23.ガーランドの綻び
「離縁してくださいまし」
コンラッドはそう言われてしばし言葉を失った。
突然何を言い出すのか、と。
妻は出会った頃から自分に惚れていた。縁談を纏めるのには少し苦労したが、口説き落とすこと自体は容易かった。
憧れの男と結婚し、贅沢な暮らしをして、男児にも恵まれ、長女はこれから王妃になろうというのに…… 何故。
「何を言っている?」
「離縁してくださいと申しているのです」
「そういうことではない。何が不満なのだ」
「愛のない夫婦生活にはうんざりしました」
「なんだと?」
愛……?
自分はこれまで領地にも家族にも尽くしてきた。
領地を豊かにし、後継者であるフェルミンには最高の環境を整え、教師も上位の優秀な者ばかり集めた。
妻グレースに女としての魅力は感じないが、妻としてしっかり管理し、夫の務めは果たしてきたつもりだ。
政略結婚などもっと淡白であるくらいなのに、愛だなんだと寝ぼけたことを……
そこでコンラッドはハッとした。もしや妻は恋愛結婚だと思っているのではないか、と。
「お前はそれでも貴族か。家門同士の繋がりである婚姻の契約をなんだと思っている。もう年若い生娘ではないのだ。少しは領主の妻としての自覚を持ったらどうだ」
「コンラッド様こそ婚姻の契約をなんだとお考えなのです?」
まともに口答えされ、カッと頭に血が昇る。
生意気に反抗されたことにばかり気がいって彼女の言っていることが頭に入ってこない。
すると、談話室に見知らぬ男が二人、そろそろ入ってきてグレースの隣に並ぶ。
「その身なり、補佐官か。他領の人間の入室を許可した覚えはないが」
「お初にお目にかかります。この度、グレース様の臨時補佐官をさせていただくことになりましたディルクと申します」
「右に同じくバージルと申します」
ディルクという男はどこかで見たことがあるような気がした。
が、なぜかどこの誰であるか記憶がハッキリしない。コンラッドにしては珍しく人の背景を思い出せず、瞬時にグレースの実家ベリー家の補佐官であると認識した。
夜会などで相手が誰だか思い出せないとき、その周囲や会話の内容からあたりを付け、会話の中で誘導して人物を確定する。
離縁の申し出に次いで補佐官が現れたのだ。所属を告げない二人を無作法だとは思っても、分かりきったことを尋ねるという無様な真似はできないのである。
「補佐官まで用意して…… この恥知らずが。家門に泥を塗る気か! フェルミンはどうなる、イザベラが破談になっても良いと言うのか」
「妻が必要ならばどこぞの妾でも後妻として娶ればよろしいのではありませんか?」
「……なに?」
コンラッドは思わず生唾を飲み込んだ。このぼんやりした何の取り柄もない妻が愛人の存在に気付いているなど思いもしなかったのだ。
「わたくしが何も知らないとでも?」
「いや、誤解だ…… それは。派閥の付き合いで。娶るような女ではないのだ。愛があるわけでもない、ただの遊びだ。それくらい分かるだろう」
一瞬、相手まで分かっているのではと肝が冷えた。ライアとの関係が表沙汰になれば破談だ何だと言う前に自分の首まで危うくなる。
「それにしてはすいぶんと関係が長いようですけれど。もう二十年…… ほどでしたか。その方と結婚して差し上げれば良かったのではありません? ああ、コンラッド様は当時派閥の筆頭だったベリー家の後ろ盾が欲しかったのですよね。それがわたくしに付いてくるものですから、仕方なく結婚してくださったのでしょう? そのお相手の方も不憫なことですよ…… 地味で美しくもないわたくしなどに家門の力だけで貴方を奪われたのですからね。うふふ、それで、ただの遊び? 愛も無かったと? 女の人生を踏み躙っておいて、よくもまあそのようなことが言えましたわね」
妻がこれほどはっきり物を言うとは思ってもみなくて面食らう。が、相手が分かっているのかいないのか、グレースは決定的な言葉は避けた。
それにしても、急にこんなふうに変わってしまうなどどう考えてもおかしい。妻は自分に惚れ込んでいたし、このように口答えする女ではなかった。
入れ知恵した者がいる。そうとしか考えられない。
「男か。男が出来たのか」
「一緒にしないでいただけます? ご自分がそうであるからとわたくしまで同列に考えて貰っては困ります」
その物言いにカッカッ、と頭に熱が篭る。女に侮辱されるほど腹立たしいことはない。
だからと言って他家の補佐官の前で声を荒げるわけにもいかなかった。
「今さらベリー家に戻ってどうするのだ。父君ももう隠居の身。現ベリー侯爵が出戻りのお前を養ってくれるとでも?」
「ご心配には及びませんわ」
「ハッ、やはり男がいるのだな。身勝手なアバズレめが家門に傷を付けてまで自分の欲に走るか」
「どうとでも仰っていただいて構いません。ただ離縁していただければそれで」
「離縁はしない」
せめてあと十年。イザベラが王家に嫁ぎ世継ぎを産んで、フェルミンが宰相に就けば離縁してやっても良い。
それからフェルミンにはしばらく宰相をさせて、自分が死んだ後ガーランドを継がせるつもりでいる。子どもたちの将来が確定するまでは家門に瑕疵を作るわけにはいかないのだ。
固く拳を握って怒りに耐えていると、ディルクという補佐官がスッと一歩前に出た。
「僭越ながら、離縁の協議書をまとめさせていただきました。この場でご了承いただけるのであればいくつか条件を取り下げる用意があります。もし認めていただけない場合はこの条件で請求させていただきますので」
「請求だと?」
パッと書に目を通す。
一瞬、紙の質感からベリアルドの書かと思ったが、形式は旧来のものだった。
そこには、フェルミンの親権を主張するだとか、これまでの精神的苦痛に対する賠償金だか、夫婦としての契約違反に対する違約金だとかがずらりと書き連ねてあり、いま離縁するならばその中から譲歩する、というようなことが書かれている。
「なにを馬鹿げたことを…… そもそも、フェルミンはガーランドの嫡男だ。お前に渡すわけ…… まさか、お前。フェルミンを当主に家門を立ち上げようと……」
「……」
「子を利用するなど母親として恥ずかしくないのか」
「貴方に言われたくありません。父親としてあの子たちに胸を張れるのですか? 妻にも紹介できない妾崩れの女を外に作り、息子に自分の野望を押し付けて娘は道具扱い…… 利用しているのは貴方ではありませんか。フェルミンは聡い子です、その理不尽に気づいていないわけがないでしょう」
「だからどうした。魔力、家門、性別、生まれた順番…… 貴族はそれらで序列が決まる。ガーランドの次期当主に相応しい教育ではないか」
「……本気でそう思っているのならば、フェルミンはわたくしが引き取ります」
「そのような勝手な言い分が通ると思うなよ」
声を強めたが妻は「はぁ」と小さく溜息を吐いただけで、補佐官二人に視線をやる。
それに二人はコクリと頷き、ディルクが真っ直ぐな姿勢を保ったままニコ、と微笑んだ。
「では、これよりグレース様は屋敷を出られますので、協議はすべて私ディルクか、このバージルを通していただくことになります。御用の際はこちらにご連絡いただければと」
ディルクは文通の魔導具を取り出し、コンラッドの補佐官に向けると印を発現させた。
これまでは連絡を取り合う際、通信や転移の魔導具を互いに持ち合うか、家門に手紙を出していた。それがここ最近ではこうして印を交換してひとつの魔導具で複数人とやり取りができるようになっている。
まさに歴史の転換期であった。一瞬でも目を離すとあっという間に取り残されることになるだろう。
いまはまだ先頭に食らいついている。これからはその最先端へと上り詰め、自分がこの国を引っ張るのだというのに……
こんなところで離縁だなんだとやっている場合ではないのだ。
グラグラ腑が煮えくり返って握った拳は震えていた。
コンラッドは淡々と事務的なやり取りをするディルクに静かな視線を向ける。
「ディルクと言ったか。其方、まさかこの条件で離縁ができると思っているのか? ベリー家も落ちたものだな」
「ええ、もちろんです。必ず、離縁していただくことになりますよ。ですが、コンラッド様にも少し考えるお時間が必要でしょう。一週、ご検討ください。一週後に離縁の手続きをしていただければ、最初の条件で離縁の誓約書を作成させていただきます」
「世迷言を……」
離縁で協議するならば少なくとも一年はかかる。まあ、最悪離縁となっても一年あれば辛うじてイザベラの婚約くらいは済んでいるだろう。
アルフォンスはすでにアリシアと婚約を破談にしているので、一度婚約してしまえばそうそう破談などにはならないだろうと考え、コンラッドはとりあえず最低一年、目処は三年と見積もった。
三年引き伸ばせばイザベラにも第一子が生まれているかもしれない。
そうなればグレースも考え直すだろう。
その後戻って来たいと言ってももう遅い。今度は自分が離縁を突きつける番だ。思い上がった罰だ、もちろん銅貨一枚くれてやらないし、身ひとつで追い出してやる。
このとき、コンラッドはただただ怒りを滾らせていた。
従順だった妻に舐めた真似をされ、いまの状況そのものに憤っている。
「では良いお返事をお待ちしておりますわ。お世話になりました」
妻はスッと背筋を伸ばしたまま軽く姿勢を低くし、ゆっくりと美しい礼をした。
コンラッドはそれに何も言えなかった。言葉が出なかったのだ。
背を丸め小さくなって人の顔色ばかり窺っているような地味な妻がこの時はまったくの別人に見えた。
妻は本当にその日のうちに出て行った。
しばらくは王都の別邸に滞在するというので予定していた当面の外出も変更する羽目になった。
「父上、母上が……」
目を真っ赤にしたフェルミンが執務室の扉から顔を出す。
妻はもうすっかり荷造りは終えていたらしく、あれからずっとフェルミンと話していたらしい。
「泣いていたのか。情けない……」
「申し訳ありません」
「グレースのことなら気にしなくて良い。そのうち戻ってくる」
「本当ですか!」
「ああ…… そのうちな」
戻って来たとしても結局追い出すが。
フェルミンも学院に入学し、城の外で生活するようになれば少しは慣れるだろう。この年頃の子は入学すれば自宅よりも友人の多い学院の方が楽しく感じるものであるから。
「フェルミン、少しの間父のところへ行くか?」
「お爺様のところへですか?」
「ああ、城だと母の不在が気になるだろう。少しの間だ、来年には学院で生活するのだからその練習だと思えば良い」
「そうですね…… そうします。お気遣いありがとうございます」
フェルミンは柔らかく笑って軽く頭を下げると、少し鼻を啜りながら執務室を後にした。
息子は少し気の弱いところがある。年頃から考えれば聡明な方であるが、領主にはイザベラの方が向いていた。
イザベラが男児であればこれほど気を揉むことも無かっただろうに。
どうにもならない事で気を病むのが嫌で、イザベラのことはなるべく視界に入れないようにしていた。
まあ、それでも王家に縁付き王子を産むことになるのだから、産ませておいて良かったとは思うのだが。
それはそうと、補佐官の残していった書は見れば見るほどふざけたものだった。
離縁の際に違約金や親権を求めるなど聞いたこともない。稀に、家門同士の契約不履行で賠償金を支払うことはあるが、これは夫婦間での契約違反であるという内容だ。
夫としての務めは充分すぎるほどやって来たというのに、ただの嫌がらせにしか思えなかった。
……嫌がらせ。あのグレースが。
あれだけ自分に惚れ込んでいた女が自分に嫌がらせをする。
気を引きたいだけか。それとも本当に他に男ができたのか。
ふと頭を過ったのは先日屋敷で楽しそうに話していたディディエとグレースの会話だった。
まさか、そこまで愚かな女ではないだろう。親子ほど歳の離れた悪魔一族の嫡男に本気で恋をするなど……
あの男のことだ、どうせあれも思ってもない世辞である。それが世辞と分からないほどグレースだって若くない。
いやしかし。若くないからこそ、のぼせ上がっているのではないか。最厄期には人が狂う——グレースは恋に狂ったということか。
やっとこの不可解な出来事に納得すると同時に、呆れて物も言えなくなった。
もう成人した子もいるというのに、若い男に狂うなど末代までの恥である。
とにかく、何を言われても離縁の儀をしなければ良い。契約の破棄には儀式が必要なのだから。
それから二日、三日と経ってコンラッドは普段通りに過ごしていた。
幸い、夜会の予定はなく、茶会は病を貰ったと欠席の手紙を出せば、この時期であるので見舞いの品がすぐに届く。
五日経ったころにはコンラッドはどうグレースを後悔させてやろうかとそればかり考えていた。
馬鹿な夢を見て自分をコケにしたのだ。謝ったくらいでは許さない。
いっそ、本当に離縁してやって悪魔相手に玉砕したところを笑ってやろうか。
ディディエもさぞ困るだろう、ただの世辞で良い年をした女が家門を捨てて迫ってくるのだから。
待てよ…… ディディエが唆したのではないだろうな? いや、それは無いはず。自分たちを離縁させても彼には利が無い。いまは商談相手として上手く行っているし、事業の準備費用だなんだと大きな金が動いているのでガーランドと切れることは避けたいはずだ。
ああ、そうだ。ディディエに懸想をして離縁したいと言うならば、その違約金とやらをベリアルドに請求すれば良い。
さすがに、真正面から請求するわけにはいかないので、事情を匂わせ投資した資金を返して貰うのが良いだろう。いまは賠償だのなんだのとやっている場合ではないので、彼らも金で解決したがるはずだ。
そう考えると、離縁しても良い気がしてきた。
あとは体面の問題である。妻に逃げられたなどというのは絶対にあってはならない。が、ベリアルドに誑かされたとなれば話は違う。
多少、“そんな馬鹿な女を妻にしていた”、という汚名は被ることにはなるが、玉砕して失意に暮れるグレースに手を差し伸べればそれはそれで良い流れが作れそうだ。
最厄期に狂った妻に気が済むまで好きにさせ、困ったところで救い出す。なんとも懐の深い男ではないか。
頭のなかで大まかな流れを作り上げたコンラッドはやっと気を落ち着けることができた。
予期せぬ事態ではあったが、これくらいのことを捌けないでは領主などやっていられない。
最厄期には何があってもおかしくないのだ、冷静に対処しなければ、ともう一度書に目を通した。
◆
一方、王都のガーランド別邸では。
「なあに、この可哀想な手は。その足先も、これで良く立っていられたものですね」
「……は、はい。申し訳ありません」
グレースは緊張でハクハク息をして、背中がギュウっと丸まっていくのを必死に堪えていた。
夫に対峙した時よりも心臓が小さくなっている。
淑女らしからぬ下着のような衣装を着せられ、煌めく深紅の髪をゆったりおろしたディオールがゆっくり自身の周囲を歩いているのだ。
針を刺すような鋭い視線は責められているようで、同階位で年頃も同じなのに恐ろしくて仕方がなかった。
「良いでしょう。まあ、改善の兆しが出るのが三月。理想まで持っていくには一年はかかるでしょうね」
「み、三月で変われるでしょうか」
「その頃に変わり始めると言っているのですよ。数十年も放っておいた身体が一瞬で改善するなんて魔法は存在しないのですからね。目に見えた効果を得るにはその分努力が必要でしてよ? よろしくて?」
「はい、よろしくお願い致します」
「結構。それじゃあまず、初級のヨーガから初めてもらいましょう」
ディオールはそう言うとスタスタと部屋から出て行ってしまった。
テーブルや椅子が運び出されガランとしたサロンに、グレースとディオールの侍女が数人。
大きなキルトを敷いて、言われるままにその上に座る。
「い、いだ、イタた…… 無理だわ、もう無理よ」
「息をゆっくり吐いてください。ええ、そうです。ゆっくり、細く息を吐き出しながら少しずつ身体を倒して行きましょう」
「年を考えてちょうだい」
「僭越ながらわたくしの方が長く生きさせていただいております」
「なんてこと……」
十は下だろうと思っていたディオールの侍女が自分より年上だと知りおもいきり目を回す。
簡単な運動だと聞いていた。
床に座ることすら初めてなのに、脚を広げたり身体を折り曲げたり…… 拷問かと思うような無理難題が延々と続くこの状況は一体何の罰なのか。
息も絶え絶え、終わったころにはガクガク膝が震えて手にもまともに力が入らない。
「こ、これを…… 毎日?」
「初めは二日に一回程度で予定しております。グレース様の身体と相談しながら徐々にお休みを減らして行きましょう」
「身体と、相談……」
「はい」
すなわち、グレースの意向は無視ということだ。
侍女はにっこり笑って薄く汗をかいた全身を洗浄してくれる。
ぬるい水を飲んで別室へと向かった。
と、思ったのにだ。扉を開けると知らない部屋だった。何が起こっているのかと目をパチパチさせるが、本当に何が起こっているのか分からない。
二十年近く通い、慣れ親しんだこの別邸に知らない部屋などあるはずがない。
夏の雨の日のように湿り気があり、温室のように華やかな香りのする部屋なんて、この屋敷には無いはずだ。
「一時的にベリアルドの別邸と繋がせていただきました。今日しか使えないものなのでご安心をくださいませ」
「そ、そう」
そうなのね、と思うしかない。もはや屠殺場に連れて行かれた畜生のように、グレースの意志は取り上げられて、すべてをあのディオールが握っているのだから。
「来たわね。ではこの台に横になってくださる?」
「え……」
「ゆっくりしている暇はありませんよ? 解放の儀が遅れればそれだけ身体にも良く無いものが溜まりますからね」
そんな大仰なことを言われれば、グレースも慌てて台に寝そべるのであった。
こんな姿で他領の貴婦人の前に横たわるなんてどう考えてもおかしいのに。
「あの、でも。ディオール様にマッサージをしていただくなど、とてもではありませんが」
「貴女の知るマッサージではありませんからご心配には及びませんわ。では少し触れますわね」
「ひ、ヒィ…… いッ、いぁ…… イタタタタ!」
殺される……
生きたまま身体をバラバラにされて殺されるんだと思った。
肩を骨からグググと動かされ、肉を骨から剥がすように指を入れられ、硬くなった首周りの身を落とすように引っ張られる。
そこはきっと指を入れてはいけないところだと思う。その関節はそんなに曲がらない。頭では常に反論しているのに、口は獣のように叫ぶのに忙しくてまともな言葉が出てこなかった。
これがディオールの言う解放の儀であるらしい。
「肩がこうして内側に入っているでしょう? 背中を丸めるのが癖になっているようね。それでほら、肘の関節も少しずつ内側に捻れて、手首なんてもっとよ。本当は、こう! この向きが正しく美しいの。指先だってギュッとしてしまっているわ。分かるかしら、指の関節のひとつひとつが縮んで指も腕も短くなっているの。……こうよ、こう。詰まっていると浮腫みますからね。指先で血液や魔力が滞れば心臓への返りも悪くなる。全身が澱んでいくの。ほら、痛いでしょう? 正しい指先なら痛くないのよ? 美しくないって罪ね。これは罰だと思いなさい」
「ひ、ひぃ、いいいいい……」
歯を食いしばって痛みに耐えた。本当に、涙が出るほど痛いのだ。こんなに痛いことなんて人生であるだろうかってくらい痛い。
関節ひとつひとつが正しい位置に戻るようにじっくり強引に引っ張られる。
グレースは泣いていた。これは生理的な涙である。
「奥歯を噛み締めるのはいけませんよ、どうしても辛いならゆっくり息を吐きなさいな。先ほどやったでしょう?」
「フー…… フゥ……」
「よろしくてよ。これじゃあ呼吸もしづらいでしょうに。良くこれで生きていられるわね」
「ふぐっ……」
肋の下側から指を入れられ、じんわり内臓から剥がされる。本当に無理。もう無理。なにも考えられない。
ディオールの責めは続いた。そんなところに指を入れてはいけないというところまでグイグイ攻め込んで来て、骨盤から膝裏、足の指先まで念入りにほぐされ伸ばされる。
先ほどの運動よりも嫌な汗をかいた。
「ふう。まあこんなものかしら。お立ちになって」
「ハァ…… はぃ」
ヨタヨタと身を起こし、そろそろ床に足を付ける。
不思議なことにスッと身体が真っ直ぐになって足が驚くほど軽かった。なのにしっかり地を踏んでいる感覚がある。
それに、もう全身痣だらけになっているだろうと思っていたのに、痛いところなんてひとつも無かった。あるのは心地よい疲労感だけ。身体はむしろ、羽が生えたように軽い。
こうなってみれば、ディオールの呆れがこもった言葉の意味がよく分かる。
これまでの自分は鎧を纏ったように重い身体で生活していたように思えた。
「そうねぇ、やはり上位は下腹まわりよねぇ。腰にも余計な肉が溜まるのよ。ほら、ご覧なさい」
湯気の向こうにある姿見の前まで連れていかれ、曇りのない鏡に自分じゃないみたいなシャンとした貴婦人が立っていた。身長が少し伸びた気がするし、首が長く顔が小さくなったように思う。
けれどディオールは相変わらず呆れたように眉間を寄せて、グレースを後ろ向きにさせる。
振り向くように自分の後ろ姿を見せられた。
「ねーぇ、脚ってどこからだと思って? 本来はここ。ここから脚なの。それがお尻と一緒になってしまっているのがお分かりになるかしら? 臀部が垂れて四角になっているでしょう? ここをこう、引き上げて、きちんとお尻と脚を分けますよ」
「は、はい……」
薄い布地は緩く身体に沿っていて、グイッと持ち上げられた臀部からなんとなくという具合にぼんやり脚が伸びている。
三月と言われていた見た目の変化だが、この短時間でもグレースにとっては大変身である。呪文も祝詞もない魔法のようだ。
が、ディオールの酷評は止まらない。
背骨が曲がっている。膝が内側を向いている。足の指先が団子になってまっすぐ伸びていない。手足の甲に走る五本の骨だって偏りがあるし、首に頭が落ちて首筋に余計な筋肉が付いている。
散々な言いようだ。けれど、その分変われるということ。
「顔の形や全体の骨格からして、腰回りの肉も落としてしまって全体的に細身に仕上げた方が良さそうですわ。お胸はしっかりありますから、夜会用の…… そうそう、ベリアルドで新しく仕立てている貴婦人用のドレスにぴったりの物がありましてよ。お顔立ちがお上品ですから、あまり曲線を出しても品が無くなりますからね。大柄なドレスもいけないわ、最悪。カットの精巧な宝石を付けるならばひとつだけ。あとは大ぶりの真珠などがよろしいわね。そうなると…… 首周りはすっきりさせないと駄目だわ。これは絶対よ。まあまずはそのだらしない二の腕を引き締めて、骨格を治すところからですわね」
グレースはパチパチとまばたきをしながら胸をドクドク鳴らした。
どれも、辛辣で耳が痛くなるようなことばかりだが、ディオールの語る理想像はグレースの好みにしっかりはまっていた。
地味なこの顔があのディオールに「上品」と評されて顔に火が灯る思いである。
そうやってしばし呆然としていれば、ディオールはサッとローブを脱いで艶かしい肢体を披露した。
女の自分でも思わず溜息が出るような美しい曲線から目が離せない。
「うふふ、これでもまだまだ改善の余地はあると思っているのですけれど。どうかしら。上等でしょう? 効果は保証しますわ」
「で、でも…… わたくしはディオール様のように特別な手入れもして来ませんでしたので……」
「香油による手入れはしていたのでしょう? 肌はやはり中位のそれとは違いましたから、分かりますよ」
「月に一度程度です」
「あら、甲斐性のない男ね。妻を磨かないで何を磨いていたのかしら」
「……金貨ですね」
「アッハッハッ! ごもっとも。ま、そんな男なんてすぐに忘れさせてあげるわ。貴女はひと月後、これまで愛した夫よりも貴女自身のことを愛するようになる。このわたくしが磨き上げるのですもの、そこら辺の男になど負けやしませんよ」
「……ふふ」
「……?」
「いえ、やはり、おふたりは母娘なのですね。ふふ」
ディオールは今日初めてグッと口を閉じて不可解そうに目を丸めた。
『これまで愛した夫よりも自分のことを愛するようになる』
それはいまのグレースにとってこれ以上ない慰めであり、希望であった。
自分のことを愛せていれば、あれほど小さくなって過ごすことは無かっただろう。
自分に自信が持てたら…… 自分の足でしっかり立つことができたら、フェルミンを迎えに行こう。
イザベラもシェリエルも、借り受けた補佐官たちもフェルミンはガーランドに残した方が良いと言った。
しかし、グレースだけは諦めていなかった。
ガーランドの貴族は裕福だが、民は上限ギリギリの重い税に苦しんでいる。大領地を治めるなど突然言われて出来ることではないが、フェルミン以外ならば誰が継いでも同じだろう。
そういった領地のなかに残されたフェルミンが何を求められるかは目に見えている。
父と同じように民から搾り取れと突き上げに合うだろう。あの優しい子が城に一人残って心を擦り減らすなど耐えられるわけがない。
成人して、自分なりの思想を持ち、理想と折り合いを付けて迎合するならばまだ良いのだ。だが、早すぎる。こうなったのも自分のせいなのだから、せめて息子はあのギラついた貴族たちから救いたい。
それがグレースの望みだった。
決意を胸に息子に想いを馳せていると、またしてもディオールの辛辣な言葉が降ってきた。
「ま、油断しないことね。いま変わったように思うでしょうけれど、そんなもの気をつけていないと二日で元に戻りますからね。これから毎日こちらに通っていただきますから。ついでに二日に一回はヨーガを受けて行ってもらいます」
「……あ、ありがとうございます。わたくしなどに、そこまでしていただけるとは」
「うふふ。お気になさらず。貴重な検体だもの…… それに、美しいものが増えるって素敵だわ……」
ディオールはもうグレースを見ていなかった。恍惚とした表情で、一月、一年後のグレースを見て愉悦に浸っている。
美の象徴、ベリアルドの悪魔は自身の欲のためならばどんな労力も厭わない。
それをまざまざ感じる瞬間であった。





