ヴァルプルギスの告白
「本当に誰もいませんね。こんなに綺麗なのにもったいない……」
「庭園は結界が張られてないから、今夜は特に出てくる奴なんて居ないんじゃないかな」
「ああ、それで……」
王妃の御殿、夜会の間に面した庭園。
ところどころ灯りの魔導具が置かれて、ぼんやりと下から花々を照らしている。
シェリエルとアリシアは特別細いヒールでもよろめく事なく、それぞれ今夜のパートナーに軽く手を添えるだけでコツコツ軽快に暗い小道を歩く。
「アリシア様は本当に良かったのですか? ……その、婚約を解消してしまって」
「ええ、あの状況でしたし、引き際が肝心ですから。ディディエ様が整えてくださったお陰で家門に泥を塗らずに済みました」
アリシアは一度立ち止まり、「ユリウス殿下、陛下の承諾書の件ありがとう存じます」と彼に向かって一礼した。
「殿下はやめて欲しい。ディディエの頼みを聞いただけだよ」
「そうさ、僕がどれほど手間をかけたか」
「ふふ、ディディエ様。心より感謝申し上げます」
ディディエはウンウンと頷いて「彼、もう少し突いても平気そうだよね」とユリウスに悪い笑みを向ける。
「お兄様も続きは今度にしてください。これ以上夜会を荒らしたら承知しませんよ」
「シェリエルはいつも自分だけは例外だと思ってるよね」
「わたしは悪気ありませんもの。巻き込まれただけです」
「僕もだけど?」
「私もだね」
アリシアはこれに「フフ、皆さん嘘ばっかり」と笑うくらいにはベリアルドに慣れて来ていた。これまでが酷過ぎて麻痺して来たとも言うが。
庭は足元の灯りだけで充分明るかった。今夜は特別大きな月が緑に輝き、雲は一筋もかからないと決まっている。
それは神々がそうしたのか、たまたまそうだったのかは分からない。とにかく、こういった祝祭の日に雨は降らないのである。
「では悪気のないユリウス様、どうやってこの王宮のどこかまで転移したのです? こちら、転移などを阻害する結界が張ってあるのでしょう?」
「おや、良く気づいたね」
すべての魔法発動を封じる結界は夜会の間にのみ張られている。この庭園には結界が無いというディディエの言葉からシェリエルは少し違和感を感じていた。
僅かに音を反響するだとか魔力が籠るだとかその程度のものだが、それは結界特有の不自由さだった。
であれば、なぜ馬車ごとここまで転移してこれたのか。
「結界、壊したのですね?」
「少しだけね。でも空の加護を持つ上位の者で事前にその場に転移すると決めていなければ使えないのだから、あってもなくても変わらないよ」
「……そういう問題ではないのです! もしそれで何かあったらどうするんです」
「君は本当に心配性だね……」
呑気なユリウスはやれやれと首を振り、ハッ、と瞼を上げて腑に落ちた。
これはお誘いだと。
普段子どもと少女と淑女を都合良く使い分けるシェリエルが、いじらしくも淑女の真似をしようとして子どもじみた小言でしか誘えなかったのか、という紳士の察しである。
ま、シェリエルはユリウスが今朝王の寝所に不法侵入したと聞き、あの祓いのときに自身が結界を壊させ直し忘れたせいだと気づいて、ただその類のことに敏感になっているだけなのだが。
ユリウスは仕方ないな、付き合ってやるかというように「分かったよ、この裏手だから直しに行こうか」と呟き、シェリエルは「わたしもですか?」と小首を傾げ、「ん?」「え?」と見つめ合う。
「お前たち、見ているこっちが恥ずかしいからやめてくれる?」
ディディエがぐるんと瞳を持ち上げ天を仰ぐと、二人は訳が分からないというように眉を寄せた。
「仕方ありませんね、もう早く直してしまいましょう。近いのですか?」
「ちょうど中の貴族たちが持ち直す程度の距離かな」
「では行ってきますのでお兄様、くれぐれも変なことしないように!」
「はいはい、お前たちもね」
二人はまた揃って首を横に傾けて、二人並んで夜の庭園へと消えていった。彼らは思春期のような顔をしていたくせに、後ろ姿だけは月に帰っていく妖精のように美しいものだった。
残されたディディエとアリシアはそれにフッと笑みを溢し、また庭園を歩き出す。
緑の月は妖しく二人を照らし。
「……ディディエ様、あの」
「うん」
「ヴァルプルギスの夜です。以前、お話しくださると約束、しました」
「そうだっけ? ……フフ、冗談だよ。そんなに怖い顔しないで」
ディディエはアリシアの手を解いて彼女の正面に立ち、大きな緑月を背にした。そうなればアリシアもやっとこの焦らされ掻き乱された日々に結論が出るのだと、肩に力が入る。
「前に言ったこと、覚えてる?」
「呪いをかけたのはディディエ様だと」
「それよりもっと前。アリシア嬢に初めて会った夜だね」
「……?」
「あの日、僕はアリシア嬢に呪いをかけた。まだ幼かった王妃を目指す女の子に、“君が王妃にならないと国が滅ぶ”ってね。ま、それは嘘だったんだけど」
国の王太子が夜会の席で王族席から降り、シェリエルに婚約の打診を断ったなと声を荒げ、不敬だ何だと騒ぎ立てたあの夜。
『彼が無能な王妃を娶れば、この国は終わりだよ』
アリシアはその言葉を思い出し、いつの間にか王妃を目指すことが自分の使命であり国の為になると信じていたことに気付く。
しかし、その傲慢な考えに身震いした時にもディディエのことは思い出さなかった。それほど自然で納得のできる言葉だったし、その前から王妃となる未来を夢見ていたから。
「わたくしは、ディディエ様のお言葉で王妃を目指したわけではありません」
そうは言ったものの、徐々に嫌な予感が這い上がってくる。
あの夜ほど王太子として危ういと思った日は無かったからだ。
アリシアはグッと拳を握り込む。
「でも縛ったのは僕だ。何度も引き際はあったよね。イザベラ嬢が候補に上がった時、殿下に罵声を浴びせられ紅茶を投げつけられた時、ライア様に嫌味を言われた時」
「何故そんなことまで……」
「僕がはじめた事だから、ちゃんと思い通りに事が運んでいるか確認くらいはするよ」
ディディエの表情は明るい月の影となって隠されている。
けれど声は穏やかで、彼に罪悪感、まして贖罪の意など微塵もないことだけは確かだった。
「殿下がこうなることは予測できていたんだ。あてがわれた婚約者を捨て、愛に走ることは。そのとき隣に誰が立つのか、僕はそれがシェリエルじゃなければ誰でもよかった。あまり外し過ぎると先を読み辛くなる。だからアリシア嬢が殿下の婚約者になれば良いと思って、少しだけ助言もした」
「だったら何故! 今更になって助けるような真似をしたのです!」
「シェリエルが君をただの顔見知りでなく、“大切な友人”にしたから」
「え……」
アリシアは何を言われているのか理解するのが遅れ、小さな声を小さく落とす。
「ベリアルドがなぜ家族に執着するか分かる? 僕たちはね、他人に共感出来ないから自分事でしか感情が揺れないんだ。君たちは他者の幸せや悲しみに寄り添い、一緒に喜び辛く思って心を揺らすだろう? でも僕たちにはそれが無い。だからすごく限定的で、とても心が渇く。それを満たしてくれるのは家族、恋人、身内と言えるくらいに愛せる友だけなんだ」
唐突にベリアルドの性分が語られ、アリシアはゴクリと喉を鳴らす。指先は冷え、これから何を言われるのかと心臓がドクドクと暴れまわっている。
「シェリエルはさ、本当は僕の妹じゃないんだ。血の繋がりはあるけどね。でもあの子は僕の渇きを初めて満たしてくれた。ボロボロの小さな身体で自らベリアルドの血筋だと証明して、自分を愛せって上から殴り付けるみたいにね。僕の知らない事、考え付かない事を次々並べて、思考はベリアルドなのにベリアルドじゃない。僕たちが持つ呪いをそのまま体現してる。理屈じゃないんだ、家族だから愛しい。僕たちはシェリエルを受け入れたんじゃない、認めさせられたんだ」
それは熱烈な愛の詩のように紡がれる。
「たぶん、僕はシェリエルを失えば狂ってしまう。だからシェリエルを守るためなら何でもする。シェリエルが君を身内と認めたなら、僕は君も守る」
「……それは、すべてシェリエル様の為だと」
「そうだよ。君を殿下に壊されるわけにはいかなかった。君が貴族たちに貶められる姿をシェリエルに見せるわけにはいかなかった。僕が嫌われてしまうからね。あの子、そういうことに煩いんだ」
アリシアは腑に落ちると同時にぽっかりと何かを失ったような心地で、見えもしないディディエの顔を見つめた。
ああ、自分はただの駒のひとつで最初から彼の感情など含まれていなかったのだ、と仄暗い理解が染み渡っていく。
そして胸から目の奥までシリシリ凍結して行くように酷く痛んだ。アルフォンスにエスコートを断られた時とは比べ物にならないほど。
「そ、そうですか…… では、シェリエル様に……感謝、しなくては」
声が詰まる。王妃教育など役に立たない。
「ごめんね」
その一言は僅かに掠れていた。それが彼の心情をあらわすのか、それとも“振る舞い”なのかは分からない。
アリシアの呼吸は浅く、キンと膜が張ったように音が遠い。
胸を裂くような痛みを堪えるのに精一杯で、彼女は次の言葉を探し、そして見つからなかった。
ディディエは少し間を置いて「……それで、ここからは相談なんだけど」と気まずそうに声音を弱める。
クッ、と喉が詰まり死刑宣告を待つようにアリシアは薄い唇を噛み目を瞑る。
「僕が今持つ感情を、確かめさせて貰っても良い?」
「え……?」
「このまま黙っておいても良かったんだけど、何故かそれが嫌だった。君が他人に傷付けられるのが嫌だった。君が殿下のことで心を乱すのが嫌で、他にも方法はあったけど、僕でそれを塗りつぶしてやりたかった」
「……なんで、そんなこと……を」
「あれからずっと、今も、僕のことしか考えられないよね? それに君は自分の意思で殿下の婚約者の座から降りた。僕はそれがとても嬉しくて幸せで、今とても満たされてる」
ディディエはフ、と空を見上げ、瞳に月明かりを取り込んでキラキラ煌めかせていた。
それは綺麗で、可愛らしくて、幸せそうで、見ている者が涙を溢しそうなほどの喜びに満ちていた。
カッ、と顔に熱が集まってとにかく鼓動が速度を増していく。
「ディディエ様、それは……」
「うん。血筋を言い訳にするのは格好悪いけど、これが愛なのか計画が上手くいった喜びなのか分からないんだ」
ディディエはスイと横を見て、それからジッと覗き込むようにアリシアに向かい合う。
彼の顔はしっかりと見えていた。
「でも、君に執着してしまったみたい。だから、側で確かめさせて?」
彼は少しだけ頬を染めて言った。
空っぽになっていたアリシアの胸の内では炎の花びらが幾重にも咲きこぼれ、チリチリと下から心臓を焦がす。
これほど酷い告白があるだろうか。
彼はすべての手の内を明かし、けれど彼自身は曖昧なままアリシアの気持ちだけを確定、自覚させた。
ついさっき凍り付くような胸の痛みを患ったアリシアは、もうこの燃え上がるような胸の鼓動を手放せない。
安堵し、期待し、焦がれてしまっている。
「困ります……」
ディディエはアリシアの両手をそっと取って引き寄せる。そして上から囁くような小さな声に変え、自然とアリシアに顔を上げさせた。
「困らせたくて言ってるから」
「酷いわ……」
「ごめんね、」
少しだけ首を傾けアリシアの耳元に唇を近づけると、またあの甘い声で囁く。
「もう少し待ってて」
「わ、わたくしは…… ディディエ様のことなど…… 少しも」
ドン、と胸を押すがディディエはお利口にしていた時と違いビクともしない。誰にどう見えるかすべて計算してやっていたのだろう。
そして読心を得意とするディディエには、この乱れきった心情など詩を読み上げるように伝わってしまう。
それが悔しくて、不安で、寂しくて。
じわりと目元が熱くなりゆらゆらと視界が滲んでいく。
すると、ディディエが少し困ったように眉を下げ、躊躇うように視線を一度外し。
「僕は欲に忠実なんだ。本当に君を愛してしまったら成人を待つことは出来ないよ。だから、それまで曖昧にさせておいて。ね?」
「それって……」
アリシアは逆毛を立てるようにぶわりと胸元から耳まですべて真っ赤に染め。
ほろり、と一粒雫を落とす。
ずっと我慢してきた。
アルフォンスとマリアにこれまで積み上げて来たものをすべて奪われ、自身の欲深さを突きつけられ、他者の目に怯え、それでも泣く資格などないと言い聞かせてきた。
それなのに、この酷いことばかり言う男の言葉で何もかも溶かされてしまう。
もうボロボロと溢れる感情を止めることは出来なかった。
「ねぇ、わざとやってる? 僕はこれでも倫理を無理やり捩じ込まれた人間だよ? 規律を重んじる君がそれってどうなの?」
彼女を咎める声は甘く、零れ落ちる大粒の涙を優しく人差し指で拾っていく。
「わ、わたくしが悪いのですか! ディディエ様が、いけない、と思います……」
「ねぇ、アリシアって呼んでも良い?」
「駄目、です」
「はは、アリシア」
「……ッ!」
悪魔とは儘ならぬもの。
アリシアはこの夜、恋に堕ちた。





