42.マデリンと禍玉と悪魔
——それは、終わりのない悪夢そのものだった。
おかしいわ。どうしてかしら。どうして……
みんな祝福してくれないのかしら……
アルフォンスは周囲の予想を裏切り、学院戦の閉会式典でマデリンとの婚約を発表した。
恋人面をしていたイザベラは、それはもう恐ろしいくらいに顔を歪めて悔しがっていたし。
ディアモンの女たちだって嫉妬で顔を真っ赤にしていた。
……はずだったのに。
たしかにその光景を見た気がするのに、なぜかマデリンは学院の中庭で大勢の大人に囲まれ、ベリアルドと黒の悪魔に武器を向けられている。
ああ…… そうだった。あの悪魔たち、アルフォンス殿下が思い通りにならないからって、わたしを排除しようとしてるんだったわ。
殿下も少しくらい庇ってくださってもよろしいのに。
ハァ、と吐息を漏らしたつもりが、ゴポッと真っ黒な空気の塊を吐き出していた。
「亜はha派歯葉刃!」
「喩理うス、舞タイに毛ガれ都バスなッて!」
「お似ィ左ま、uしろ!」
「阿っ武ナッ!」
「亜まりトばし過ぎナイよuにね。よル魔でモタな胃よ」
なにか言っている。
なにを言っているのかは理解できない。
ただ、恐ろしくて、やめてほしくて、向かってくる彼らに“手”を伸ばした。
後頭部に飛んできた銃弾を払い落とし。
正面に迫る剣を押し返す。
誰も彼らの蛮行を止めようとはしなかった。
それどころか、あの悪魔たちを英雄のように見つめ、「殺せ」「滅ぼせ」「倒してくれ」と心の底から願っている。
マデリンには皆の憎悪と恐怖が手に取るように理解できた。
言葉は分からないのに、負の感情だけは分かるのだ。
世界とひとつになったような、全能感に似たそれは、悪夢に相応しく全方位からやってくる悪意を無限に再生し続ける。
悲しくて辛かった。
寂しくて死にたくなった。
わたしは嫌われているの?
ボクは要らない子なの?
無性に両親の顔が見たくなった。
上位のくせに立ち回りが下手でパッとしない親だと思っていたのに、優しく抱きしめて慰めてくれる存在が恋しかった。
お母様……
お父様?
誰かの悪意はこんなにも鮮明なのに、ふたりの愛だけは見つからなかった。
この場に、マデリンの両親はいなかったのだ。
娘が魔に堕ちかけていると知って、マデリンの両親は屋敷を硬く閉ざした。
使用人も排して夫婦ふたりだけで寝室に篭り、小さなテーブルで向かい合って一言も喋らずに視線を落としている。
そんな光景が脳裏に過ぎって、彼女は初めて泣きたくなった。
“ボクはやっぱり要らない子だったんだ……”
……?
夢のなかで、唐突に視点が切り替わったような感覚。
それまで自分事として見ていた世界を、演劇を鑑賞するような心地で俯瞰していた。
『許さない…… 許せない……』
聞こえた声は明らかに自分のものではないのに、頭のなかで同じ言葉が繰り返される。
ずるい。羨ましい。愛されたい。幸せになりたい。くやしい……
それは常日頃マデリンが内に秘める感情でもあった。
◆
「うわ、いまの聞いた?」
「禍玉ちゃんの声でしたね」
「理解できる言葉を発したということは…… 存在がこちら側に近付いてきているようだね」
「それってつまり、禍玉がマデリン嬢の身体を乗っ取ろうとしてるってこと?」
「まあ、簡単に言えば」
シェリエルも同じ見解であった。
魔に堕ちかけているマデリンの魂は在り方が曖昧になっている。
彼女の魂が消滅すれば禍玉が代わりに居座ることも可能なのだろう。
転生を経験したシェリエルにはそれがごく自然のことに思えたのだ。
「もしかして、禍玉ちゃんがマデリン様の身体を乗っ取れば、封印や討伐より楽に解決できるのでは……」
「たしかに」
「それなら私が繋ぐ必要もないしね」
「え、それで行く? シェリエル的には彼女の魂は消滅しても良い感じ?」
「良くはないですが……」
「お待ちくださいッ! それは本当に人なのですか! 穢れは解決しませんよ!」
バルコニーから響いたハインリの大音量に、ディディエが「それはそう……」と冷静に返す。
既にここまで穢れを溜めた禍玉が人の身体で生きれるわけがない。
結局魔物になるのがオチで、乗っ取りを完了させるにしても穢れは祓わなくてはいけないのだ。
「やっぱり封印が一番でしょうか……」
斬撃の合間に自然と発した言葉だった。
ユリウスの負担が大きいが、禍玉自身の魔力を使えば魔物に堕として討伐するよりも早くて安全である。
消滅させるのは忍びないし、封印すれば少しずつ穢れを祓うことも可能だろう。
が、それに応えたのは他でもない——
『イヤだ! イヤ! 閉じこめないで!』
「え、禍玉ちゃん……?」
『またボクをコロスの!』
「意思が…… 会話が可能に……」
「会話にはなってなくない?」
『おまえ、ジャマするな!』
マデリンの胸部でグワっと大口を開けた禍玉は、正確にディディエに向かって鋭い触手を伸ばした。
ディディエはそれを撃ち落としながらも、一転して好奇の視線を禍玉に向ける。
それはシェリエルがベリアルドに引き取られ、初めて挨拶をしたときと同じ表情だった。
「え、まさか、お兄様……」
「アハ、さすがに血縁は感じないよ。でも、面白いよね」
『おにーさん… おにーさま…… おにい、さま? おモシロい』
「お、あざといねぇ! でも、お前に兄と呼ぶことを許した覚えはないよ?」
『ッ! ……死ネ』
「あはは、治安悪っ!」
シェリエルはシンプルに「マジか……」と思って兄を見る。
兄はチラ、とこちらを見て「心配しなくても僕の妹はシェリエルだけだよ」と、良く分からない慰めの言葉をくれた。
意味が分からない。
ディディエはこの間にも禍玉に向かって「ディディエ様って呼んでみなー」と声をかけている。
禍玉は『ディでぃぇ』とおぼつかない発声で呼び捨てにしていた。
何もかも意味が分からない。
これから封印するか消滅させるかの対象と意思の疎通をはかりたがる人間なんているだろうか。
……あ、この人、共感力が終わってるんだった。
シェリエルは大事なことを思い出して、やはり嫌な人間を見る目でディディエを見ていた。
自分には、とても耐えられそうになかったから。
「こっちがシェリエルだよ。僕の妹」
『しぇぃ…しぇりえる…… いもーと』
「お兄様、やめて……」
『おにいさま、やめて?』
「だいぶ喋れるようになったね」
『あのね。ボクをコロサナイデ。生きたいヨ。シェリエル…… たすけて』
「ふふ、シェリエル。すごく揺れてる」
「お兄様ッ!」
シェリエルは思わず大きな声で叫んだ。
同時に、禍玉の顔面に左手で魔力を撃ち込んでいた。
もう、あの異形に人の言葉を話して欲しくなかったのだ。
ただでさえ死よりも魂の消滅に忌避感を持っている。
初めてユリウスから禍玉の正体を聞かされたとき、胸が引き裂かれるような心地がした。
あの異形はいまはまだ人の言葉を喋りながらも、バチバチと憎悪を撒き散らしながら触手を四方八方伸ばし暴れている。
なんとか割り切って、目の前の厄災を処理しようとしているのに、ここで迷いが出てしまえば……
「先生…… もしかして」
「……」
ユリウスは淡々と長杖で触手を振り払いながら、穏やかに微笑んでいた。
「葬送が目的だったのですか」
「君の葬送は美しいからね」
「そのために……」
「ベリアルドが何故、家族——とりわけ呪い持ちに執着するか分かるかい」
「……?」
唐突なユリウスの質問に、シェリエルは咄嗟にディディエの様子を窺う。
彼らの意思は同じであるはずだから。
「僕らはさあ、人に共感できないじゃない? それが僕らにとってどういうことか考えたことある?」
「社会からの疎外…… でしょうか」
「すごい、ほとんど正解。たぶん昔のベリアルドの方がその感覚が強かっただろうけど。でもさ、いまは国に役割を貰ってそれなりに社会に馴染んでるよね」
「じゃあ……」
「社会に馴染んだからこその“孤立”なんだよ。寂しいんだ。どんなに他人を可愛がっても、それはなんていうか」
「愛玩動物を可愛がる感覚かな」
言葉を探すディディエに代わってユリウスが答える。
セルジオは機械のように穢れを斬りながらもどこか遠い目をしていた。
ディオールは少し離れたところから長杖を向けながら無表情を貫いていた。
ディディエは安堵したような柔らかい笑みで「そういうこと」とひと言添えて、ディディエの名を繰り返す禍玉の額に銃弾を撃ち込んだ。
禍玉は『イタイッ! やめて、ディディエ! こわいよ!』と流暢な人の言葉を喋った。
それから、ユリウスとディディエは脳みそを共有したみたいに話を続けた。
「たとえばある日突然、たったひとりで精霊界に飛ばされたとする。人の形をした精霊に囲まれ暮らしたとして、果たして人は最期まで正気を保っていられるか」
「どんなに教えられたって、理解したって、持ってる感覚が違うんだ。種族の違いと言ってもいい。上位の魔力を持つ貴族が平民のなかで暮らしても同じようなことが言えるかもね。だから追放された貴族は裏社会に流れ着くんじゃないかな」
「種として見下しているとかそういうわけでもない。けれど、確実に隔たりがあって、意思の疎通ができるからこその孤独がある」
「他のみんなが当たり前に分け合っているものを自分だけは受け取れないんだ。嫌な気分だよ。目の前で自分にだけパンが配られなかったみたいにね。そういう孤独をシェリエルは知らないでしょ」
「それ、は……」
知らない。少なくともシェリエルにとって他者との隔たりは個性の範疇におさまっている。
ふたりが始めたこの会話にシェリエルはゾッとした。
「わたしは、ベリアルドの呪いを、受け継いでいない……?」
「私たちはそう考えている。君は一滴の水を渇望するような渇きを感じたことがないよね」
「シェリエルは天才だけど、狂ってるわけじゃない」
「けれど、それに近しい資質を持っている。前世の記憶が作用したか、教育の賜物か。もしくは属性に起因するのか」
「まあ、僕は限りなく同族に近いと思ってるよ。だからシェリエルが世界で一番大事」
「……」
除け者にされた心地がしてひどく胸が締め付けられた。
この苦しみをベリアルドは常に感じているというのか。
「そういった性質上、ベリアルドは数少ない同族に執着する。世界で唯一同じ苦しみを持つ者だから。実際は家族に対しても共感はしていないんだろうけど」
「うん、そうだと思う。共感するって感覚が分かんないから何とも言えないんだけど」
「でも…… 家族を害されればお兄様だって」
「それは共感によるものじゃないだろ? 誰だって大事なものを壊されたら怒るよ」
「しかも替えが効かない希少なものだ。執着が強いほど怒りも強い」
家族愛と共感力はまた別らしい。
「たぶんだけど、もしある日突然父上が真っ当な人間になったら、僕は父上が死んだように感じて真っ当な父上には何の愛着も持てないと思う」
「君ならその手で殺すくらいはしそうだね」
ユリウスはこれをベリアルドであるシェリエルよりも深く理解していた。
「先生も、ベリアルドなのですか」
「いや、血の繋がりはないよ。ただ、そうだな…… ベリアルドの呪いと同じことが私のココで起きているのは確かだろうね」
ユリウスは長杖を持つ手とは反対の人差し指でコツコツと自身のこめかみを叩きながら、薄いブルーの瞳を揺らめかせた。
彼は脳の構造が似通っていると言いたいらしい。
ディディエは「僕らは——」と、ユリウスのことも同列に語る。
「僕らは——いつもここが冷たいままなんだ。ユリウスは母親を穢したときに温度を失くしたんだね。あたたかい心がどうのって言うけど、きっとそれは脳の温度だよ。心は頭にあるんだから」
「多くの人が感情で制御する局面も、この冷たい脳は無視してしまう。理性とは別だ、感情を排除して論理的に物事を判断する。倫理観がないとか、共感力がないと言われるのはこのせいだろう」
「でも完全に機能してないわけじゃない。だから欠落を実感して、隙間を埋めるように渇望する。みんなはやり過ぎだとか言うけど、仕方ないんだよこればっかりは」
「寒いのは嫌だからね、温度を求めてしまうんだよ」
「……だから、お兄様は人を壊すのですか」
「壊れないに越したことはないけど、それくらいの強い揺れじゃないと…ってだけ。しかも他人に共感して感情を揺らすこともできないからね。正直、すごく飢えてる。同族も少なければ、刺激も少ない。孤独で退屈だ。快楽を得るには人の倫理を無視しないとこの冷たい脳は反応してくれないし。世に言う善人でいることは僕らにとっては死んでるのと同じなんだよ」
ディディエは一番の理解者がユリウスであるかのように振る舞って、シェリエルが同族ではないかのように仕組みを語って聞かせた。
なぜこんなときにこんなことを言われなくてはいけないのか。
ただただ寂しかった。
所詮ベリアルドに育てられた奴隷だと言われているみたいで。
本当に同族ならばわざわざ説明されなくてもそれが当たり前だったのに。
「ごめんね、シェリエル。でも、これが理解できないからってシェリエルが可愛くないわけじゃないんだ。そうじゃなくて——」
「先生にとって、禍玉ちゃんが唯一の同族だと言いたいのでしょう?」
ふたりは驚いたように目を丸めてシェリエルを凝視する。
泣くとでも思ったのか。
残念ながらそれくらいの冷静さは持っている。
「こうしているとやはりベリアルドらしいんだけどね。まあ、君の脳の優秀さは前世の記憶が作用しているんだろう。いつか、魂も記憶を持つという仮説を話したけど。内在世界は魂源にあり…… それは脳の代わりと言ってもいい。君の魂源は特別強いみたいだから、いくつも脳を持っているのと同じようなものなんじゃないかな」
「なんとなくそんな気はしていました」
どちらが先かははっきりしなかったが、ベリアルド由来だと思っていた処理能力はシェリエル独自のものだったということだ。
さらに疎外された気になって、熱を持った脳は思った以上に彼らを愛しているのだと教えてくれた。
「シェリエル、誤解しないで。それでも僕らは家族だ。血が繋がってないユリウスを同族だと思えるみたいに、シェリエルだって呪いがなくても同族だと思ってるよ。シェリエルは確実に似通った性質を持ってる」
「それはそれで嫌ですね」
「なんだよ、もう! 素直じゃないな」
プリプリ怒るディディエに少し安堵した。
自分の存在が揺らいだのはこの一瞬だけで、自身への理解が深まることでこの世界に立つ感覚がより強くなる。
そして、何が許せないか、どうしたいかも。
「やっぱり、わたしには禍玉ちゃんを封印することも、討伐することも出来そうにありません……」
「君ならそう言ってくれると思っていたよ」
本当なら、魔物になりかけている魂のひとつやふたつ、オラステリア全土の民と天秤にかけるまでもない。
封印でも消滅でも確実に処理できる方法を取るべきだろう。
そんなことは百も承知だ。
けれどもいまのシェリエルは、前世の倫理感よりも、前々世の義務感よりも、今世の忌避感の方がはるかに強かった。
ユリウスが禍玉を同族だと感じたように、シェリエルもまたあの醜悪な魂を同族のように思っている。
全の加護を持った魂だ。それに、来世がないのはあまりにも…… 虚無だ。
記憶が残らなくても、存在としてどの世界からも消えてしまうことが怖くて仕方なかった。
死んだらどうなってしまうのか考えて怖くなるのと同じ。シェリエルは死後を知っているから、魂の消滅が死に相当するのだろう。
「先生はあの魂を解放するためにライア様を唆したのですか」
「さて、どうだろうね」
「だから最初、禍玉の話をしてくれたとき、封印ではなく“祓い”だと言ったのでしょう?」
「その方が分かりやすいかと思って」
「陛下もそれを望んで先生を好きにさせていた。だから昨日…… いや、違いますね。陛下はべつに、禍玉の処遇なんて気にしてない。先生が望んだから黙認しているだけ」
ユリウスは満足の行く答えに辿り着いたからか、嬉しそうに笑っていた。
一応罪の自覚はあるらしく、決定的な発言は避けている。まだシェリエルのなかにある倫理観を危惧しているのだろう。
代わりに、ふたたびシェリエルに問いかけた。
「シェリエル、私のために戦ってくれる?」
シェリエルは今度はニコリともせず、ツンとした冷たい顔で答えた。
「仕方のない人ですね……」
これはシェリエル自身の望みでもあるから。
幾千の時を苦しみ抜いた同族を解放してあげよう。
多少、民が穢れようが構わない。
シェリエルは本心からそう思って。
「彼を葬送しましょう」
作戦変更。
ある程度のところまで穢れを削ればいいという話ではなくなった。
力任せに魂を消滅させるわけにもいかなくなった。
封印なんてもってのほか。
「……ということは?」
「すべての穢れを吐き出させます」
「ッアハハッアッハッハッ! そうこなくっちゃ!」
魂を来世に送るにはすべての穢れを祓わなくてはいけない。
この会話を聞き取る余裕があった貴族は監督役のハインリのみ。
彼は真っ青な顔でうしろにひっくり返った。
それから、もうひとり。
『そうそ? コロス? ボクをコロスの?』
「禍玉ちゃん、怖くないよ。大丈夫」
『だいじょばない! こわいよ、イヤ! 生きたいだけなのに! 生まれたかっただけなのに!』
「ごめんね、でも」
『ゆるさない、許さない。みんな許さない。いやなことばっかり。苦しいよ、すごく苦しいんだよ。ずっと苦しかったんだよ』
「いま楽にしてあげるから」
禍玉は死を拒絶した。
彼は生に拒絶され、長い間死にも拒絶されたのだ。
死にたくない禍玉と、殺したい悪魔の戦いが始まった。