密命
中央大神殿壱式大祓いの儀は静かに始まった。
神衣を纏った大祭司は細かい鎖の簾を額から垂らし、普段は横でゆるく編んでいる髪をゆったりとおろしていた。
いくつもの鈴が付いた杖を神官たちがシャンシャンと鳴らす。
大祭司が大神殿の中央に立てば、外を何重にも神官たちが取り囲んだ。
「我、命の加護賜いし命の御子——」
神官だけで行う儀式には鈴の音と祝詞だけ。
大祭司の祝詞に合わせて中央からじわりと魔法陣が浮かび上がった。
「キャァ! すごい……! 先生! 見てください!」
「見ているよ」
「あああ、すごいです、あんなに細かい魔法陣…… 陣を満たすだけでも相当な魔力を使うのでは?」
「そうだね」
「あれ、先生、どうして大祭司様は名乗りが必要ないのですか?」
「ああ、あれはね、大祭司として世界に認識されているからだよ」
「認識?」
祝詞の一節が終わると同時にすべての陣が薄い桃色の光を発した。
それと同時に周囲の神官たちが祝詞の続きに声を合わせはじめる。
「洗礼の儀や婚姻の儀がなぜあると思う?」
「ええと、神々への祈願? 報告……、ですか?」
「報告、が近いかな。転移や結界の魔術では自分の印を使うよね。洗礼ではまずその印を生成する」
「発行手続きみたいなものですか」
「その時点でこの世界と個人が繋がれる。だから婚姻の時にはその印を上書きしなくてはいけない」
「それで洗礼で名前の上書きが…… あれは印自体を再発行しているんですね」
「そう。世界に個人を認識させ、上書きする。大祭司が個人の名を捨てるのは、継承の儀で“大祭司”という存在になるからだ」
「では、ゲルルトも継承の儀を行えば大祭司になれたのですね」
「ああ、儀式が成功するかは分からないけどね」
シェリエルはこの世界はなんだか役所みたいな事するな、と思いながらしっかりと祝詞を追い、その精巧な魔法陣を端から端まで瞬きも忘れて読み込んでいた。
「婚約の儀はどうなるのです?」
「あれは仮の契約だね。婚姻の儀までに勝手に他と契約しないようにするためじゃないかな。生家と婚家、両方に繋がりが出来た状態だ」
「ん、もしかして婚姻すると生家との繋がりは切れるのですか?」
「切れる。だから家門の印を使った魔法を組むときは気を付けなさい」
「はい! でも良くそんな事調べましたね」
「まあね」
ユリウスも視線は魔法陣に縫い止められていた。
二人は雑談しながらも長い長い祝詞を一語も漏らさず頭に入れていく。
大神殿の祭壇が魔力で満たされた時、シャン、シャン、とまた鈴が鳴った。
シェリエルは肌に濃い蜜が纏わりつくような感覚を覚えてぞわりと身震いする。
「始まるよ」
「え、もう始まってるじゃ……」
すると、大神殿は建物全体が光を帯び、ゾゾゾとその光を伸ばしていく。
よく見ると神殿全体ではなく、塔や官舎を除いた神殿の本体だけ。そして各小神殿に囲まれた外壁、中央から伸びた参道、側壁、周囲の各小神殿が淡く光を帯びる。
地面から伝わる光が壁を発光させていた。
「わぁ! これ! こうやって、繋ぐ…… え、嘘! 見れません! 全体を見ることができません! どうしてくれるんですか!」
「え、当たり前だろう?」
シェリエルはなんかブワッといい感じに魔法陣が空に浮かび上がり、小神殿まで使った大規模魔法陣を見れると思っていたのだ。
「そんなぁ〜! こんなの! どうするんです! 先生、小神殿行ってきてください! 陣を写して……」
「君が行けばいい」
「まだ大神殿の陣を写し切れてません」
「アハハ、そうだろうね。それに小神殿の陣を写しても無駄だよ」
「え……?」
その頃、今はマティアの小神殿となった一角では。
「おい、アレ……」
「マティア様じゃない…… よな?」
神衣を纏ったディディエが儀式をしていた。
シャラシャラと顔の前で細い鎖の覆いを揺らし、神殿の中央に手を付いて俯いている。
とろみのあるゆったりとした神衣は凝った装飾などはないが、ゴールドで薄っすら目隠しされ、額に白い模様を書かれたディディエは絹に包まれた人でないもの——なにか特別なモノとしてそこに在った。
中央神殿から魔力を帯びた光が到達すると同時に、神官が鈴を鳴らす。
「我、命の加護賜いしディディエ・ベリアルド、天元に留まる神々に奏上す、ここオラステリアの地にて神々の恩寵賜る式を織らん、六神降し依さし奉られよ種種の罪事天つ罪國つ罪、在る処無き処深々祈り奏上す子我その誓い違わんと——」
ディディエは祓いの儀よりも長い祝詞をつらつらと詰まることなく歌うように詠みあげる。
神に縋るような熱心さもなく、それがかえって人にはない神聖を滲ませ、神官たちは戸惑うことも忘れて聴き入っていた。
ディディエが牢にいるとき、シェリエルに渡されたのはこの祝詞の全文だった。それを見たとき、ディディエは「ゲルルトはもう退場か」と理解した。
その代役を務めるのが自分であることも。
祭司の引き継ぎに時間がかかるのは、この長い祝詞を覚え、大規模な魔法陣を精神力で維持し、各小神殿と大神殿を繋ぐために魔力をコントロールしなくてはいけないからだ。
それを祭司は“祈り”の力で実現する。
けれど、シェリエルは神々に祈らない。
魔術は——儀式は魔法陣の完成度でその効力が決まると知っているので。
内在世界を持つディディエも一度陣を展開してしまえば、ちょっとやそっとで揺らぐことはなかった。
祝詞を詠み終えたあとの魔法陣はディディエの内に保存されてピタリと固定される。
あとは方々からやってくる魔力と、ここにいる神官たちの魔力が飽和するように自分の魔力を流すのみ。
とは言っても並の精神力でできるものではない。
他人の感情、魔力、プレッシャー、緊張…… それらに自身の魔力を揺らさず儀式を最後まで維持するには、本来なら長い訓練が必要になる。
そして、シェリエルやユリウスは全の加護を持つが、それは命の加護とは違うし、リヒトでは魔力と記憶力が足りない。
これは命の加護を持ち、他の祝詞と似通った部分も多い複雑な祝詞を一晩で覚えられる、ディディエだから出来たことだった。
ゲルルトは最も忌み嫌うベリアルドに自分の役割を取って代わられたのである。
意外にも神官や本物の祭司であるマティアはこれをすんなり受け入れた。
ゲルルトに傾倒していた神官がすべて排され、これまでビクビクと怯えていた者たちにとってはベリアルドがそれほど悪い者ではなくなっていたからだろう。
事前に聞いていれば「祭司でもないのに儀式するのか?」とか「マティア様に失礼だ」とか思ったかもしれないが、入場と同時に始まったのでそんなことを考える暇も無かったのだ。
いまは鈴の音と呼吸を合わせて祝詞を唱えることに集中している。
各小神殿の魔法陣が完成すると、参道や側壁の他に、中庭にもじわり、じわり、と細かな紋様が浮かび上がる。
これをシェリエルはキャアキャア言いながら追いかけた。
「見てください! あちらの庭とこちらの庭、陣が違いますよ! どうするんですか!」
「どうするって」
「繋ぐって…… そういう? この中央神殿全体が魔法陣になっているってことですか!」
「そういうことだ」
「あー、こんなことならグリちゃんに乗せてもらうんでした」
「君、たぶんあのグリフォンも今は乗せてもらえないんじゃないかな」
「なんッ…… え、わ! なんてこと! 外壁も陣になっているんですか? どうすれば」
「ちなみに、側壁の下にも陣が埋め込まれているらしいから、上空からもすべては見られないよ」
「なんでッ!」
「いや、それは神殿を建てた者に言いなさい」
シェリエルはそれでもあっちへ走り、こっちへ走り、「あ、わたしこの為に騎士の訓練してたのかも」と、物凄い速度で大神殿の庭を外周した。
一周回って来た頃にはさすがに息が切れていたが、ハアハアと息を荒くしながらガラス窓にへばり付く。
まだ途中だった大神殿の陣を読み込み始めたのだ。
「これ、いつまで」
「あと少し」
「先生! ボーッとしてないで! 手伝ってください」
「どうせ読み切れないのに」
ユリウスはこのところ魔法陣にはそれほど興味を示さなくなった。あれほど熱心に集めていたのに、シェリエルがお願いすれば一応手伝ってくれるというくらい。
いまも渋々という感じでシェリエルに「あの空の印あたりを」と言われればそこら辺を見て覚えるだけだった。
「こんなに大きな魔法陣が存在するんですね」
「儀式としてはこれが国内最大の陣になるんじゃないかな」
「じゃあ他にも?」
「あるよ」
「先生ッ!」
「ダメだ」
「なんで!」
「国家機密」
「結婚してください!」
「あ?」
「王族になれば…… 国家機密も……」
「邪すぎてまったく唆られない」
興奮しすぎて情緒もロマンも何もかも失ったシェリエルは「絶対に先生と結婚しよう」と思った。
廃嫡されたままなら王族の義務とか無いだろうし、とか更に邪なことを考えながら。
対するユリウスは「絶対にこの子と結婚してはいけないな」と思った。
こういう不純な動機で王宮に入る人間がいるからまともな王族が居ないんだ、と至極真っ当なことを考えながら。
二人が幼稚な攻防戦を繰り広げながら陣を読んでいる間にも、清く澄んだ魔力は王都へと広がっていく。
強烈な何かがあるわけではない。
魔力のない平民にとっては心地よい風が吹いたくらいの清々しさ。
広場に集まっていた民衆も、スッと心に溜まった黒い感情や不安、罪悪感が清め祓われていく心地で自然と目を閉じていた。
貴族たちはそれよりも少しだけ敏感にその魔力を感知する。
荒ぶった感情が凪いで行き、背筋がスッと伸びる。呼吸がし易くなって、気付かないうちにずいぶんと穢れていたのだな、と思い切り空気を吸い込んだ。
常に魔力を有する貴族たちは平民よりも穢れの影響を受けやすい。こうして祓いを終えた時にこそ、最厄期の穢れを実感することになる。
澱みのない神殿の魔力は王都からさらにその範囲を広げ、ゆっくり国を清めていった。
均等に、薄まることなく、膜を張るように国土を祓い清める。
「お爺様、大丈夫でしょうか」
「ヘルメスはまだ魔力も充分あるから、適当にやっているよ」
領主たちが王宮に集まっているこの時、各領地ではそれぞれの領主城で大祓いが行われている。
分家だったり、先代だったり、誰が儀式をするかは領地によるが、一人で行うのはベリアルドくらいだろう。
そんなことを話していれば、シャラララララと鈴が大きく鳴り、ブン、と魔法陣が消えた。
儀式が終わったのだ。
「わ、終わっちゃった…… まだ全部読めてないのに……」
シェリエルがパッと一目で見て覚えるには限りがある。それは大きさというより、情報量に左右された。
あまりに細かい模様だったりは詳細がボヤけてしまうので、ひとつひとつ拡大して模写するように写しとる必要がある。
「どれくらい写せた?」
「三割くらいです」
「ほう、すごいね」
全体の陣を思い浮かべてみると、解像度が低い画像みたいになってシェリエルはシュンと肩を落とした。
倍率を上げるとところどころ記号が読み取れるが、あとはモザイクみたいになっている。
「あと三回くらい見学したいです」
「自分で儀式でもするつもりかい?」
「いえ! 王国全土を祓う儀式ということは、この王国のすべての座標やどこまでを範囲にするか、その経路なんかも含まれているはずです。ここまで精巧な陣なので祝詞との組み合わせてそれぞれ効果を変えるという処理も入っているんでしょう。それが解析できればあの通信機構もさらに改善できますし、最終的には演劇の国内同時配信…… ああ、もしかしたら保存の処理も含まれているのかも! だって、祝詞で生成するのとは別の陣が埋め込まれているのに改変可能だなんて、何通りかの陣を保存しているってことではありませんか! きっとそうです、早く帰って調べてみましょう」
「あー…… そう」
「あれ、興味ありませんか?」
「ない」
「えーーー!!!」
シェリエルは今日一番の大声を出してひっくり返るところだった。





