黒雲白雨
そこは、厚い雲のかかった薄暗い世界。
叩きつけるような黒い雨。
頬に当たる冷たい罪悪感。
じっとり重みを増す身体。
芯から凍えるような震え。
それらは引き摺り込まれるような強い念ではない。徐々に時間をかけて染み込んでいくような、そんな重苦しい世界だった。
……これが穢れ? もっとおどろおどろしいものを想像していたのに。
穢れは基本、どろどろと茶色いヘドロ状のものが多い。汚物を連想させるのでよけいに不快感が増すのだが、黒い穢れの雨というのは初めてだった。
じわりと魔力を放出し、祓いの祝詞を唱える。今回は最初からネージュの補佐付きだ。
ネージュさん、お願いしますね!
うむ、というような力強い魔力が返ってきて穢れに邪魔されることもなく詠唱が終わる。あとは魔力を込めるだけ……
が、しかし。
頭上の雲はぽっかり穴をあけたが、またモクモクと戻っていく。穴はすぐに埋もれてまたピシピシと黒い雨粒が容赦なく降り注いだ。
……魔力が足りなかったとか?
「先生、おかしいです。全然、祓えた気がしなくて…… もう少し深く繋いでもらえますか?」
「……これ以上は危険だよ。内在世界が同一化すると自分が何者か分からなくなってしまう。それに、他者と認識できなければ祓えないはずだからね」
「どうしましょう、このままでは……」
「私も一緒に祓おう。繋ぐから備えて」
「え、でもそれって…… 先生、大丈夫なのですか」
返事はなかった。
ユリウスは今わたしと国王を外から繋いでいる状態だ。重なった二つの内在世界の状態を細い糸で読み取っているようなものらしい。
祓いをするには完全に内在世界を繋ぐ必要があり、意識のあるわたしとユリウスが繋がれば互いの感情が混じり合うことになる。
大丈夫なのかしら、と思ったときにはシンと世界は憂いを増し、うしろにユリウスの気配がした。
「先生、泣いているのですか?」
「いや?」
黒い穢れの雨がユリウスの目元に溜まり、ツウと頬を伝って顎からぽつぽつ落ちる。
まるで泣いているみたいに。
世界にはサラサラと穢れに混じってユリウスの感情が降ってくる。
これ、という明確な輪郭はなく、彼自身この感情の正体が分かっていないのだろう。
霧雨のように柔らかで、瞬きをした時まつ毛に溜まった雫でやっと気付くような、知らぬ間に身体を濡らしているような、そんな薄い感情だった。
決して心地よいものではない。
思わずユリウスの手を取れば、冷たい霧はほのかに花の香りをつけて、花園の朝霧のように儚く白んだ。
「ふふ、君も存外感情が薄いんだね。人のことを言えないじゃないか」
「失礼な! いまだってすごく心配してます!」
「ほら、口調のわりに怒りは感じない。むしろ雪原で雪玉を投げるように弾んでいる…… 楽しんでいる? けれど、綿のように柔らかで、これが君の優しさということなのかな?」
「ちょっと、やめてください! 卑怯ですよ、自分は感情が薄いからって!」
人の感情を食レポみたいに解説しないでほしい。
羞恥心がこみ上げた今、きっとそれもユリウスに伝わっているのだろう。楽しそうに口角を上げたその仕草でわかる。
なんて罰ゲーム…… こんな仕打ちあんまりだ!
ユリウスは心地良さそうに一度目をつぶって、それから繋いだ手を引き寄せた。
「さあ、祓ってしまおう。この穢れは不快でしかない」
それには賛成だ、早く終わらせるに限る。どこまで感情を読み取られるか分かったものではないので。
二人、祝詞の声を合わせると、今度は濃い雲が声に呼応するように徐々に集まってきて、詠唱が終わる頃には真っ黒な大岩に変わった。
「馬鹿な男だ……」
「……なにか?」
「いや? シェリエル、あの大岩を砕くというつもりで魔力を込めるよ。いいね」
「はい」
そうか、今までは無意識に身体に纏わりつく穢れを祓おうと意識していたけれど、果てのない雲や雨だと対象を絞り切れて無かったんだ……
ユリウスは跪き、繋いだ手を大事そうに自身の額に当てる。集中しろと言わんばかりに目を瞑って、大量の魔力を吐き出した。
それに合わせてわたしも魔力を解放すれば、詠唱により生成された魔法陣に二人の魔力が染み渡って行く。
すると……
大岩にはピシリとヒビが入り、黒い煤のようなものがハラハラ舞い落ちる。
肌に触れるとチリッと焼けるような感覚と共に、機械的なノイズ混じりの声が頭に響いた。
『殺サねば』
『王は悪魔ニ魅入られた』
『アレは何なノですカ』
『陛下は民ヲ見捨てるノですカ』
『殺せ』
『わたくしの子ヲ守って』
『殺してシマエ』
『なぜ…… 』
なんなんだ、これ。穢れに記憶が残っているとでも言うのか。これがある限り、陛下は穢れを溜め続けるだろう。
すでに洗礼の儀で使った魔力量を超えていた。二人合わせてあのときの倍ほどの魔力を込めれば、大岩はほろほろと崩れて霧のように消えていく。
最後にひとかけら、蝶のように舞い降りてユリウスの頬を撫でた。
「お、終わった…… 先生、大丈夫ですか⁉︎」
バツッと世界は途切れて視界は元の寝所に戻る。胸元で俯くユリウスが顔を上げると、こめかみに汗を浮かべてギリ、と唇を噛んでいた。
「……平気だよ。少し、感情が……紛れ込んだだけ」
「先生、血が…… 唇。は、祓いましょうか? 外からの祓いで平気ですか?」
キュッと繋いだままの両手に力を込めると、冷たい指先はすりすりとわたしの指を撫でる。無意識なのか、甘えるような仕草に反して言葉は素っ気ない。
「問題無いよ、それより陛下に治癒を。それなりに回復させておかないと、またすぐに穢れを溜める」
「はい…… お兄様も手伝ってください」
「いや、僕はユリウスに付いてるよ。それより、なんでそんなにくっ付いてるわけ? お前たち少し距離感おかしいんじゃない?」
何を言ってるんだこの兄は…… さすがに緊張感がなさすぎる。
ユリウスも呆れ気味に息を吐いて立ち上がり、手を解いてうしろからわたしにのしかかる。
いや、それはどうかと……
「あの穢れが満ちた内在世界で私の精神はとても消耗してしまった。シェリエルは鈍感なのか、あのなかでも負の感情に揺れずに安定していたからね。感情を取り込んで心の平穏を保っていたというわけさ」
「で、今は? それはなに? だいたいお前に崩すほどの心なんてないだろ!」
「ハハ、とくに意味はないよ」
どこまで本音かわからないけれど、ユリウスはいつものユリウスだった。ディディエはプリプリ怒っているが、無理に引き剥がそうともせずどこかユリウスを心配している、ように見える。
なんだ、ただの戯れ合いか…… 良い迷惑である。
「では、お二人は神官の祓いをお願いします」
「嘘だろ、こんなに弱ったユリウスをまだ酷使する気?」
「弱ってはいないが? 自分がやりたくないだけだろう?」
「お前は黙って!」
やっぱり平気そう。ユリウスの顔色は悪いけれど軽口を叩く余裕はあるみたいなので、神官たちを二人に任せてわたしは国王の手を握りひとりで黙々と治癒をかける。
「……あの、これって何を治癒すれば良いんです? 病って治癒できましたか? というより、これは病なんです?」
「なんかこう、グワッと、生命力を送り込むみたいな感じでやってみなよ。出血がひどいときなんかはそれで繋いだりするから」
「そんな雑な説明あります?」
命の加護を持つディディエがこれである。祓いをすることになり気が立っているのだろうか。
ユリウスを見ると、少し疲れた顔で仕方なさそうに口を開いた。
「シェリエル、治癒は術式より祈りに近い。正しい状態を知り、それに近づけようという思いで傷も治していただろう」
「え、まあ……、はい」
ユリウスから祈りという言葉が出たことに驚きを隠せない。けれどディディエの助言とあまり大差ないのでは?
二人は渋々というように皺を寄せた顔で神官を引きずり出して、祓いの準備をしている。ホイ、と魔力結晶を渡せばディディエは舌打ちしながら受け取った。
……とりあえず、このミイラ状態をふっくら艶々に戻せば良いの? 術式じゃないといっても治癒にだって魔法陣や祝詞はあるし……、でもあれはシンプルに活性化させているだけか。
うーん、と唸ってもう一度手を握る。
水分を増やす?
増血……? 骨髄あたりを活性化させれば良いの?
衰弱ってことは筋力が落ちてるってことよね。筋肉育つかしら……、前もそんなこと考えた気がするけど。
あ、まだ香が残っているから抜いた方が良さそう。解毒って肝臓だっけ? ええと…… あ、錬金術で血液を濾せば良いのでは? 止血の魔法陣を応用して…… 心臓あたりで良いか。
と、ごにょごにょ考えながら思いつくままに試してみた。国王で実験したなんて知れたら処刑確実だ。しかし、みるみる国王は握った手から順に潤いと肉感を取り戻し、浅く胸を上下させ始める。
ふはは、見たか! わたしってやっぱり天才なのね、自分の才能が恐ろしいわ!
と、高笑いしそうになる。
微弱だった心音も老人くらいには戻ってきた。
「……う、ぅぅ」
わ、治癒し過ぎたかも!
いま意識が戻るとまた穢れを呼びそうだ。
学生たちは数日かかったので、少ししてからヘルメスが通う予定になっていた。よって、今日はアフターフォローのカウンセリング要員が居ないのである。
「……ゆ、……ウス」
「え、今なんと? 先生、お兄様! 陛下の意識が戻りそうです」
「そう、じゃあ君も神官の祓いを。ディディエひとりで全員は無理だよ」
「それより先にヘルメスお爺様を連れてきてください。陛下の意識が戻ったら……」
「それよりってなにさ! 僕のこと何だと思ってるわけ!」
「ディディエ、静かに。外に誰かいる。陛下は香でも突っ込んでおけば良い」
同時にドンドンと扉が鳴り、リヒトが剣を抜く。
「リヒト、違うわ! 扉を押さえるだけでいいの!」
「は、はい!」
大混乱である。
浅く息をする国王に最後に気持ちばかりの治癒をかけ、神官を一人祓う。
ディディエがうるさいのでもう一人祓いを任せると、力なく座り込んでハッハッ、と短い呼吸を繰り返していた。
「先生、まだいけます?」
「……早く終わらせよう」
最後の一人を祓い終えるとさすがのユリウスもげっそりと顔から生気が抜け落ちていて、トス、と座り込んで瀕死のディディエに寄りかかった。
「だ、大丈夫ですか……?」
「僕はもうダメ……」
「私ももう帰るよ……」
「僕も連れってってよ、ユリウス」
「ダメですよお兄様、急に姿を消したら怪しいでしょう」
「うぅ…… シェリエルは酷い。こんなはずじゃ無かったのに…… 僕はただまた面白いことが起きるかなと思って付いて来ただけなのに……」
それは自業自得というのでは?
外からは大祭司が大声でこちらに呼びかけている。騎士も数名いるようだ。
立ち上がる気力もないらしいユリウスはチラとそちらに視線をやり、座ったままの状態で音もなく姿を消した。





