マルゴットの呼び出し
文官仕事がひと段落した頃、わたしは何故かマルゴットに呼び出された。
来期の予習なら日程を決めて自室に来てくれるはずなのに。なんだか嫌な予感がする。
「失礼します」
マルゴットは淑女らしい余裕のある微笑みで出迎えてくれた。
簡単に新年の挨拶をし、学院ではどうだったか、届いた成績表は素晴らしかっただとか、当たり障りない話をする。
「そうですか、直接お話を伺うことができて安心しました。カッパーでもきちんと生活出来ていたのですね」
「はい、良き侍女見習いに恵まれ、領地の者とも良好な関係を築けたと思います」
転移門のことは内緒である。嘘を吐いているわけでない、ただ余計なことを言わないだけのことだ。
——コンコン。
扉が鳴りスッとそれが開くと、ディルクとその後ろにディディエが立っていた。
マルゴットは久しぶりに会った親戚のおばさんみたいな顔でニコニコ笑い、さあさあとディディエを招き入れた。
「……クソ、マルゴット卑怯だぞ」
「何を仰いますか、ディディエ様。こうでもしなければ会ってくださらないではありませんか」
ディディエは不満げな様子を隠しもせずに、ドカッとわざとらしく音を立ててわたしの隣に座る。
……なに、何なの。わたしを巻き込まないで欲しい。
「ゆっくり話をしたいのは僕も同じだよ。でも残念なことに僕はこれでも忙しいんだ。次期当主としてやるべきことが山のようにあるからね」
マルゴットはいまだ微笑みを崩さず、愛に満ちた優しい微笑みを浮かべたままだ。
「左様でございますか。それは、学院に許可もなく転移門を設置し無断で侵入。学生を拉致、拷問、洗脳、魔物化や穢れの実験台にし、罪のない生徒の殺害を計画する、などのことでしょうか」
「…………ッ!」
「人心の授業が受けられないのもその為だと?」
優しい声音だった。それは本当に、子どもに今日はどんな素敵なことがあったのかと尋ねる母のような優しい声なのだ。
しかし、どうにも全身の毛が逆立つような恐ろしい響きだった。
「ディディエ様?」と更に目尻を下げるマルゴット。それを合図にディディエは堰を切ったように話しはじめた。
「違うんだマルゴット、聞いて欲しい。僕は何も悪いことなんてしちゃいないんだ。可愛い妹がどんな大変な目にあっているのだろうと兄としての愛情が少し行きすぎてしまったことは認めるよ? でもね、僕は決して人に害を与えようなんて思っちゃいないしそれを楽しんだことだって一度もない。たしかに数人、少しお話はさせてもらった。でもそれだって彼らが穢れを溜めかけていたからで、シェリエルの負担になると思ったからこちらで処理し……対処しようと思ったまでなんだ。現にあれから学院で穢れによる問題は起きていないし、オリバー君だって元気に授業に出ていたよ。そう、オリバー君なんて僕たちと仲良くなってからすっかり改心したようでね。今じゃどこからどう見ても好青年だ。ね、僕は何も悪いことなんてしちゃいない。ほら、僕の目を見て? 嘘を言っているように見える? これは僕がシェリエルとあの子たちのために、いや、この国の安寧を願ってしたことなんだ。分かるだろう?」
よく舌の回ること……
マルゴットはたっぷり何呼吸も黙って、それから薄く目を開け、静かに笑みを消した。
「良く分かりました」
「……ハハ、なら良かった」
「ディディエ様はそれが道理に反しているとよく理解されているようですね。優秀な補佐官を付けるのも考えものです。在学当時から何度も申し上げたはずですよ。それが結果的に本人のためであっても、人の尊厳を奪ってはならないと」
マルゴットがちらりと壁際のディルクを見れば、ディルクは叩きつけられた蛙のようにビタっと青い顔で壁に張り付いていた。
「やー、でもさ。仕方ないじゃないか、シェリエルの為なんだから。僕は他の誰が犠牲になろうとシェリエルの為に動くよ。それがベリアルドとしての性だからね」
キリッと愛情深い兄を装っているが、要はすべてわたしのせいにしようという魂胆だ。
その証拠に、ディディエは続けてこう宣った。
「それにさ、無断で転移門設置したのはシェリエルが先だよ? 毎日城で寝起きしていたんだから」
はーん、そう来る? マルゴット先生青筋立ててるじゃないの。これは完全に巻き込まれ事故だ。
「シェリエル様、どういうことですの? カッパーでも優秀な侍女見習いを見つけ、問題なく生活していたとさっき仰いましたわよね?」
「マルゴット先生聞いてください! わたくし、事業を多く抱えているでしょう? ですから城と自由に行き来しなければ文官たちが危うく死ぬところだったのです」
「シェリエル様が文官塔に出入りし始めたのは年が明けてからだと聞いておりますが」
「あ、それは…… その、わたくしで業務が止まってしまうと、迷惑かけるかな、と……」
これで朝ギリギリまで寝る為なんて言ったら殺されるわ。どうしよう、なんでこんなことに……
「城から通ってさぞ快適に生活出来たことでしょう。それを従者にも当然の如く納得させ、学院での規律を歪めてしまったのですね」
「申し訳ありません、反省しています。来期は必ず学院で生活します。ベリアルドが規則から逸脱してしまうことは、些細なことでも許されませんよね……」
「そうです、それがなぜか分かりますか?」
「……人の倫理に反することと区別が付かないからです」
心外である。わたしは罪悪感はちょっと薄いけれど倫理的にはこの世界よりもずっと平和で人権に特化した世界の感覚を持っているのに!
日本人を舐めるなよ!
……が、ここは反省した方が良いので模範的な回答としおらしい後悔の顔で乗り切ることにした。
「シェリエル様も“勉学”としてはしっかり理解されているのですけれどね…… ですが、これまでシェリエル様の特異な才により、禁忌に触れるようなものまで目溢しされて来ましたでしょう? ですから、自分だけは特別だと思われているのではなくて?」
思っているけど…… 本当に特別なんだから!
特出した才だって良く分からないし、きっと呪いだって…… たぶん、きっと、もしかしたら…… 何かの手違いで半分くらいになってるのかもしれないじゃない。
「大変申し訳ありません、仰る通りです。反省しております」
「アハッ、すごい素直に謝ってるけどさぁ、シェリエル全然納得してないよねぇ?」
「せんせー! ディディエお兄様は今も城に学院から拐って来た生徒を監禁していまーす!」
「おい、お前……、それはないだろう!」
「変な薬草をお香にして実験台にしていまーす!」
「シェリ、やめッ! お前ホントッ!」
バカめ、妹を贄にしようとした報いを受けるがいい。
「ディディエ様……? まさか、本当にそのような事を……? いつかのように、すぐにお帰しになったのでは無かったのですか……?」
「は、ははは…… いやだなぁ、ハハッ…… あー、これは慈善行為だよ。うん、特に悪いことでは無い。と思うんだけど…… ハハ、そんな怖い顔しないでよ」
マルゴットは般若のように眉を寄せてまったく笑ってない目で頬を吊り上げていた。
帰りたいな……
「親御さんは……、何も知らないのですか」
「我が子が穢れを溜め掛けて魔物になるかもしれないなんて聞いたら傷付くかなと思って…… これは思い遣りだよ! 優しさだよね⁉︎」
「突然消えた我が子を今も探し回っているのではありませんか? シェリエル様が行方不明になったらディディエ様はどう思いますか?」
「イライラすると思う……」
「はぁ……」
マルゴットは大きな溜息を落として、疲弊したように黙り込んだ。
よしよし、これでわたしはもう大丈夫。お兄様は少し反省した方がいい。
しかし、何故かわたしまでこってり絞られた。
マルゴットは一切声を荒げない。五月に降る細い雨のように、しとしと静かに倫理を解いていく。
それはもう何十回も聞いたものでごくごく簡単なお話だった。幼稚園児に言い聞かせるような人として当たり前の事から始まり、こんな事を言い聞かされる身としては恥ずかしくて仕方ないというものである。
これは心に来る。
情けなさ過ぎてもうやめてと耳を塞ぎたくなった。
ディディエはすっかり肩を落とし、「僕が悪かったです」「善いことだって思ったんです」「ごめんなさい、学び直します」と口をへの字にして膝の上で拳を握っていた。
座り過ぎてお尻が痛くなってきた頃、やっとわたしたちは解放された。ディディエは後日補習となり、それは預かり中の学院生を帰すまで続くらしい。
彼らの状態を加味して、きちんと元に戻してから帰すと約束させられていた。
「はー、本当シェリエルは察しが悪いなぁ……マルゴットの呼び出しなんて一番避けるべき案件だろ?」
廊下を歩くわたしたちの足取りは重い。
「だったらいつものように一人逃げ回れば良かったではありませんか。巻き込まれたのはわたしです」
「だって、シェリエルから話を聞く、とか言うからさ…… だったら自分で丸め込んだ方が良いかなと思って。シェリエル平気で僕のこと裏切るし」
「先に裏切ったのはお兄様じゃありませんか。わたしの転移門だって、話す必要無かったはずです」
「やめよう、兄妹で足を引っ張り合うのは良くない」
今更である。舌の根も乾かぬうちに、よくもまあ……
「いやー、でも勉強になるよね! 人の心を折るのに自尊心を砕くのは有効だって改めて実感した。あと時間だね。あのいつ終わるか分からない、じわじわ時間の感覚が麻痺してくる感じはかなり効く」
「反省してるのですか?」
「下手打ったなとは思ってるよ」
反省するところが違うと思う。まあ、これがベリアルドの限界なのだろう。獣を躾けるように規則を破れば嫌なことがあると地道に教えて行くしかないのだ。
「お兄様、頑張りましょうね……」
「うん、次はもう少し上手くやらないとね」
違う、そうじゃない。という言葉は飲み込んだ。
実際わたしも何故怒られたか理解はしていても、それに納得はしていなかったからだ。
だって、わたしは悪いことしてないもの……
転移門だって誰にも迷惑かけてないし。
寮で寝泊まりしたからって集団生活には変わりないし。
まあ、何人かは死んでも良いかなって思ったこともあったけど……
社会のルールだって時代と共に変わるものだし。
わたしはベリアルドでもまだマシな方だし……
「シェリエル、クレイラの訪問さっさと終わらせてくれない? あのドラゴンで実験しないと森へ行かないんだよね?」
「今月中には一度行く予定ですが、いつまでかかるか分かりませんよ?」
「困る、二日で終わらせて。あと何回もあんな説教聞いてたら流石の僕でも泣いちゃうよ」
「泣けば良いと思います」
「ねぇー、本当さぁー! 頼むよー、アレ嫌なんだってー」
知らんが。
フイと顔を振ってディディエの甘ったるい猫撫で声を跳ね除けると、「これだから万年反抗期は!」とまったく心に響かない捨て台詞が返ってきた。
誰が反抗期だ、そっくりそのままお返しする。
ディディエの為というわけではないが、それでも拉致被害者のことは早く片付けてしまいたかったので早速翌週にクレイラを訪問することになった。
シエルと初めてのお出かけである。
民の目に晒すわけにはいかないので移動は転移門を使うことになるのだが。





