4.おはよう、はじめての朝
「おはようございます、お嬢様」
優しげなメイドの声で目を覚ますと、見慣れない部屋には程よく朝日が差し込んでいた。
しっかり眠れてしまった……
「おはよう、ございます……」とまだ少しボーとする頭で挨拶を返す。
昨日と同じメイドが湯桶や布の準備をしていた。
「あの、おなまえは? きのう聞くのわすれちゃって……」
「わ、わたくしを名前で呼んでくださるのですか?」
「名前が分からないとこまるでしょう?」
「……メアリと申します、シェリエルお嬢様!」
メアリと名乗るメイドは桶を落として溢した水滴もそのままに、寝台の側で膝を突いていた。
メアリはまだ二十になったばかりの若いメイドだった。丸まった目はジワ、と水気を増す。そこには驚きや困惑が含まれているように見えた。
「メアリ、こちらこそよろしくおねがいします」
身体を起こし寝台の上でペコリと頭を下げると、メアリはまた目を真っ赤にして何度も頷いた。
それから上等の柔らかい布で顔を拭いてもらい、水色のフリルが着いたドレス——というには質素なワンピースに着替える。
「少し、大きいですね…… これからたくさん美味しいものを食べましょうね」
メアリはまた悲しげに眉をクシャとさせて声を落とした。
「このリボンを腰のあたりでむすべば大丈夫だとおもう」
「さすがお嬢様です、きっともっと可愛らしくなります」
少し濃いめの青いリボンを腰で結んでもらい、ぶかぶかと裾を踏んでいたドレスは一応不格好には見えないくらいにはなった。
リボンひとつで褒められるって三歳児最高じゃないの。
どうせ移動は抱っこだしこれまで古布を巻いただけのような格好をしていたのだからまったく不便でもなんでもない。
そんなわけで、いざ行かん。
悪魔一族との第二ラウンドへ出陣である。
メアリに連れられ訪れた食堂には、既に父セルジオと養母ディオールが向かい合って座っていた。
「おはようございます」
「おはようございます、シェリエル」
一応挨拶してみたところ、ディオールは視界にも入れたくないらしい。
セルジオの隣に着席し、メイドたちが見守るなか気まずい空気を無言で耐える。
彼女の逆鱗に触れませんように…… と祈っていると、少し遅れてディディエがやってきた。悠々とディオールの隣、シェリエルの正面に着席する。
「おはようございます、父上、母上」
見事に無視。
視線はしっかりこちらに固定されているあたり、余計にタチが悪い。普通の三歳児だったら意地悪されたと悲しくなっていたところだ。
「おはようございます、ディディエお兄様」
まぁ、わたしはそこらへんの三歳児とは違うので? こちらから挨拶して差し上げますけど?
「お前に兄と呼ぶことを許した覚えはないよ?」
辛辣な言葉とは裏腹に、嬉しそうに目を細めるディディエ。十歳とは思えない性格の悪さである。
一応「ごめんなさい、ディディエ様」と謝ってみれば、彼はニヤついた笑みを引っ込めて子どもみたいに目を輝かせた。
ヤバい、また失敗した?
目新しい“シェリエル”という存在に興味を示すのは最初だけかもしれない。だからこそこの小さな悪魔にどう接すればいいのか分からない。
運び込まれた朝食は、これまでの硬いパンとお湯のようなスープに比べると格段に豪華なものだった。
大人たちはパンと卵に肉を焼いたものを食べ、わたしには芋を潰したものとミルクが出される。
マッシュポテトではない。本当にただ芋を潰して軽く塩をしただけの料理だが、味気ないぐずぐずに浸したパンより断然美味である。
パンも焼き立てで香りが良く、ミルクの甘みでより一層美味しく感じた。
悪魔の巣窟であることを忘れ夢中で食べていると、全員の視線が集中していることに気づく。
「口に合いましたか?」
可笑しそうに笑うセルジオの声に、余計に頬が熱くなり、「お、おいしいです……」と羞恥で消え入りそうな声しか出ない。
どうせなら死ぬ夢だけじゃなく食事や日常の場面も夢で見ておきたかった。
朝と晩に同じような食事を取り、あとは自室でひきこもるだけの日々を数日過ごす。
メアリは玩具を用意できないと謝っていたが、玩具で遊ぶような趣味はないので曖昧に笑っておいた。
この三年で無責任な子どもの楽さにすっかり慣れてしまっていたが、シェリエルはそれぞれ違った世界の二十七歳、十六歳、三十何歳の記憶が入り混じっている。
そんな彼女が気になることといえば。
「何をご覧になっているのですか?」
「すごいお庭だなと思って。こんな広いお庭、どうやって整えるの? 魔法を使うの?」
例えばこの庭園。
前世の世界ならば機械で出来なくもなさそうだが、それでもかなりの人員が必要だろう。庭の終わりが見えないほど広い敷地が、緑と花で彩られている。
言葉も馴染んで身の回りのことが気になるお年頃……、というよりもこれは前世の癖だった。
こんな大きな石柱をどうやって削り出したのか、あんな高い天井一面にどうやって絵を描いたのか、これほどの大扉どうやって運んだのか、と。
どういう仕組みでどう作られたのか気になるのである。
「庭師は平民ですから、魔法など使えませんよ。数人で毎日少しずつ整えているんです」
メアリはクスクスと笑いながら、窓から見える庭師の一人を指差しながら教えてくれた。
「へぇ、そんな少ない人数で…… すごい。あ、見て、近くの木にリスが来てる」
「ふふ、かわいいですね。早く散歩が出来るようになればいいのですが」
そのうち庭へも降りてみたい。
そういえば、わたしまだこの世界の地面すら踏んだことがないのでは? 引きこもりも良いけどせっかくだからこの世界を堪能したい。
なんたって魔法のあるファンタジーな世界よ。あと十三年しか生きられないならそれなりに楽しまないと。
そんなことを考えながら、ボーッと外を眺める昼下がり。
平和である。
「あ、猫だ」
木の下で黒猫がこちらをジッと見ていた。メアリはテキパキと仕事をしながらも、面倒くさがらずに相手をしてくれる優しいメイドだ。
「鼠取りの猫ちゃんでしょうかね?」
「まだ小さいけどお利口そうな黒猫だよ」
「黒猫ですか? お嬢様の見間違いでは? この世界に黒い動物はおりませんよ。もしかしたら、煤で汚れてしまったのかもしれませんね」
「そうなの?」
そういえば、黒もこの世界に無いんだっけ。
あれ、何か忘れているような……
◆
「今日は執務まで時間があります。少し話をしましょう」
数日経ったある日、朝食を終えるとセルジオから声がかかる。
メイドに連れられ最初に訪れた談話室のような部屋に入れば、全員分のお茶が手際良く用意されていく。
話というのはもちろん“シェリエル”の事だろう。
判決を待つ囚人のような気持ちで大人しく長椅子に座っていることしかできない。
「あれからディオールとも話し合いましたが、シェリエルは僕の妾の子としてこの家で育てることになりました。ディディエ、貴方にとっては腹違いの妹です、余計なことはしないようにお願いしますよ?」
「余計なこととは失礼な。妹として、可愛がりますよ」
にっこりと良い笑みのディディエ。
これは玩具として遊び倒して飽きたら捨てるという顔である。
十歳でそんな悪い顔しないで欲しい。
「その代わり、ここでの衣食住、教育に関してはディオールに一任します」
……なるほど、わたしは十六歳まで生きられない、と。
ディオールは貴族らしく感情の見えない冷たい顔でこちらを見ていた。しかし憎悪はしっかり肌に突き刺さる。
あれ、でも…… そういえば……
ふと、あることが気になった。
ディオールは夢の認識だとあと数年以内に亡くなる。本当にこれで良いのか、彼女は夫が連れてきた愛人の子を憎み、最愛の夫に裏切られたと“誤解”したまま死を迎えて、と。
「あの……」
「どうしました? 何か気になることでも?」
「あの、わたしはお父様の子ではありません…… よね?」
目を丸くしたセルジオが微かにティーカップを鳴らす。
「セルジオ様、どういうことです! あなたの子でないならいったい誰の子なのよ!」
「シェリエル、どうしてそれを?」
セルジオはディオールの悲鳴に似た問いには応じず、ゆっくりと覗き込んでくる。
「どうして、というのは説明できません。ただ知っているんです。わたしはお父様の」
「そこまでです」
最後まで言い終わらないうちにセルジオが言葉を切った。
やはり言ってはいけないことなんだろう。
心臓が汗が吹き出すくらいけたたましく鼓動する。
わたしは自分が彼の子ですら無いことを知っている。そして、三度の死を経験したからこそ“死に方”が気にかかった。
そこにはもちろん打算や期待があったが、やはり目の前の彼女が憎悪に塗れて死ぬのも、まして自分がその原因になるのも嫌だったのだ。
セルジオが何か合図したかと思うと、メイドが全員部屋を出た。人払いしたようだ。
その上で小さな木箱を取り出し、魔力を込める。
「防音結界の魔導具です。この話は本来、僕以外知るべきではないですから」
あのディディエでさえ真面目な顔をして聞く姿勢になっていた。
緊張で口がカラカラに乾き……
ひとりコクリと紅茶を飲む。
「はぁ…… 困りましたね。もう隠せそうもないので話しますが、シェリエルは、クロードの子です」
「なんですって! あの子は今どこにいるのです、無事なのですか?」
「クロードはいまレシスト王国にいますよ。この子の母は、レシストの巫女なんです」
静まり返る室内。シェリエルだけが状況を把握出来ていないみたいに目を丸くして固まっている。
「クロードは僕の弟ですよ。そして、レシストの巫女というのは巫女を降りるまで男に触れてはならないんです。神力が落ちるとされる禁忌を犯したものは関係者諸共処刑され、子を宿したならばこの国と戦争にもなりかねません」
「戦争…… それで、両親はわたしをここへ送ったんですね」
「そうです。クロードがレシストに行ってからも僕たちは密かに連絡を取っていました。僕も援助して出産までは上手く隠せたんですが、貴女を育てるにはレシストは危険すぎた…… それに、ベリアルド家の子は特殊な教育が必要ですから」
汗ばんだ額を手で押さえるディオールの顔色は悪い。
「クロードの子であれば…… 育てるしか無いではありませんか」
「ええ、僕たちが守らなければ」
夫の愛人の子はダメで義弟の子なら良い、というのは女としての心情なのだろうか。
「クロードはわたくしにとっても弟なのです…… 守るべき家族です。無事だと分かって喜んで良いのやら、今まで黙っていた貴方たちに怒れば良いのやら……」
「ディオール、すみませんでした」
「……いいでしょう。この子はわたくしの実子として育てます。それと、本当に貴方に愛人がいるわけではないのですね?」
「ええ、もちろん! 僕の人生で愛する女性は後にも先にも貴女だけですよ」
セルジオの甘い囁きに思わず頬に熱を集めたが、ディディエは聞き飽きたと言わんばかりにスルーしている。
ディオールはまたキンキンと声を尖らせながらも、少し赤い目元から憎悪は消えていた。
「だったら最初からそう言ってくださいまし! わたくしは貴方に裏切られたと思ってここ数日ろくに眠れもしなかったのです。もう少しで殺してしまうところでした」
「家族を危険に巻き込むわけには行かなかったんです、分かってください。今日は執務を休むのでそれで許してくれますか?」
セルジオの笑みが砂糖菓子のように甘い。
ふと視界の端にディディエの毒々しい笑みが掠めた。彼はこの瞬間、紛うことなき捕食者の目をしていた。「え、」と思ってそっちを見ると、すでにそれを引っ込め愛らしい笑みを浮かべ、両親に呆れた声をかけている。
「父上、母上、子どもの前では程々にしてください。僕はまだ認めてはいませんが、ベリアルド家の長子としての振る舞いはしましょう」
「あら、子に夫婦仲の良さを示すのはベリアルド家では大切なことよ? あなたがこの子をどう思おうが構いませんけれど、余計なことはしないようにね?」
こわいこわい余計な事ってなんですか、もっと言ってやってください! どう見てもダメなタイプの笑い方してましたよ、お宅の息子さん!
上機嫌なディオールを連れてセルジオが部屋を出ると、ディディエは今度こそハッキリとあの目で笑っていた。
「これからよろしく、僕の妹」