12.光
「シェリエル嬢!昨日の返事を聞かせてくれ!」
まだ朝食を食べ始めて間もないというのに、食堂にはマルセルの快活な声が響く。
「マルセル様、申し訳ありませんがお断りさせていただきます」
「な、なぜだ!? 自分で言うのもなんだが、私以上の教師は見つからないと思うぞ?」
たしかに、魔術の知識や能力で考えればそうなるだろう。けれど、ノアはわたしの属性にも詳しいし何より面倒や危険が少ない。有難い申し出だけれど、余命の為にもきちんと断らなくては。しかし、どう説明すれば良いのだろうか……
「あの…… その……」
「マルセル様、シェリエルが困っているではありませんか。妹を研究対象にされるのは僕としても許容出来ません。それに一度儀式が失敗し、シェリエルも不安や混乱でまだ落ち着かないのです。そのところ、ぜひご理解いただきたいものです」
わたしが言い淀んでいると、ディディエが完璧な笑顔でスラスラと援護してくれた。なんだか人任せにしてばかりで自分が不甲斐なく感じるが、今はディディエの優しさに甘えてしまおうと思う。
少し困った顔して、マルセルにもう一度謝罪を入れる。
「そうか…… たしかに、付け入るような真似をしてすまなかった。だが、何か困ったことがあればいつでも相談して欲しい。下心があることは確かだが、必ず魔術士団が力になろう」
「ありがとうございます、マルセル様。お気遣い感謝致します」
マルセルはそれからも態度を変えるなどという事はなく、これまで通りに接してくれた。一日待たせた上に断ってしまったのに、本当に良い人だと思う。
「神官さん、この後お散歩でもどうですか?」
朝食が済み、部屋を出るタイミングで灰桃髪の神官に声をかける。神官は一度ビクッと肩を跳ね上げると、少し躊躇いを見せたがコクリと頷いてくれた。
後ろのディディエが少し気になりつつも、神官を歩き慣れた庭園へと案内する。こっそり横顔を盗み見しようにも、整えられていない伸びた灰桃色の髪が全てを隠してしまっていた。
「少しは休めましたか?」
「……はい」
心なしか、以前より口数が減ったような気がする。元々無口な人なのかもしれない。そう思ってすぐ、わたしはある事に気付いた。わたしはまだ彼の謝罪と過去の告白しか聞いた事がなかったのだと。世間話も好きな事の話も何もした事がない、何も知らないに等しいわたしが、彼の人生に関与してしまってもいいのだろうか。
少しだけ迷って、それでも言葉にする。
「神官さん、ここで働きませんか」
「え?」
「神殿に戻らなくても良い方法を考えたのですけど、ここベリアルド侯爵家で別人として働くのはどうでしょうか」
神官は俯いたままの顔を少しこちらに向け、ピタリと歩みを止めてしまった。これまで一度も神殿から出た事のない彼に、こんな提案をするのは酷かもしれない。
「それで…… あの、神官さんは死んだという事にして別人として生きてもらう事になるのですけど、やはり自分のこれまでの人生を捨てるというのは大変な事だと思うのです。ですが、もし神官さんが良ければ、こちらで新しい身分を」
「私は死んで、別人になるのですか……?」
やはり、そこが問題だろう。自分を殺すような行為を容易く受け入れてくれるとは思っていなかったが、この方法が駄目だった場合こちらに出来ることはもうない。
「もちろん神官さんの意思を尊重します!別人になってしまえば、あなたを知る人は居なくなります。近しい人にももう二度と神官さんとしては会えません。神殿に対し正面から抗議する事も復讐することも出来なくなります。なので無理にとは言いませんが」
灰桃髪の隙間からは白くなるほど噛みしめられた口元が覗いている。一度殺してしまえば、後で無かった事には出来ない。混乱しているだろう神官に出来るだけデメリットも説明しておかなければ。
そう思って言葉を重ねるわたしに、神官は初めて頬を緩ませた。
「私はずっと死にたいと思っていました」
「神官さん……」
心の読めないわたしでもその言葉に嘘がない事だけは分かる。何かを諦めた目、けれど、その奥が微かに光る。
そして、ゆっくりと、その意思を伝えてくれた。
「私は、ずっと、もうこんな人生やめてしまいたい、と思っていました。ですが、罰から逃げるという罪を冒すのが怖かったのです。シェリエル様が赦してくださるのであれば、私は、喜んで、死にます。もし、別の生を、与えてくださるのであれば、その全てをシェリエル様に、捧げます。私の中に残る私の罪も、こうして罰から逃げる罪も、これから償い続けます。ですから、どうか、この私を殺してください」
わたしは勘違いをしていた。神官は形式的に自分の人生が消える事を躊躇っているのではない。彼自身の心にある罪の意識から逃れられないのだ。
実際に生まれ変わったわたしでさえも、前世の人生を別物として切り離せていない。記憶が残る限り、わたしという自意識は存在し続けるのだから。
有りもしない罪を、ただひたすらに償おうと耐える神官を、人は笑うだろうか。会ったばかりの子どものわたしに、人生を託す神官を、愚かだと思うだろうか。
わたしには神官の苦悩を理解する事が出来なかった。どうしてさっさと逃げてしまわないのか。どうしてやり返さないのか。どうして自分を責め続けるのか。
殺して欲しいと願う神官は、それでもまだ自分の罪を信じている。きっと、彼を赦すのは神でもわたしでも無いのだろう。
理解は出来ないけれど、理解を示すのがベリアルドだ。
「神官さん、わたしがあなたを殺します。親の罪もわたしが引き受けましょう。これからは自分の事だけを考えてください。新しい人生を受け入れ、幸せになる努力をしてください」
「幸せに、なる、努力……」
わたしには神官の傷を癒す事も、罪の意識を取り去ってあげる事も出来ない。わたしは今日これから得る事になっている、侯爵家の末子という身分を使い、ほんの少し彼の視線を変える事しか出来ないのだ。
「生まれ変わるのもそれほど悪くないものですよ」
すぐに割り切れなくても、切っ掛けや言い訳に使えば良いのだ。
その意味を知るディディエだけが、後ろで小さく笑っていた。
「そうだ、新しい名前を決めましょうか。何か希望はありますか?」
「名前を、いただけるのですか?」
「もちろんです。今ならまだお父様もいらっしゃるので、わたしの届けと一緒に出して貰いましょう」
神官は少し考えるように黙り込むと、今度は真っ直ぐにわたしを向いた。
「許されるのであれば、シェリエル様から名をいただきたい、です」
「おっと、シェリエルに名付けを任せるのは後悔する事になるよ?」
これまで黙って聞いていたディディエが咄嗟に口を挟む。わたしの名付けにどうやら不安があるらしい。グリちゃんは少し安直だったけれど、ノアは良い名前なのに。
神官はぶんぶんと首を横に振り、本当に良いのか? と念を押すディディエに、今度はコクコクと首を縦に振った。
ならば、ちゃんと考えよう。これから、少しでも神官の未来が明るくなるように。口にするのも悍ましいと言った、過去の名を払拭出来るように。
「リヒト…… はどうでしょう。光という意味です。これからの人生に光が有り続けますように、そしてリヒト自身が光となれますように。と、願いを込めました。どうですか?」
本当に光が漏れるかのように、神官は目を輝かせた。
「リヒト…… そのような素晴らしい名を、本当にいただいても……」
「ふーん、まぁ悪くないんじゃない? シェリエルにしてはね。シチューなんて名を付けずに安心したよ」
躊躇いながらも、何度も小さく「リヒト」と呟く神官の横で、ディディエがまたも失礼なコメントを残してくれた。
「わたしだって、流石に人の名はちゃんと考えます! ノアやグリちゃんは如何に特徴を捉え、分かりやすいかが肝なのですよ」
「アハハ、それノアが聞いたらどんな顔するだろうね」
もう!ディディエが茶化すせいで折角の名付けが台無しだ。今更ながら、人に名を付けるという大層な事をしてしまったと冷汗をかくが、神官の様子を見るに気に入ってくれたようなので良しとする。
これまで下ばかりみていた神官は空を見上げ、まだ新しい名を反芻していた。
「リヒト、これから何をするかゆっくり考えて行きましょう」
リヒトはハッとこちらに思考を戻したかと思うと、突然地面に片膝を付いた。左手を胸に当て、右手を腰に回し首を差し出すように真っ直ぐに伸ばした上半身を折る。
貴族の、最も敬意を表す礼だった。
「シェリエル様、私リヒトが、この命、魂、生涯全てをシェリエル様に捧げる事をお許しいただけますか」
人生を捧げるという申し出に、動揺しなかった訳ではない。わたし自身は何もしていない。全てディディエやヘルメス、セルジオの力なのだから。だが、だからこそ、応えなければとも思った。ただ思ったままに「戻らなければ良いのでは」と口にしたわたしが、リヒトの人生を背負う覚悟を持たなければ。
「許します」
そう一言返すと、リヒトは胸に添えた手をキツく握り締め、くしゃくしゃになった顔を涙で濡らしていた。
そしてわたしは改めて決意する。ちゃんと、生きなければ、生き残らなくては、と。三年やそこらでリヒトの決心を放り出す訳にはいかない。
「リヒト」と何度も名前を呼びながら、ゆっくりと庭園を歩く。気恥ずかしそうに微かに頬を染め、下を向いてばかりだった視線が少しずつ花や木々へと移される。
初めて会った時は土気色をした枯れ木のようだったが、若干精気を取り戻したかのように見えた。虚だった目には光が宿り、緩く下げる目尻が子犬のようで、可愛らしい。
六つも年下のわたしに言われたくないだろうと思い、そこは黙っておいた。
「……という訳で、リヒトという名で一緒に届けを出していただけませんか?」
散歩から戻りセルジオの執務室を訪れると、わたしはリヒトの件をお願いする。
「そして、神殿から送られた神官をわたしが処分した事にして欲しいのです。せめて、書類の上だけでも、わたしが責任を持ちたいと思っています」
ディディエが公式的にも兄妹になりたいと言った意味が、少しだけ分かった気がする。所詮、紙の上の定義だ。けれど、神への誓い、互いに交わす誓約とはまた違う、そう在りたいという宣言のような、意思表明に近いだろうか。
「いいでしょう。どうせシェリエルを買い取った事も噂程度にはなるでしょうから、その時ついでに買った事にでもしておきますか。少々時期がズレますが、使用人の扱いはそれほど細かい事は言われませんから。ああ、もちろんシェリエルを買った事は明言しませんよ?」
「闇オークションでもバレるものなのですね」
噂される事がどうと言うより、ベリアルド家が情報を隠しきれない事に驚いた。
「ええ、あそこには他の貴族も居たでしょうから、貴女の姿を見れば分かる事ですよ。ただ、公にすると自分がそこに居た事も表に出るので噂程度という訳です」
「たしかに、わたしの髪はこれですものね……」
セルジオは一つ一つわたしの疑問に答えながらも、スラスラと新しい書類を書き上げる。執務が嫌いと言いつつ、処理能力自体はあるというのは、ベリアルドだからだろうか。
事前にヘルメスが話を通しておいてくれたらしく、すんなりとリヒトの身分詐称の下準備は終わった。奴隷として買ってきた事にすれば、成人を過ぎてからでも申請が出来るそうだ。
訓練しても使えなかった場合、またどこかに売ってしまう事があるかららしい。奴隷という文化に慣れないわたしは、納得しつつも微妙な心持ちでその説明を聞いていた。
「これを提出したらすぐに戻りますから、今夜のお祝いは僕も参加しますよ。ああ、ノアを誘ってもいいですよ、彼はこの手の経験が無さそうですし」
セルジオはザリスに身支度を手伝って貰いながら、尚もわたしに色々な事を告げていく。
「そうそう、この申請を出すと、お茶会の招待状や縁談の申込みが来ると思います。選別や礼状の書き方などはディオールに教わってください。ディオールの審美眼は確かなので心配いりませんからね。ああ、お披露目会の準備も必要ですね」
おぉ、いきなり縁談ですか? そんなまさか。だいたい会ってもいないのにいきなり七歳の子に縁談を持ちかけるなんて、おかしいだろう。
せめて、何度かお茶会とかで会って、どんな子か見ておきたいと思わないのだろうか。まぁ、本当に来るとは限らないし、まずはお茶会のイメージトレーニングでもしておこう。お披露目会という言葉に嫌な予感がしながらも、年の近い他家の御令嬢と仲良く出来るだろうかと、そちらに意識を持って行かれる。
矢継早に喋り切ったセルジオは最後にこう付け加えた。
「もしかしたら、王宮からも来るかもしれませんね、お手紙」