女子の不安と男子の期待
二年次が多く集まるⅡ級の教室では、シェリエルに集まる視線はこれまで以上になっていた。
しかし、他とは少し毛色が違う。
「あの落第生たち、やはりお休みだったわね」
「ふん、当たり前よ。正直スッとしたわ、わたし乱暴な殿方って大嫌い」
「シェリエル様も女性にはお優しいから、皆んな忘れているみたいだけど…… 良くあんな事言えたわよね。ホラ、あそこ……」
彼女たちの視線の先では顔色の悪い集団がチラチラとシェリエルを見ていた。
「わたくしたち、大した怒りは買っていませんよね? 例の四年生、神殿でも二週はかかるらしいです」
「え、そんなに……?」
「いま騎士様がお忙しいじゃないですか…… 通いで三日に一度しか治癒を受けられないらしいです」
「……大丈夫よ。わたくしたちは少し小耳に挟んだことを確認していただけだもの。ね、そうよね?」
「はい…… でもあの方も耳が良いですから……」
たしかに二年次の少女たちはその程度のヒソヒソ話だった。あのシェリエル様が? という驚きである。
去年全員が魔力暴発により卒倒させられ、お茶会や菓子の噂を良く耳にしていた少女たちに、シェリエルを害する勇気は微塵もない。
そして、ついアリシアには嫉妬心が芽生えてしまっただけだった。それもほんの少しの油断。
アリシアの陰りを察知して、ついでに直前にディディエに魅せられ、感情がポロリと溢れてしまった。
なんて軽率だったんだろう、あの二人に限ってこのまま黙って見ているはずがない、と背筋を冷やすばかりだった。
◆
夕刻の騎士学科の授業では。
「フィデル教官! 納得出来ません!」
「あー、ええーと、シェリエル嬢…… まあ、そう言わずに……」
「どうしてユリウス様がこの級を受けられるんですか!」
Ⅳ級の訓練場はグッと人数が減り本格的に騎士の訓練を始める者たちしか居ない。
皆、それぞれ軽く打ち合いながら怒れるシェリエルに「お前もだよ」と思っていた。
「ユリウス様がそう望まれたので……」
「権力に屈するのですか!」
「相手にできる者が居なかったようなんです。シェリエル嬢ならお相手できるのでは? ね?」
フィデルというおよそ騎士には見えない優男はアセアセとシェリエルを宥め、この厄介な飛び級組を組ませる。
「ふふ、そういう事だ」とユリウスはシェリエルのローブを掴んでズルズル端の方へと引き摺り、彼女は「ならせめて昨日教えてくれても良かったでしょう!」とムッとしながら手持ちの剣で一番上等の一本を取り出した。
「おや、やる気だね」
「人生の厳しさってものを教えてやりますよ……」
シェリエルは去年アイザックにきちんと実力相当の授業を受けるように言われ、Ⅱ級で教官をボコボコにしてⅢ級に上がった。
必修は飛ばせないと言われたのでそういうものかと思って、大人しくⅢ級を履修して晴れてⅣ級に上がってきたのだ。
よって必修を丸っと飛ばして来たユリウスが憎くて仕方ない。
シェリエルは引っ張られたローブを巻き取るようにグルンと身体を横に回転させて……
ついでに横一閃、ユリウスの首元に剣を振る。
真っ黒な剣がそれを止め、同時にガクと膝裏を蹴り落とされた。重心が前に振られてシェリエルはそれを堪えるでもなく片手で地面を弾くとその勢いのまま身体を捻ってユリウスと対峙する。
しっかり剣は握り、筋肉は楽にさせる。
リズムは取らない、動きを読まれるから。
キンッ……と金属の鳴る音が響くと、そこからはもう考える暇などなかった。
どちらも致命傷を負わせるつもりで人体の急所を狙いあう。たまにピッとユリウスの頬が切れたり、シェリエルのズボンがパックリ口を開いたり、お互い剣の切れ味を確かめながらどんどん速度を増していった。
「……おい、俺たちこれからアレと訓練するのか?」
「何をしているのかさっぱりだ」
「教官、あのお二人にはⅤ級に行っていただくのが良いのでは……」
「そうなんですよね…… そもそもなんで授業を受けているんでしょうか…… 彼ら私より強いですよ。あ、私は戦術担当なので授業の方はご心配なく」
そのなかで一人気配を消していたのはロランス領次期当主、六年のルイスである。
統治の授業と時間を反対にすれば良かったと心から思った。
昨年の遊撃戦で山登りをしたライアン、クレマン、ジュールのベリアルド六年生組は仲良くひとつの塊になって呑気に観戦していた。
「わ、シェリエル様さすがだな! 体格差もあるのに全然負けてない!」
「ユリウス様…… 一体何者なんだ……」
「第一王子殿下だってば。そういえばジュールはお会いしたことあったんだろ? どんな方だ?」
「んー、とてもお優しい方だよ。モーゼスも懐いているし、クレイラの町も実際に歩いて視察されたらしい」
「ほぇ〜、意外」
ジュールはヴァルプルギスのあとにユリウスの正体を聞いて気を失うほど驚いたが、最初から「なにかとんでもなくすごい人」という印象だったので「王族か〜」と納得してそれ以上なにかを思うことは無かった。
「うっわ、今の危なかったな、首の皮スレスレだったぞ!」
「え、どっち? ライアン見えるのか?」
「視力を強化するとき、こう……、焦点を合わせないと言うか、追うんじゃなくて全体を見るように強化してみろ、何となく見える。ちなみにさっき首が飛びそうだったのはシェリエル様」
「……うーん、頭痛くなる。今どちらが優勢?」
「そこまでは分からん。ユリウス様も腕と…… あ、胸元も裂けてるな」
「授業ってこんな感じだったっけ?」
「最上級はこんな感じかもな。リヒト様いつもボロボロだったし」
「あ、終わったらしい」
それまで息も乱さず、というより速すぎてほとんど何をしているか見えなかった二人がギリギリ剣が届かない距離で向かい合い、ゼェゼェと肩を上下させていた。
「……これが人生の厳しさかい?」
「……クッ…… いつの間にこんな……」
「……セルジオとの、訓練は続けているからね。でもまあ驚いた…… ハァ、これ毎日やるのか。明日は筋肉痛になりそうだな」
シェリエルは逆に人生の厳しさを教えられ、クゥと下唇を噛む。さすがにユリウスには敵わなかった。
どちらが深傷を負ったとかでは無いが、それでも剣を交えれば力の差は分かる。
薄皮一枚切れた皮膚は治癒をせずとも既に塞がり、赤い線を残すだけ。
それを眺める四年から六年の生徒たちのなかには、シェリエルに関する噂を知る者だっていた。
「やはりシェリエル嬢は剣術の才をお持ちのようだな。バカな噂で盛り上がっている奴らは何を考えているのやら」
「ああ、いつ斬られてもおかしくないというのに。それに、あれはどう見てもユリウス殿下の方が付き纏っているだろう! 王族だからと我らのシェリエル様に……」
「いやお前ダイデン出身だろうが」
「転領したい……」
「やめておけ、三日で死ぬぞ」
「はぁ…… シェリエル様がお心を痛めて無ければ良いが…… 本当に女はどうしてああなんだろうな」
「暇なんだろう」
「違いない」
上位の上級生が多いこの授業ではほとんどが女子生徒の噂話を「女の暇潰し」とバカにしていた。
男は実力がすべてだ。
中位であってもアロンのように座学が飛び抜けていれば上位からも一目置かれ、下位であっても剣術で実力を示せば可愛がられる。
何の能力も無しにただ陰口だけでのし上がろうとする女の社交はいつだってくだらなくて、そして恐ろしい。
たまに浮気がバレた男があの手の集団からゾッとする視線を浴びているのを知っているので。
「シェリエル様はどうするつもりだろうな」
「教室でご乱心になんて事になったら…… 俺は授業を抜けてでも見に行く」
「俺も! さすがに剣は抜かないだろうし、素手か。滾るぜ……」
女子のキャットファイトも乱闘騒ぎになればさすがに面白い。その時はぜひ見学に行こうと期待して、これから半年自分たちがあの二人と訓練することを思い出してどんよりした。
「なぁ、学科の授業で死人が出ることってあったっけ?」
「そう言えば先週、魔術で神殿送りになった奴が居たそうだ」
「え、まだ本授業前だろ? Ⅵ級? 事故?」
「Ⅱ級がマグダカブラやったらしい」
「うわー! いいなー! て、それ絶対シェリエル様だろ! なるほどこれはご乱心、有るぞ……」
「有るか、馬鹿! でも期待はする」
ワハハと笑う四人にユリウスがピタリと視線を止めた。
「君たち元気が良いね、次、手合わせどうかな」
「ヒッ……」
「め、滅相もありません! 私は持病の腹痛が……」
「私も剣を持つと蕁麻疹が出るので……」
「私は…… ええと、生まれてこの方ずっと頭の調子が悪くて……」
そこに天の助け、もといベリアルドの脳天気三人組がやってくる。
「ユリウス様! よろしければぜひ私と!」
「おやジュール、久しいね」
「はい! 出来ればその美しく物騒な剣ではなくこちらの模造刀を使っていただけますと明日も授業が受けられそうです!」
「いいよ、やろうか」
ジュールの小柄な背中に隠れていた二人は「わ、本当だお優しい……」「次は俺も」と顔を出していた。
◆
その翌日、二限の空き時間のこと。
アリシアはシェリエルの部屋で目をパチパチさせて長椅子で対面するディディエとシェリエルを交互に見ていた。
「……ここまでいい?」
「はい。あ、アリシア…… もう少し待っていてもらえますか、すぐ終わるので」
「ええ……」
「ではお兄様、続きお願いします」
「二年火の下の下癖っ毛のソバカス、アニカ・バイデン、キースリング。二年土の下の下直毛垂れ目、エラ・ワトソン、キースリング。二年風の下の下……」
通された時にはすでに始まっていた。
ディディエは何を見るでもなくたまに紅茶で喉を潤しながらもの凄い速度で生徒の大まかな情報を誦じている。
対するシェリエルも何に書き留めるでもなくそれをジッと聞いていた。
それだけですべてを覚えているらしい。
たしかに父も補佐官から口頭でつらつらと報告を受けていたりするが、それでもこんな滅茶苦茶な速度と情報量を頭に入れるなんてあり得ない。
するとジゼルが気を遣ってヒソりと「良ければあちらで……」とダイニングへ案内してくれた。
「あれはいつから?」
「昨夜はわたくしたちも報告があったので、朝食の時間にディディエ様がいらっしゃったと聞いています」
「……ディディエ様も良くこんな短期間でお調べになったわね」
「ユリウス様やアロン、ジェフリー先生にもご協力いただいたようですよ」
「それにしても……」
ジゼルはおっとり笑いながら紅茶を用意してくれた。
調べると言い出したのは三日前だが、ディディエに頼んでまだ二日目の昼だった。
ベリアルドは特に社交には力を入れていない領地だと思っていたけれど、やることが決まればその仕事は早い。
このジゼルとシャマルもシェリエルから課題を出され、噂についてはほとんど頭に入れているという。
「初めから貴女たちのことを頼ればもう少し上手く立ち回れたかしら……」
「アリシア様にそう言っていただけると光栄です」
「シャマル様はいまどちらに? 招待状に使うカードのお礼を言いたいのだけど」
「あ、はい。シャマルは新入生から報告を受けていまして。そろそろ来るころだと思うのですが……」
新入生まで使っているのね、とまた目を丸くしてから、綺麗な絵皿に並べられたお茶菓子を摘んだ。
この甘い菓子たちはもう生活になくてはならないものになってしまっている。
「まぁ! このクッキー、チョコレートが挟んであるのね! クッキーも軽くて……」
「はい、チョコラングドシャというものです。この半年で菓子も少し種類が増えました」
そんな時間がどこにあったのかしら…… シェリエルは領地でも事業で忙しいと言っていたのに。
と、自身とまったく時間の使い方が違うらしいシェリエルにまた目を丸める。もう驚くことにも慣れてしまったけれど。
それから少しジゼルと話していると、彼女はチラと文通の魔導具を確認して「終わったようです」とリビングの長椅子へと案内してくれた。
「お待たせしました、アリシア」
「もう終わったの?」
「はい、あと少し残っているみたいですがだいたいは」
「そ、そうなのね……」
ディディエはグッと絡めた両手を上に伸ばして「あー、疲れた」とコキコキ首を鳴らしている。
「どう? 僕が学院にいて良かったでしょ?」
「お兄様がいなければここまで噂は広がってなかったと思います」
「たしかに……」
「自覚があるならどうして対処しなかったのですか!」
「あー、悪かったよ、もう分かったから勘弁して」
「まったく!」
ディディエは少し眉を下げて「ごめんね、アリシア。僕の魅力が迷惑かけて」と仕方のないことだったみたいな言い方をする。
そしてアリシアは悪気はなかったのよね、魅力的なのは本人にはどうしようもないもの…… と、簡単に納得してしまった。
「アリシア、イザベラ様のご様子はどうですか?」
「沈黙ね。我関せず、と言ったところだけれど…… もし意図して噂を流したとしても“周りが勝手に言っているだけ”と振る舞うのは当然よ。けれど本当に関係がないとも考えられるわ」
「さすがにイザベラ様の意図はそう簡単に探れませんね」
「イザベラ様にとってもあまり良い流れではない気がするのだけど……」
「……?」
「彼女、べつにわたしたちを蹴落とす必要なんてないでしょう? 個人的に恨みを買っているようには思えないし」
「まあ、お兄様やユリウス先生に懸想するようなこともないでしょうしね」
「そうなのよ。ヴァルプルギスの夜にも出席していて、学院でも接点がないわ」
チラとディディエを見ると「うん、話したこともないよ。これは本当に! 僕は何もしてないから!」と冤罪を訴える。
アリシアは少しホッとして話題を変える。
「そういえばここに来る前マリアを見たわ。一人で深刻そうな顔をして歩いていたけれど……」
「誰かに叱られたんでしょうか」
「叱られたか…… 何か考え込んでいる様子だったわね」
いつも誰かとほわほわと笑っているマリアが今日は一人で爪を噛みながら眉を寄せて歩いていた。
ヴァルプルギスから変化はあって当然だが、それにしても以前のマリアとは違っているようで少し不気味だ。
「穢れは大丈夫でしょうか、それらしい気配は今のところ無いようですけど」
「あ、シェリエルそれは心配無いよ。ああやって負の感情を誰かと共有して、楽しんでさえいるだろ? 娯楽みたいなものだから溜め込むことはない」
「なら良かったです」
「ふふ、しかも堕とすのだって簡単だ。少し罪悪感を煽れば後はあっという間だからね。僕はこの状況、悪いとは思わないな」
「お兄様まさか……」
「いや、本当に無いから! この件に関しては僕は何もしてない! 何もしてないからこうなってる!」
たしかにベリアルドにとっては都合の良い状況だろう。
悪様に言われるのも忌避されるのも慣れているようだし、人心操作に長けたディディエはいつでも気に入らない者を始末できる。
シクシク胸が心地悪くてもディディエはそれに共感はしてくれない。きっと、泣いたり塞ぎ込めば彼はこの状況に怒ってくれるのだろうけれど、そういうことはしたくなかった。
来年成人を迎えるまでに、彼に見合う力を付けなければ…… わたし、今まで思い上がっていたのね……
アリシアはこのなかで誰よりも理知的で常識的で良く出来た御令嬢だったが、異端に触れ過ぎて目標設定がおかしな事になりつつあった。