9.神官の穢れ
「遅かったね、シェリエル。折角僕が帰ってきたのにお爺様とばかり遊んで」
神官さんの部屋から自室へ戻ると、既にディディエがお茶を飲んでいた。
「神官さんの事で気になる事があって。それで少しお爺様とお話を聞きに」
「ああ、あの貧弱な。あいつかなりキてるよね。相当溜め込んでるはずなのに何で堕ちないんだろう?」
堕ちるとは…… 確かに壮絶な環境だとは思って聞いていたけれど、ディディエがそこまで言うとは驚いた。
というか、ディディエはやはり気付いていたのか。流石、人の気持ちには敏感なだけある。分かっても、寄り添えはしないのだけど。
「どうして分かったのですか」
「そんなの誰が見ても分かるだろ? 自分の存在を隠すように背を丸め、腕と脚の軽い引き攣り、大きな音、笑い声に過剰反応、逆に無音になった時の震え、瞳孔の開き、発汗、飢えたような食事への反応、とか色々ね。お爺様は多分、いつからとか、何をされたか、まで分かってると思うよ」
なにそれコワイ。わたし、話をしに行った意味あったのかな?
「そ、そうですか。わたしはメアリに教えて貰って初めて気付きました。それで、神官さんが神殿に戻らなくて良いようにするには、どうすれば良いと思いますか」
「なに? シェリエル、あの神官を助けるつもり? 昨日たまたま派遣されて来ただけの他人だろ?」
そんなに驚く事だろうか。ヘルメスはきっと、助けるつもりで動いてくれていたので、当然その流れになると思っていたのだけど。
神官の身の上をディディエに話してみるが、ディディエの反応はあまり良くない。
「知ってしまったのですから、何とかしてあげたいじゃないですか。人心でもそうすべきだと習いましたよ?」
「シェリエルはお利口さんだね。でも総合的に判断すると僕らにその義務はない。お前は大事な洗礼にガラクタを押し付けられた被害者で、あいつの庇護者でも上司でもないんだから。そのへんの人間だって同情はしても、実際に何かをするやつ一握りだ。何かをしたってそれが本当に相手にとって良いことかも分からない。マァ単純にそうしたいって言うなら止めないけどね」
そう言うわれると、確かにそうかもしれない。これは善意だろうか、同情だろうか、それとも人心の学習で得た人としての義務感だろうか。
自己満足かな? このまま帰すのは後味が悪すぎるもの。
「善行が足りないと、来世でわたしのように、とんでもない髪色になるかもしれませんよ」
「なんだい、それ」
「善い事をして徳を積むと、来世で良い人生が送れる、みたいな話です。神話経典みたいなものですかね」
まあ、詳しくは知らないのだけど。
「じゃあシェリエルは前世で相当徳ってやつを積んだんじゃない? 結局、祝福された訳だし僕みたいな兄が居て幸せだろ?」
「ふふ、そうかもしれませんね。徳は積んだ記憶が無いので、前借りなのかもしれませんけど」
すっかり神官の話から逸れ、しょうもない話をしながら二人でクスクス笑っていると、ヘルメスがわざわざわたしの自室まで来てくれた。少し診断が残っていると言っていたが、案外すぐに終わったようだ。
「お爺様、いかがでしたか」
「うむ、大方予想通りではあったな。このまま神殿に返せばあと一月、ここへ来なかったとしてもあと半年で壊れていただろう」
そんなに酷い状態だったのか。ここへ来なければずっとあの酷い生活をしていたと思うと胸のあたりがモヤモヤする。壊れる、というのは狂ってそのまま魔物に堕ちるということだろうか。
「穢れが溜まっていたという事ですか? それは何とか出来るのですよね?」
「いや、それが、何故か穢れがそれほど溜まっていなかったんだ。それに彼の話からすると、とうの昔に堕ちているはずなんだが」
「あの神官、ベリアルドの呪い並に耐性があるということですか? 僕たちは人として欠けているから穢れを溜めないのですよね?」
「我々も絶対に溜めないという訳ではないが、大抵身内絡みだ。彼はどういう訳か、普通の人の心を持ちながら、穢れを溜めずに狂って行っている。私の研究のためにもこのまま神殿に返すのは惜しいな」
「なるほど、それは確かに」
おや? お爺様はもしかして、症例としてあの神官さんが欲しかっただけということ?
唯一良心のある身内だと思っていたヘルメスが、ちゃんとベリアルドだったんだなと今更思い知った。
「お爺様は何を研究しているのですか?」
「ベリアルドの呪いだよ。これほど面白い家系に生まれ、ただ先人の調べを鵜呑みにするなど出来る訳がないだろう。まだまだ分かっていない事の方が多いしな」
「そ、そうですか。たしかに気になります、わたしも」
わたしが気になるのは自分の呪いの有無なのだけど、ベリアルド取扱説明書は詳しければ詳しいほど良い気もする。
後世の為に、ヘルメスの研究は応援しなければ。
「狡いよねぇ、シェリエルとお爺様ばかり楽しい事しちゃってさ。やっぱ学院やめようかな」
「ダメですよ、お兄様。きちんとお友達も作らないと。神官さんの事はお爺様に任せましょう」
神官さんを研究対象として差し出した気がしないでもないが、ヘルメスなら大丈夫だろう。神殿より悪い事にはならないはずだ。
「シェリエルは本当にお爺ちゃん子だね」
「そうですよ?」
今日少しだけ認識を改める事はあったけれど、ヘルメスへの尊敬や憧れは変わらない。とてもかっこいいお爺ちゃんだもの。
「ディディエ、その、お爺ちゃん子とはどういう意味だ?」
「学院の者が言っていたんですよ。お父さん子とか、お兄ちゃん子とか。家族の中でも特別懐いているという意味らしいです」
「なんと!素晴らしい言葉だな。書に残し屋敷に飾るか。ディディエ、その言葉を学んだだけでも学院に通う意味がある、きちんと通いなさい」
「はぁ…… 妹君はお兄ちゃん子なんですね、なんて社交辞令に少しでも気を良くした自分がバカみたいだ」
ディディエは意外にも学院では上手くやっているらしい。そんな他愛ない会話をする相手がいることに驚いた。
「わたしはお兄ちゃん子でもあると思いますよ? 意地悪な時もありますけど、お兄様がいると安心できます」
「お爺様、書の手配をしましょうか。上質の紙と額を用意しなければ」
「うむ……」
二人の冗談を聞き流し、わたしは神官の今後について改めて相談する。
「それで、神官さんは帰るところが無いのですよね? 我が家で引き取る事は出来ませんか」
「うむ、そうだな。しばらくは近くで様子を診たい。シェリエルの診断にも役に立つだろう」
わたし? 診断というのは呪いのことだと思うけど、まさか、神官さんを虐待しろとか言わないですよね…… そんなの無理ですよ、お爺様?
「ただ少しだけ一緒に居てやればいい。それより、神殿をどうするかだな」
「あの神殿が簡単に神官を手放すとは思えませんが。それに、どうせアレを使って自分たちの穢れを誤魔化していたのでしょう?」
どういう事だろう。またわたしだけ話に付いていけない。オロオロと二人を見つめると、ヘルメスが心を読んだかのように説明してくれる。
「神殿というのはある意味閉じた組織だ。本来大した地位に就けなかった者が、神殿内の常識だけで生活し優劣を付ける。あらゆる集団に言えることだが、自分より下の存在を虐げ、自意識を保つのは良くある事なんだよ」
「まぁ、それで、帰るとこも無い、親が罪人の孤児が居て、いくら突いても堕ちないんだろ? そんな貴重な玩具、金を積まれても手放さないだろうね」
神殿という場所のイメージがどんどん陰湿なものになって行くけれど、本当にそんな人たちばかりなのだろうか。
事業で得たお金で何とかならないかと思っていたわたしは、自分がベリアルドに染まってしまったような、目論見が外れて残念なような、とにかく少し落ち込んだ。
「ではどうすれば良いのでしょう。お金で解決出来るかと思っていました」
「あんなのを送ってきた事を抗議する? たしか神官になれるのは十五からだったはずだから、儀式の失敗の責任を取らせる事はできるよ?」
そうなのか。神官も初めての御勤めだと言っていたし、かなり悪質な嫌がらせだったんだろう。
「いや、それは向こうも承知の上だろうな。代わりの神官を寄こし、人手不足だ何だと言ってディディエが神殿に入らなかった事を非難するつもりだろう」
「そんな…… いくらなんでも幼稚過ぎませんか?」
「そういうところなんだ、仕方あるまい」
仮にも王国を支える三大組織の一つが、そんな悪質クレーマーのような手段を取るとは考えたくない。けれど、代わりの人を寄越されては何も言えないし、そもそも儀式は終わっているので来られても困る。
「殺しますか、あの神官」
「いやいや……! お兄様⁉︎ 突然、どうしたんです? 面倒臭くなっちゃいました?」
「それも手だな。儀式の失敗を苦に穢れに堕ちたから処分した、という事にしよう」
「え、お爺様まで? 冗談ですよね?」
あれ? わたしがおかしいのだろうか? 物凄く現実的な案を話し合っているという空気に、わたしの頭が追い付かない。
「本当に殺す訳では無い。死んだという事にするだけだ、安心しなさい」
「そ、それは合法なのです? 戸籍…… は無いのか、えっと、この先神官さんの身分とかはどうするのですか!」
「ん? どこかで拾ってきた事にして新しく身分を与えればいい。爵位無しの貴族のようなものだ」
そんな、犬や猫じゃあるまいし…… だが、わたしも結局同じように出自を偽っているわけだから、同じようなものか。
これからきちんと生活できるように整えられれば良いのだけど。
「明日、神官さんに話してみます。死んだ事にされるなんて、本人がどう思うか聞いてみなければ分かりませんから」
「シェリエル、その時は僕も誘ってよ?」
ああ、この目のなんと懐かしい事か…… 自分がここに来たばかりの頃を思い出して、全力で神官さんを守らなければと思った。