3.あの子の噂
「あのシェリエル様がひと月もお休みになるなんてねえ」
「あれだけの魔物と戦われたのですもの。仕方ありませんわよ」
「いやだ、魔物だなんて。マデリン様がお可哀想よ。……ふふっ……」
「あら失礼。うふふふ」
庭園の特等席にクスクスとトゲのある笑い声が漂っている。
冬の時期でも温熱の魔導具が埋め込まれているため暖かく、上位の御令嬢には人気の場所であった。
青々とした芝生。きれいに整えられた生垣。発色の良い花々。冬のはじめの澄んだ空気。
解放的で、噂話にはうってつけの昼下がり。
このひと月で修繕はほとんど終わっている。
唯一、真っ二つにされたままのゴルド寮が痛々しく、彼女たちもチラと視線をやっては非難の色を濃くするのであった。
「マデリン様はゴルドに恨みでもあったのかしら。なにもあそこまでやらなくたってねぇ」
「彼女、ディアモンに入る気でいたのでしょう? それでゴルドが気に入らなかったのよ、きっと」
「ゴルドが無くなればディアモンに上がれるとでも思ったのかしら」
「いい迷惑だわ。わたくし、お気に入りのドレスをほとんど処分することになりましたのよ」
「まあまあ…… お気の毒に」
誰も、ユリウスを覚えていないのだ。
女性陣は学院戦の様子をサロンから魔導具越しに見ていたこともあって、元より詳細を知らない者もいる。
誰かが「マデリン様が」と言えば、誰かが「そういえばそうだったわ」と納得した。
あれほど大きな建物を一刀両断するなど普通では考えられず、あの巨大な化け物の仕業と考えた方が自然だから。
不自然な記憶は辻褄が合うように補完され、いまやマデリンは魔に堕ちかけたという“恥”と、学院をめちゃくちゃにした“罪”で、このようにクスクスチクチクと噂の的となっているのである。
「そのマデリン様ね。もう学院に戻られたのですって。授業にも出ているそうよ」
「当の本人がお元気でいらして、シェリエル様がお伏せりになるなんて」
「侯爵様もディディエ様もお変わりなくていらっしゃるでしょう? 事後処理でお疲れのようですけれど」
「そのことなのですけど」
ひとりが意味深に声を落とせば、少女たちはわくわくと顔を寄せ合った。
これ以上に面白い話があるのかと期待が高まっている。
「シェリエル様はベリアルドの呪いを持たないのではないか…… というお話ですの。ご存知ありません?」
「ええ、ええ、わたくしも耳にしたことがありますわ!」
「まあまあ! 大変なことだわ!」
「まだわたくしは半信半疑といったところですけれど」
「オホホ……」
「うふふ……」
「……ええ、大変なことですわ」
魔力の有無は疑いようもないが、呪いの有る無しで話は百八十度変わってくる。
呪いを持たないベリアルドは底なしの善人であり、付け入り易く“簡単”だからだ。
では、なぜそのような噂が立ったのか。
「あの禍玉だとかいう厄災にも慈悲をおかけになっていましたものね」
「マデリン様がお咎め無しになったのも彼女の進言があったからだと聞きましたわ」
「マリアさんもよ。それどころか、新しい事業を支援するというではありませんか」
「わたくしは禊を兼ねた慈善事業だと聞き及びましたけれど……」
「アラ、慈善事業ほどお金になるものはありませんわよ。元手が必要ありませんもの」
「寄付を募って配るだけですものね。使い道など外から分かるものではありませんし」
私財を投じる慈善活動とは違い、事業はそれらの寄付の受け口を指す。
特定の神殿などに寄付する場合もあるが、厄災の復興支援などは多くから集め、多く分配することが基本であった。
マデリンたちもそういった事業を始めるのだろうと、彼女たちは話している。
「ですが、善良なベリアルドがそのような悪事を看過できるでしょうか?」
「いやね、悪事だなんて。どこもやっていることじゃありませんか。それに、シェリエル様は深く関わっていらっしゃらないのかもしれませんし」
「利用されていると?」
「イザベラ様あたりならば……」
「ええ、たしかに」
「王家に嫁ぐ際の持参金にでもされるおつもりかしら」
「サロン・シャティエルのこともありますわ。上手くおやりになったこと……」
「シェリエル様は特別な魔力をお持ちなのよね?」
「なんでも、魔力だけで穢れを祓うとか」
「ああ、それで……」
「どうかなさいまして?」
「いじらしいこと、と思いましてね」
「? あら…… うふふ」
「ベリアルドらしく振る舞うには大層お心を痛めたでしょうに。浄化の魔力をお持ちになっていたから穢れを溜めずに済んだのでしょうね」
「そういえば、ベリアルドの血筋ではないようなお噂もありましたわね。元は奴隷だったとか」
「まあまあまあ! そうでしたわ!」
点と点が繋がっていく興奮が彼女たちの口角を高くつり上げた。
彼女は穢れを祓う特別な魔力を持った奴隷だった。それをベリアルドが見つけ、魔物退治に役に立つからと引き取ったのだろう。
新しい家族ができたと思った奴隷の少女は、だんだんと自分が彼らと違う存在なのだと気付き、本当の家族になりたい一心で罪悪の念がない残酷な人間であるかのように振る舞っていた。
ベリアルドは善人であるかのように擬態するが、シェリエルは逆だった。
そこしか居場所が無かったから。悪魔になるしか、家族を得られなかったから。
そして、ひと月の休学がこの噂に真実味を持たせた。
シェリエルはそれほどの無理をしたのだと。
無理を押してベリアルドに扮し、悪魔に取り憑かれたマデリンを救ったのだと、そう思われている。
「わたくし、シェリエル様をお茶会に招待して差し上げようと思いますの」
「まあ素敵。わたくしもお誘いいただけて?」
「ええ、勿論ですわ。皆でお慰めしてあげませんとね」
「素晴らしいわ。そう致しましょう」
「うふふ、素敵ね」
彼女たちのクスクスとささくれた笑い声がいつまでも響いている。
ベリアルドが見つけ出し、アリシアが、イザベラが手に入れたがった特別な魔力の女の子。
何を恐れることがあっただろう。可愛らしいごっこ遊びを真に受けて可哀想なことをしてしまった。
そんなふうに舌舐めずりをしているのだ。
これを、掌に爪を食い込ませて見つめる者があった。
「信じられない…… あの方たち、シェリエル様を利用する気よ?」
「なによアレ。同情するふりをして見下したいだけじゃない」
「シッ、声が大きい」
「聞こえやしないわよ。どうせ、どうやって搾り取るかの相談に夢中なんだから」
「でも、本当なの? シェリエル様がベリアルドじゃないって」
「……そんなこと。関係ないじゃない」
「そうね。ごめんなさい」
中位の女の子たちだった。
散歩中、偶然聞こえてきた会話であったが、だれともなく足を止めて聞き耳を立てている。
怒りと悔しさでギスギスした空気が彼女たちの語気を強めた。
このような噂を最近よく耳にするようになった。
最厄期が終わったことで気が大きくなっているのだろう。チクチクした言葉は鋭さを増し、小さなゴシップでは物足りなくなっている。
悪夢みたいな大事件の後では、誰某の惚れた腫れたなど見劣りしてしまうのだ。
そわそわといつまでもあの日のことを気にしている。何かと枝葉を伸ばしてああだこうだと話していたい。
純粋な娯楽として楽しんでいた。
それは男も女も、貴族も平民も同じだった。
「わたし、ちょっと行ってくるわ」
「やめなさいよ! わたしたちに何ができるって言うの」
「そうよ、侯爵家の方もいらっしゃるのよ」
「でも…… わたし、悔しいわ」
「分かるけど。わたしだって…… 同じよ」
「あのね。わたしね、シェリエル様にお茶会に誘われるのが夢だったの」
「そんなの、誰だって——」
「ううん。わたし、お茶会を仕立てる仕事がしたくてね」
「? どういうこと?」
「えっとね。わたしたち使用人志望は侍女を目指して、その方のお茶会を準備するでしょう? でも、シェリエル様のお茶会の話を聞いてわたし、凄くドキドキしたの。それで、両親に無理を言って王都のサロンに連れて行ってもらったのよ。本当に本当に、夢みたいだった」
いまだその夢を見ているかのように、頬をピンクにした少女が涙で瞳をキラキラさせて語った。
ターコイズブルーの壁紙に透け感のある薄水色のカーテン。薄水色のテーブルクロス。発色の良い赤や黄色の花々。
月ごとにメニューが変わるという様々な菓子で彩られた皿は貝やサンゴを模していて、まるで南の海を切り取った水槽のようであった、と。
何度となく聞かされた話であるが、周りは嫌そうな顔ひとつせず幸福のお裾分けにうっとりする。
「それがね、月ごとに変わるんですって。みんな夢見心地で、誰かの悪口なんてひとつもなかった。そんな暇がないのね。見栄を張ったり、誰かを蹴落そうなんて。お茶をする時間だけで幸福になれるって素晴らしいと思わない?」
「……そうね。夢みたいな話だわ」
「だからね、わたしも、そんなお茶会を仕立てるお手伝いがしたくて。サロンで雇ってもらえたらって…… それで、本当に、これは無理だと分かっているんだけど。いつか、自分であの夢の世界を作るお仕事がしたいの。誰かの見栄のためじゃない、純粋な幸せを作る仕事がしたいのよ」
シェリエルが持ち込んだ前世のティーパティー。
彼女は単に煩わしい社交を封殺するつもりで、なるべく派手に演出しただけだったが、そこから夢を広げる者があったのだ。
それも、選択肢の少ない中位の娘に、お茶会のコーディネートを専門にした「新しい仕事」を生み出させた。
思いつく土壌すらなかった世界で、シェリエルは誰かのキッカケになった。与えるでも、教えるでもなく、自らなにかを生み出す喜びを与えたのだ。
この夢見る少女はそれをよく理解している。己を特別だとも過信していない。
シェリエルを神様みたいに思っていて、そんな神様のお茶会に招待され、なにかの手違いでこの夢を打ち明けて、「いいわね、やってみたら?」と言って貰える瞬間を夢想している。
そんな彼女にとって、上位の御令嬢がシェリエルを鍵のかかっていない宝箱のように扱うのは我慢ならなかった。
だってシェリエルは彼女の神様だから。神を冒涜された敬虔な信徒の怒りがどれほどのものであるか。
「思い知らせてやる……」
夢を語ったキラキラした声から一転、蛇が這いずるような仄暗い声がシン…と響いた。
「分かるわ。そうよね、悔しいわよね」
「でも、わたしたちには何も……」
「分かってる。分かってるけど」
貴族学院はこうした火種を彼方此方で燻らせていた。
平和を持て余している。
◆
「おにいさま。おにいさま?」
「ここにいるよ」
「わたし、どの病に感染したのでしょう…… 寝過ぎたのか記憶が朧げで」
「違うよ、なにも患ってない。災厄みたいな魔物を討伐したから穢れを貰いすぎたんだ。魔力も枯渇して、全の加護も効かなかった」
「……そ、そうでした。魔物はどうなったんですか」
「葬送したよ。覚えてない?」
「夢なのか、記憶なのか曖昧で」
「そう。具合はどう?」
「ずっと頭が痛いです。こんなときにもNetflixが観たい、わたしはもうダメかもしれない」
「なにそれ」
「あ、え? わ、これは前世でした」
「良かった。だいぶ安定してきたね」
「? 魔力ですか?」
「魔力もだけど、心音や体温、発汗も」
「きもちわる」
「なに? 必要だからやってるんだけど。僕はシェリエルが酷い悪夢を見ていないか心配でこうして夜通し小さな変化も見逃さないように……」
「気持ちが悪い」
「いや、うん。たしかにね。気持ち悪いね、アハハ」
魔導具の火を灯すと、シェリエルは少し眩しそうに目を細め、ゆっくり瞬きを繰り返した。
徐々に灯りを増やして部屋を明るくして行く。
血の気が失せた白い肌の上で、サファイアのような透き通った青の瞳だけが輝いている。
ディディエはいつものようにシェリエルの上半身を起こし、甲斐甲斐しく世話をした。
水を飲ませ、髪を洗い、保湿をして食事をさせる。
排泄物はそのまま便所に直行する魔法陣を敷いているので衣類が汚れることはないのだが、シェリエルはこれを一番嫌がった。
寝台で用を足すのが年頃の乙女には耐え難い屈辱らしい。
「お祈りに……」
「うん。足元、気をつけてね」
そんなわけで、こうしてトイレに立つことは許している。
ヨタヨタと歩く後ろ姿を見送り、シェリエルの食べ残したスープの量を確認する。だんだんと食事量が増え、固形のパンを食べれるくらいにはなっていた。
今日はいつもよりよく食べてくれた。
まあ、弱らせたのはディディエなのだが。
……そろそろいいか。いや、まだ演技の可能性も捨てきれない。
でも強い意志は感じられないし。ただ出たいだけかも。ここに閉じ込めるとみんな嫌がるし。
などと考えていれば、結構な時間が経っていた。
シェリエルはまだ戻らない。
「シェリエル……?」
「……」
「シェリエル、大丈夫?」
「……」
ドッと汗をかいて洗面所に駆け出した。
ドン、ドン、ドン! と力まかせに扉を叩くが、反応はない。
焦るな、集中しろ。
耳に魔力を集めて聞き耳を立てる。
乙女の洗面所を盗み聞くなどたしかに気持ち悪いとしか言いようがないが……
無音のままの扉を開けるのが怖かった。
扉を開けたら真っ白なシェリエルの脚が目の前で揺れていて、恨みの詰まったサファイアに見下ろされる——そんな夢を、ディディエは眠るたびに見ているから。
夢か現か曖昧になっているのはディディエも同じだった。
「……う、おぇ……」
「シェリエル? 吐いちゃった? 入っていい?」
「う……」
「ごめん、入るよ」
シェリエルの嘔吐する苦しそうな声に、ホッとして扉を開けた。
椅子に腰掛けて洗い桶に突っ伏しているシェリエルは微かに背中が震えている。
よかった、生きてる。
最初にそう思って、次に少しだけ反省した。
薬葉を吸わせ過ぎたのだろう。ほとんど寝たきりなので内臓を動かす筋力も衰えている。
「大丈夫? 洗浄しようか?」
「……っ、出てって。ください。じぶんで、出来ますから」
「そう? なにかあったら言ってね」
コク、と力なく頷く真っ白な後頭部を見つめながら、パタリと扉を閉める。
まあ、たとえ身内でも吐瀉物の処理はさせたくないのは分かるし。
洗面所は浴室を真似して魔鉱石で湯水を出し、そのまま浄水樽に汚水を流すように改良してあった。
枷で魔力を制限しているシェリエルでも顔を洗うくらいはできるだろう。
ディディエは理路整然と頭を回しながら、手はしっかり震えていた。冷たい汗をかいて、背中はぴったりとシャツが張り付いている。