老院か」
「そそ。元老院はユリウスが出てきて大慌てだった。あれ面白かったなー。あいつどこでも行き放題だし法律も二桁は増えたらしい。幽閉されてたくせにね」
「ブッ、ちょ! 待って、気管に入った」
ジェフリーはケホケホ咳をしながら吹き出した酒を片手で乾かした。生徒の答案用紙が染みになったが、得点を記録したら燃やすので特に問題はない。
机の向こうではディディエがクスクス笑っている。かと思えばニョキ、とグラスが顔を出し、カラカラ氷を鳴らして酒を注げと催促してくる。
本当に我儘な子に育って……
仕方がないので片手で酒を注いでやり、自分のグラスにも少し足して硬い椅子に深く座り直した。
彼はいま、どんな顔をしているんだろう。
「僕は、シェリエルからこういう時間を奪ったんだ」
唐突に、ディディエの懺悔がはじまった。
彼とはいろいろな話をしたが、これは初めての告白だった。
「思い出せば思い出すだけ、考えれば考えるだけ、記憶が定着するから。早く忘れてほしくて、閉じ込めたんだ。みんなが忘れるまで」
「そか」
「でもさ、シェリエルも特別だったのかな。ジェフリーがユリウスを忘れないみたいに、シェリエルもなにか…… 無駄だったのかも。追い詰めただけだったのかも」
「そうかもね」
「間違えちゃった。大事なところで、一番やっちゃいけない間違いを、僕は」
「君も、それだけ混乱してたんじゃない」
「混乱?」
「ユリウス氏のことはさ、前から知ってたわけだろ? 自分では納得してると思ってて、いざその時が来たら思った以上に傷付いたんじゃない? だから、それにも混乱したと言うか。知らんけど」
カラカラと硬い氷の音だけが返ってくる。
ディディエは他人の感情に執着する反面、自分の感情には無頓着だった。というより、欲に忠実で意思がハッキリしていて、あまり悩むことがないので自己を分析する機会がなかったのだ。
そういうところは父親譲りなのだろう。
ジェフリーは逆にギフトの特性もあってか己の感情とばかり向き合ってきた人間なので、ディディエのそういうところが少し気になっていた。
自分の感情に向き合う訓練ができてない人間はこういうときに脆い。
「必要ならギフト、使おうか? 君を止められる奴が側にいてくれるならだけど」
「……父上とか? え、やだな。親の前で丸裸になって踊り狂うみたいなもんでしょ? 本当に親の前でやるとか、地獄じゃん」
「人のギフトを何だと思ってるわけ?」
「親の前で丸裸になって踊り狂うギフト」
「ボクは普段からギフトを使っているんですが」
「凄いなと思うよ。僕だったら耐えられない」
「死のうかな」
「僕をひとりにする気か人でなしめ」
「冗談になってないから! 悪かったよ、ボクのギフトは親の前で丸裸になって踊り狂うギフトだよ。はい、これでいい?」
「分かればいいんだよ」
「で、使ってみる?」
「いやー…… いい、かな。分かったところで言い訳にしかならないし」
「言い訳が必要だろ?」
「あいつらと一緒にするなよ」
「大丈夫そ?」
「いま罪悪感を肴に酒を飲んでる」
ディディエはあの日のことを思い出しているのかもしれない。ライアに罪の味を尋ねたあの夜のことを。
「ディディエ君。どんな味、だった?」
「天使の腹から引き摺り出した腸に詰まってる糞の味、かな?」
「たぶん、違うと思うよ」
「死んだら試してみてよ」
「自分でやれ。おかしな信仰に巻き込むな」
「僕はもう、地獄に内定済みだから。……天使には…… 会えないんだ」
まあ、たしかに。
と、口にする前にゴト…… とグラスが落ちる音がした。
え、死んだ? 有言実行? と、一瞬焦ったが、すぐにスウスウと小さな寝息が聞こえて、ジェフリーはドッと汗を吹き出した。
寝落ち方まで嫌なやつだ。人間性がこんなところにも出るなんて。
のろのろ立ち上がって、ディディエの足を掴むと長椅子まで引き摺っていく。
ちょっとだけ気合を入れてヨイショ、と持ち上げると、長椅子に寝かせて上着を掛けてやった。
ディディエはジェフリーの前でしか寝れないらしい。眠ることを避け続けたせいか、こうでもしないと眠れなくなっていた。
「はあ、やっと仕事が捗る」
瞼を下ろした彼は少年のような、少女のような愛らしい顔をしている。
天使のような寝顔だった。
このまま腹を裂けば、きっと罪の味がするのだろう。
そんなことを思ったのだった。





