8.救済を、
ジゼルとシャマルに付き添われる食事はなんだか監視されているみたいで——
「シェリエル様? お口に合いませんでしたか?」
「少し、食欲がないだけ」
「体調が優れないようでしたら授業はお休みになった方が……」
「大丈夫よ。モーゼスを呼んでくれる?」
「はい。すぐに」
味も香りもない食事は苦痛なだけだった。
ここ数日ずっとこんな調子で食欲が激減している。
ストレスだろう。思い当たることがあり過ぎて「なるほど」としか思わない。
ふたりは原因がわからないからか、ずっと不安そうにしている。
が、説明しようにも彼女たちには肝心の記憶がない。
安心させようとにこにこ笑って見せるが、ふたりは余計に頬を引き攣らせて、泣くのを我慢するような笑みが返ってくる始末。
通信の魔導具に向かうジゼルはどこかホッとした様子で、やることのないシャマルは所在なさげに不安感を増している。
「……」
「……、…」
気を遣われることが億劫になってきた。
誰にも会いたくない。これならあの地下室の方がマシだったかもしれない。ずっと眠っていられたらいいのに。
このところそんなことばかりを考えている。
「シェリエル様! ただいま参りました!」
「今日も元気いっぱいね」
「はい!」
とは言ったものの、モーゼスのこれも空元気だろう。心の機微に聡い子だから。
よく訓練されているため、ほとんど外からは分からないが、一瞬不安そうに瞳を揺らすことがある。
「モーゼス、今日からお兄様に付いてくれる?」
「へ……」
揺れた。
懸命に笑顔を保っているがいまにも泣きそうだ。
「モーゼスのことは大好きよ。嫌になったとかじゃないの。でも、ほら。わたし、事業から手を引いたでしょう? それにいまはお兄様がとても忙しくしているから。モーゼスがお兄様のお手伝いをしてくれたら、わたしも安心だわ」
「あ…… えと。はい」
「前にイザベラお姉様のお手伝いもしてくれたわよね。それと同じよ。会えなくなるわけじゃないから…… ダメかしら」
「いいえ。シェリエル様のお望みであれば。私は。はい」
「ありがとう、モーゼス」
彼はへなりと笑ってから、少しのあいだ俯いていた。
可哀想なことを言ったと思う。けれど少しも胸は痛まなかった。慢性的な胸の痛みで麻痺してしまったのかもしれない。
「サラ? どうしたの?」
「シェリエル様、少しお休みなられた方がよろしいのではありませんか。お疲れのようですし」
「、? 疲れてはないはずだけど……」
仕事らしい仕事も無いし、体力ももうほとんど戻っている。
泣き伏せることもなく、授業を受けてよく眠っている。
平気だと訴えても周りの表情は曇るばかりで、それも居心地の悪さに拍車をかけた。
「ですが……」
「じゃあ、授業は休むわ。シエルのところに行って来ようかしら」
「……」
「お兄様には内緒よ? 心配させたくないから」
「はい……」
逃げるように訓練場へ転移した。
外の空気は乾いていて、頬がピリピリと冬を感じている。
ほう…… と白い息を吐き出すとシエルがむくりと顔を上げる。
「シエル、寒いでしょう。少し出かけない?」
「ゴロロロ……」
低く喉を鳴らすシエルは嬉しそうだった。
「ベリアルドの郊外まで転移で移動できる? また警鐘でも鳴らされたら困るもの」
シエルは「任せろ!」とでもいうようにブン、と尻尾を持ち上げて、大きく翼を広げた。
背中を丸め、いまにも大地を蹴って羽ばこうかというところ、シエルはパッと訓練場から姿を消した。
◆
シェリエルが戻らない。陽は落ち、夕食の時間もとうに過ぎている。
ディディエはイライラと部屋を歩き回り、発狂寸前だった。
なにしろ、近頃のシェリエルは誰がどう見ても様子がおかしかったから。授業が終わってシェリエルの部屋を訪れてみれば、どこにも姿はなくあのシエルもいない。
通信も繋がらず、座標を直接繋いだ念話も反応がなかった。
シェリエルになにかあったら。もう一生会えなかったら。
不安と焦りでどうにかなりそうだった。
彼女が戻ってきたのは日付が変わる少し前くらい。
大きな魔力の揺れがあって、そのあとしばらくしてリヒトに付き添われたシェリエルが戻ってきた。
「お前! 連絡くらいしろよ、僕がどれだけ心配したか!」
「……」
思わず声を張り上げたが、シェリエルと目は合わない。いや、目線は合っているはずなのに、焦点が合っていない。
これまでも返事はするが自分から喋ろうとしないとか、だんだんと反応が減っていることを不安に思っていた。
けれど、これは……
「え、シェリエル?」
シェリエルの心拍はずっと同じ速度で音は小さく眠っているみたいにゆっくりだった。
立っている。歩いてきた。それが不思議に思えるくらい、抜け殻のように僅かな反応も示さない。
ディディエだけがドクドクと心臓が嫌な音をさせて、頭皮に汗をかいた。
人の感情を外的な情報から読み取ることに長けているディディエがなにも感じない。
これは、まるで人形のような——
「え…… あ、そういうこと?」
ディディエはボソッと声を漏らして、自分の考えにゾ、と鳥肌を立てた。
いつかシェリエルから聞いた、死の夢のシェリエルになってしまったのではないか。
彼が喜んで断罪の準備を進め、死を鼻で笑えるようなひとかけらの面白みもない妹に——
「シェリエル、あのさ。僕、シェリエルに謝らないといけないことがあって」
「……」
「無理に忘れさせようとした。本当はシェリエルがあいつのことを忘れてないって気づいてたんだ。だけど、気づいてないふりをして。あいつの話をさせなかった。シェリエル、ねえ。ユリウスの話をしよう。いろんな話を、聞かせてあげるから。シェリエル」
「……」
「わ、か。え…… シェリエル。ユリウスを犠牲にしたって怒ってるんだよね? 僕が人でなしだって。裏切り者だって。口だけの役立たずだって。そうだよ。僕は無茶ができなかったんだ。怖かったんだよ」
壊れゆく世界よりも、狂いゆくシェリエルが怖かったのだ。
この国に張られた結界は消滅すると同時に新たな黒を入れて完璧に張り直される。
最厄期はまだ最終期に入っておらず、オフィーリアを柩から出せば世界は数日で滅ぶと予想していた。
土地の穢れが人を穢し、人の不安や絶望がさらに土地の穢れを濃くしていく。
民は終わりがあるから希望を持てたのだ。誰も結界を引き継がないと知らされた民は最終期の穢れに耐えられるはずがなかった。そんな世界で呪いを持たないシェリエルが罪悪感に苛まれるのは至極当然であり。
それは、シェリエルも理解しているようだった。だから、納得していると思っていたのに。
「納得したから、絶望したのか……? シェリエル、嘘だろ。嘘だよね」
シェリエルから返ってくるものは何もなかった。
睨みつけるような強い瞳も、悲しんでいるような眉の動きもない。
怒りも、恨みも、驚きもなく、静かにジッとブルーの眼球を固定してたまにゆっくり瞬きをするだけ。
「シェリエル、なんとか言ってよ。怒ったよね? 怒ってよ。どうして、そんな……」
シェリエルは“無”を保ったまま。目の前で肩を揺らすディディエと視線は合っているが、焦点は合っていない。
心臓が静かに動いているだけで、他にはなにも。
「…………おい、精霊。どうなってる」
もちろん、精霊と契約していないディディエはネージュと意思疎通が取れるわけではない。
ふさふさとしたおっきな尻尾がゆっくりと揺れるのを見つめることしかできない。心臓のない精霊の感情なんて読めるわけもなかったのだが。
「シェリエルは……、壊れたの?」
言葉にするのも嫌だった。でも、誰かに否定してほしくて口に出した。
それを否定できるとすれば、いまは亡き、あの真っ黒な異常者くらいだろう。
——いや。他にもいる。
ディディエはすぐにヘルメスに通信を繋いだ。
彼よりも人心に長けた人はヘルメスとユリウスだけだから。こういうときの祖父である。普段は仲間外れにしているが、あの心の専門家は身内のなかで一番頼りになるのだ。
「お、じいさま」
『どうした。シェリエルになにかあったのだな』
「はは……」
ただの一言ですべてを察してくれた祖父に涙が出そうになる。
それは安堵というより、眩い尊敬の念だったのかもしれない。
ゆっくりと大きく息を吸い込み、声を整えるとディディエはものすごい早口で言った。
「シェリエルが完全に反応を見せなくなりました。心拍は一定。発汗はなし。最近では食事量は最低限ですが糖度の高いものを好んでいました。他者の感情に反応なし。ぼ、僕が目の前で発狂してもたぶん無反応だと……」
『ふむ。ユリウスとも違う症状だな。興味深い』
「お爺様!」
『いや、私が直接診よう。すぐにそちらに向かう。ちょうど王宮に来ているから、転移門で送ってもらうとしよう』
「ではこちらも準備を」
それで通信はプツ、と切れてしまった。
あの孫を死ぬほど溺愛している祖父が一瞬だけ執着を覗かせた。それが良いのか悪いのか冷静に考察する余裕もない。
ディディエはその足でディアモンの最上階に向かい、ユリウスに貰った鍵を使って勝手にアルフォンスの部屋に入る。
当然護衛に止められたが、麻酔銃を打ち込めばみんな大人しくなった。
「うぇ、おい、なんッ」
「殿下、王宮と転移門を繋いでもらっても? 急ぎなので此処に」
「は?」
「これから祖父が来るので、補佐官に命じて殿下の自室と繋ぐように手配してください、と僕は言っています」
「バカなのか?」
「は? この国の王族には無能しかいないのか? だから公開処刑なんて娯楽が流行るんだ。恥を知って地べたにキスをしろ。それから僕の靴を舐めてあの女狐を国外追放にしてしまえ。それができないなら今すぐ転移門を繋げ! すぐに動けよ万年発情期が! それくらいできるだろうが」
「貴様は本当に人間がなってない」
「お前に言われたくないッ!」
「あー…… 分かった。言う通りするから。その、泣くなよ」
「泣いてないッ!」
アルフォンスは最近男に泣かれてばかりだな…… と、しみじみ思いながら、チラと補佐官に目配せする。
補佐官たちは呆気に取られていたが、すぐに執務室に移動し、空き部屋で準備を始めたようだった。
ディディエはぐしぐし腕で目元を拭いながら、ふうふう息をしている。この男がこのように取り乱すのを初めて見たな、と彼の肩にやさしく手を置いた。
「他に出来ることは?」
「あるわけないだろうが! お前にできるのは真面目に勉強して執務を覚えて民を幸せにすることくらいしかないんだよ。そんなことも分からないのか、これだからバカは困るんだ。今度から王宮に入る女には知能試験を取り入れろ。金儲けしか能のない男にまで国家簒奪の夢を見せるな。これ以上脳が退化した人間に統治されるのは御免なんだよ僕たちは!」
「シェリエルになにかあったんだな」
「……っ」
「このところ様子がおかしいとイザベラから聞いている。試験の日程を変更できないかゴルハルト卿に問い合わせよう」
「いや…… はい。ありがとうございます……、殿下」
「祓いが必要ならば大祭司に話を通しておく。出来る限りのことはするから。な、ディディエ。頼むから、そんな顔をしてくれるな」
アルフォンスはギュッと心臓を握りつぶされるような心地で拳を握り込んだ。
この悪魔のような男が、いつも自分をバカにしてくる男が、子どもみたいに泣いている。
それを愉快に思えるほど擦れていなかったし、シェリエルには悪いことをしたという自責の念もある。
彼らには世話になった。
目の前の男をどう慰めていいか分からず、悔しくて唇を噛んでいると。
ディディエはなぜかピタ、と泣き止んで一瞬で顔を洗浄した。
「え、どうした。おい」
「失礼しました。これまでの非礼、暴言の数々を偉大なる王太子殿下にお許しくいただきたく」
「やめろやめろ、怖すぎる」
まったく笑ってない乾いた石ころみたいな目で言われても恐怖しかない。情緒が乱れ切ったディディエの相手をするのはかなり消耗する。
早く帰って欲しかった。
消えてくれと神々に祈り、ジェフリーからお札を借りて来ようか少し悩み、補佐官からヘルメスの到着を知らされるとすぐにふたりを追い出した。
ベリアルドは二人以上揃うと加速度的に厄介度が増すと学習しているので。
「シェリエル。私が分かるか? 聞こえてはいるようだが。……ふむ。たしかに何の反応もないな」
「穢れはどうです?」
「無い。綺麗なものだ」
「じゃあ、なんで」
「ディディエ、シェリエルを殴ってみなさい。出来るだけ強く」
「は? 嫌ですよ。お爺様がやってください」
「いや、私にはできない。そんな非道な真似できるわけないだろう」
「だからって孫にさせないでくださいよ」
「昔はよくやっていただろう。火を押し付けたり、バルコニーから突き落としたり。お前が適任だ、思い切りやりなさい」
「う…… 僕はシェリエルを愛してるのに…… 世界で一番、誰よりも愛してるのにっ!」
そう言いながら、ディディエは熊の頭蓋骨を砕くくらいの勢いでシェリエルの顔面に拳を振り抜いた。
バカがやり過ぎだ、と思ったヘルメスだったが。
「ッ…… いッ! 殺す気か!」
一拍置いて叫んだのはディディエであった。
拳の肉は裂けて血が吹き出し、折れた骨が突き出ている。シェリエルは微動だにしなかったが、拳が当たる直前で魔法障壁を張ったのだ。
これにヘルメスは「ほう」と感心し、やはりディディエにやらせて良かったな、とパキパキと音を立てながら手を治療するディディエを横目で見ていた。
だが、これでハッキリした。
シェリエルは恐らく……
「死なない最低限の機能を残して、あとはほとんど仮死状態だな。自立歩行できるのが不思議なくらいだ。脳は動いているが、思考はしていない。それでなぜこれほどの精巧な魔法が使えるのか…… いや、第二の脳が動いているのか? シェリエルは前世の記憶が魔力による仮想脳にあるのではないかと言っていたから」
「じゃあ、生きる意思はあるんですか」
「分からない。精霊が生かしている可能性も捨てきれないからな。まあ、精霊が守っているならお前は今頃消されていただろうが」
「次からこういう検証は父上に頼んでください。これは本当にお願いします」
ディディエは死んだ目でハフハフ拳に息を吹きかけている。治癒はできたようだが、目は死んでいる。
シェリエルよりもよっぽど死人みたいな顔をしていた。
シェリエルの死はディディエの死に直結する。それは次期当主を失うばかりか、ベリアルドの全滅を意味している。
同時にふたりの子を失えば、ディオールもセルジオも正気ではいられないだろう。
たったひとり残された世界を思うと、ヘルメス自身ひどい孤独感に苛まれ耳の奥で変な音がし始めるほどであった。
「シェリエルはもしかしたら、孤独感に耐えられなかったのかもしれないな」
「……あ。やっぱり。僕のせいか、僕がひとりにしたから」
ユリウスに置いていかれ、皆がユリウスを忘れ、自分だけが取り残された世界に絶望したのか。
反応が無い以上、ヘルメスにも確かなことは分からなかった。そういうこともあり得るというだけで、推測の域を出ない。
しかし、ディディエの様子からその線が一番濃厚に思えた。
罪悪感を知らないはずのベリアルドが、抱えきれないほどの罪の意識に溺れそうになっている。この子はそれほどのことをしたのだろう。
「ディディエ、息をしなさい」
「ァ、ッ…… なんだこれ。僕、そんな酷いですか」
「ああ。少し休みなさい、そろそろ寝た方がいい」
「いえ、でも」
「このひと月と少し、ユリウスの記憶を反芻し続けたのだろう? 一日二日寝たところで簡単に薄れはしないよ」
「そう、ですか…… でも、なんか。不安だな。シェリエルもこんなだし」
「何かあってもその頭では役に立たない。これは命令だ。休みなさい」
「はい」
しょんぼりしたディディエは一度シェリエルをジッと見つめ、肩を丸めて部屋を後にした。
ヘルメスはシェリエルの手を引き、長椅子に連れていく。
焦点の合わない目を固定したまま黙って座るシェリエルは無言の人形のようだった。
「シェリエル、お前はまだ絶望していないだろう?」
願いを込めたシェリエルへの問い。いつもなら素直に揺れ思考する瞳が、無機質なガラス玉のように時を止めて動かない。
濁りのない、狂気のない瞳。
ヘルメスも狂いかけたことがあったから、気持ちは分かるつもりでいた。
しかし、シェリエルの状態は“狂う”ともまた違う。
なにかを切り離したような、なにかに閉じこもってしまったような。
前世の何某が関係しているのか。精霊の加護なのか。
結局、ヘルメスにも分からなかった。
この世界にシェリエルを理解できる人間はただの一人もいなかったのだ。





