ベネデッタのお仕事
「ベネデッタ様、文官室には男性ばかりですがやって行けそうですか?」
初めての文官室を出てすぐのこと。
廊下でシェリエルからそう問われた時、ベネデッタは一瞬身が竦み肌が粟だった。
頭に浮かぶのは生気のない弱々しい文官たちだったが、同時に背中の古傷が肌を引き攣らせたような気がした。
……彼らはオリバー様ではないわ。
学院でもベリアルドの殿方は紳士的で……少し幼いところもあって、それに優しかったもの。エドガー様も繊細で優しい方……
それに、さっきの様子じゃとてもじゃないけれど人を害する元気なんて無さそうだったし……
もしかしたらわたしの方が強いんじゃないかしら。
ベネデッタは過去の痛々しい記憶を払拭すべく、ベリアルドで接した人々を思い浮かべた。
シェリエルはいつになく真面目な様子で言葉を続けた。
「彼らは素行や思想に問題無しとされていますが、男女間のこととなれば何が起こってもおかしくありません。ベネデッタ様が望まぬ扱いをされたなら、必ずわたくしに知らせてください」
「お心遣いありがとうございます」
皆まで言わずともシェリエルが過去の婚約者の件を気遣ってくれているのが分かる。
もう成人したのだからしっかりしなければ。そう思いながらも、身に余る気遣いが嬉しかった。
……不意にこうして優しくされるから勘違いしてしまうのよね。
ベネデッタは一時期、シェリエルが自身を特別気にかけてくれているのではと期待していた。
シェリエルは髪色を抜きにしてもどこか人を近付けない雰囲気があった。それは上位貴族らしい威厳のようで、もっと別の、生きている世界が違っているような歪な空気を纏っている。
そんな彼女が他領の縁もゆかりもない自分の話を真剣に聞いてくれたのだ。
錯乱したように彼女のもとへ駆け込んだが、畑女など珍しくも無い。高位の子を産む栄誉だと、それが女の幸せだと、中位の何の能力もない女が役に立ててよかったじゃないかと、穢れを溜めるなど甘えだと、そう言われてもおかしくなかった。
実際に高位の令嬢はそういう考えの者が多い。
だからこそ、親身になって話を聞き、すぐにあの生活から救ってくれたシェリエルが世界のすべてのような気がしていたし、その彼女に気に入られたのだと浮かれていた。
「もしもの時はこちらを……」
シェリエルから華奢な軽い短剣を手渡され、ハッと意識が引き戻される。
何故短剣……?
そういえば、そんなこと……あれは牽制や冗談ではなかったのね。
先程文官たちの前で物騒な宣言があったことを思い出す。
「良いですか、太ももや腕程度であれば治癒出来ますから、思い切り突き立てるのですよ。相手が怯んだ隙に逃げるのです。逆上が一番怖いのですけれど……、脚を封じれば助けを呼べるくらいの時間は稼げるでしょう」
いったい何の話をしているのだろう。
彼らはそんな不埒な人間には見えなかった。
虚な目をした仕事熱心で立派な大人たちだ。
シェリエル自身も一切警戒した様子はなく、むしろベリアルドにはない罪悪の念すら示していたというのに。
少し間があって、シェリエルは思いもよらぬ——本来この歳になれば自覚していなければならない注意事項を並べ始めた。
「誰にでも魔がさすことはあります。既婚者だからと油断してはなりません、既婚者の方が拗れると厄介です。誰しもその可能性があるという考えは持っておいてください。……ですがまず、ベネデッタ様自身が振る舞いを気を付けなければなりません。人としての愛想と、女性としての愛嬌をしっかり線引きし、思わせぶりな態度を取らぬよう心がけてください。これは彼らの為でもあるのです」
いったいわたしは誰と話をしているのだろう。
目の前のシェリエルはまだ十四の少女である。
花のほころぶ気配など一切感じさせない無機質な彼女が今、熟れた男女の機微について話している。
ベネデッタは次第に混乱してきて、自分が小さな女の子になった気持ちでコクコクと頷いていた。
「一番は特定の男性に決めてしまうことですけどね。いくら善い人間でも男性ばかりの環境に一人女性が入り込むと、おかしな事になることもあるのです……」
達観した貴婦人のようにはぁ、と息を吐くシェリエル。
ベネデッタは不思議な方ね、と思ったあと、ふとエドガーを思い出してポッと頬に熱を集めた。
シェリエルはおや、と片眉を上げ「もしや、もう誰か好い人が?」と少し興味のある素振りを見せた。
言ってしまおうかしら…… でも、まだ少しだけ気になっているだけだもの。
それに…… 転領した者同士だなんて、きっと許されないわ。
もじもじと思い悩んでいれば、いつの間にかシェリエルの瞳からはスッと興味の色が失せていた。
シェリエルは他人に特別な感情を示さない。持っていないのかもしれない。たまに、側近である侍女見習い二人に対しても他人事のような素振りを見せることがある。
しかし、誰もそれを寂しいだとか薄情だとか思っていないようだった。
彼女がベリアルド一族だからだ。
そのことに気付いたとき、自分だけが特別だと有頂天になるではなく、頭が冷えた。
シェリエルは誰にでも冷たく誰にでも優しい。
自身を助けてくれたのも気まぐれか、利害か。
あの日熱心に語ってくれたベリアルド家特有の思想は、優しい嘘ではないのだ。
『少しの幸運くらいはあっても良いんじゃないでしょうか』
ただ幸運に恵まれただけだと本当の意味で理解した。分かっていたつもりだったのに、どこかで期待していた。
自分もそこらへんに転がる石ころと同じであり、使えそうならば拾うし、邪魔であれば排除する。ただそれだけ。
少し寂しく思った。
ベリアルドの貴族たちのように簡単に割り切れなかった。
心はすっかり忠実な家臣だったから。
主に認められ、主に信頼され、主に好かれたい。年の上下など関係無い、世界にただひとりの自分の救世主。
恋にも似た焦がれはどう足掻いても報われるはずがない。
自分には何の才もないのだから。
彼女の目に留まるのは役に立つ者だけだ。
そんな切ない気持ちを和らげてくれたのが、同じく転領したエドガーだった。
エドガーの転領が決まってから、彼と話をする機会が増えた。不意に漏らした泣き言に、彼は『シェリエル様にとっての利を我々の常識で測ってはいけませんよ。きっとベネデッタ嬢の良いところも見つけてくださります』と優しく穏やかな声で慰めてくれた。
初めは少し嫌な人だと思った。彼は成績も優秀で文官としての才がある。目に留まり気に入られて然るべき人だ。
少しむくれたベネデッタに、エドガーは『私がシェリエル様の目に留まったきっかけは、文官学科で無駄と切り捨てられたものだったのですよ』と続けた。
悪戯っぽく笑ってはいるが、照れているらしい。
最後は恥ずかしそうに、『私は運が良かっただけですが』とはにかんだ。
彼ほどの人でも、運に頼らざるを得ない困難があったのだと気付いて、いつの間に自分はこれほど欲張りになってしまったのだろうと顔を真っ赤にしていた。
彼の言葉は本当だった。
新年早々、城でヨーガを教える大命を任され、今まさに文官の補佐という特別な仕事を与えられた。
嬉しくて、不安で、涙が出そうで、せめてしっかり返事だけは頑張った。
もし、あのまま城で居候の身であってもきっとシェリエルに対する忠誠心は揺るがなかっただろう。
それでもやはり、心が躍ってしまうのだ。
それからは日々驚きの連続だった。
文官仕事や補佐の知識が無い自分だからではないらしい。むしろ、彼らの方が驚いているくらいだ。
ベネデッタは既存の書類を見たことが無かったので、その模様のような細かな文字列を見て文官の凄さを改めて思い知った。
「では、ベネデッタ様の進捗どうですかシートでも作りましょうか」
「……?」
進捗どうですかシートとは……
シェリエルは一枚の紙に一人の文官の名前を書き、「館収支」「館在庫管理」など左側に業務の内容を並べていく。その右側にはそれぞれ定規で線を伸ばし、等間隔に十ほど線を刻んでいた。
「毎日業務の終わりに一人ひとり作業がどれくらい進んだか聞いて回ってもらいます。作業を洗い出した後、締め切りがある物は記載しておくと良いですね。文官の皆様は一割程度、など終わった分を簡単に答えてあげてください。もし別の誰かと連携が必要でそれ待ちの場合は申告を。等分の必要がなくその日中に仕上げてしまえる業務は日付と一緒に下の空いたところに羅列するように。ベネデッタ様は聞いた通りに書き留め、全員分集まったらベルガル様に提出してください」
「これで効率が良くなるのですか……?」
疑問を呈したのはベネデッタではなく、文官の一人だった。ベネデッタにもこれに何の意味があるのか分からない。
シェリエルは少し苦い笑みを浮かべ、「実はわたくしもこの作業が嫌で嫌で……無い方が良いとは思うのですけどね……」と小さく溢していた。
それから一度、んー、と視線を上擦らせ、今作った書になにかを書き込みはじめた。
「例えば、先月分の決算などは他から報告がなければ進みませんから、しばらく無記入のままになりますよね。その間も他の業務はあるので、どれくらい進んだか日付を打って行きます。これが右端まで……十割埋まれば業務完了……と。こうやって完了していった業務がいくつか並んでも、無記入のままの決算業務が残っていると残作業が一目で分かります。もしこれで他にも未完了の業務が並んでいたら、決算の時期とかち合ってしまって時間が足りないと一目瞭然でしょう?」
何となく分かるような気がして、マジマジと棒線と業務内容を見つめる。
……これが全部埋まればいいのよね?
「日付を打つことでどの業務がいつ頃進むのかなど、ベルガル様が把握しやすくなるのです。続けていれば、途中で差し込まれる業務のためにどれほど余裕が必要か、この業務にはだいたい何人日必要か、誰がどの業務に向いているかなどが可視化されてくるのですよ。……たぶん」
シェリエルは「文官業務にどこまで適用出来るか分かりませんが」と付け加えた。彼女はいつもこうやって事業を運営しているのだろうか。
「なるほど……、なるほど! これは分かりやすいです。何となくで帳尻を合わせていたものが、はっきりと形になるのですね。ええ、これはとても良い」
ベルガルは文官に混じって鋭い目で睨み付けるように紙面を見つめていた。
「完了目安を出せない業務もあると思うのですが、少しでも作業を洗い出すことによって終わりのない作業地獄からは抜け出せるはずです。あと、面倒でも完了業務を一覧することで、漏れがないか確認しやすくなりますから」
「いやはや、確かにその通りです。結果的に業務をすべて洗い出せるのは素晴らしいですね。わざわざそれに人を割くことは出来ませんでしたから…… 一応自分でも書き付けてはいたのですが、年に数回しかない業務などはつい直前になって思い出したりもするので」
「自分たちもあれもこれもとなって混乱することが多々あるので助かります」
ベネデッタにはその利便性が理解出来なかったが、とにかく彼らがこれまで大変だったということだけは肌身に感じた。
しかし、これほど簡単な作業ならば自分など居なくても彼らが個別に記入して提出すれば良いのではないだろうか。
苦言を呈するようで言葉に出来なかったが、これも別の文官が「これくらいなら自分たちでやりますよ?」と首を傾げていた。
「今はまだその余裕があると思いますが、そのうち目の前の業務を優先するようになるはずです。この記入をする時間が惜しいと思うようになっても、ベネデッタ様が回れば答えざるを得ませんからね」
「そ、そうですね…… つい先日だというのにすっかり忘れてしまっていました……」と、文官が頭をかく。
「ベネデッタ様がいない時は各自記入して提出するでも構いません。夏には学院も始まりますし」
たった半年で役に立てるのだろうか。
そんな不安を抱えながらも、裁断機で紙を切り出したり、複写の魔導具で書式を印字したり、フォルダの整理方法などを話し合った。
ベネデッタはこれまでに無い充実感で終始胸を高鳴らせていた。
優秀な者しか手に出来ない職を、今自分が手にしている。手伝いと言えどまだ学生の自分が。
新しい自分になった気がして未来が眩しいほどに煌めいた。
ここに来てよかった。
それから少しして、二日に一度のヨーガ教室が始まると、ベネデッタは今まで経験したことのない“忙しさ”に目を回した。
そ、そうよね…… お仕事だものね……
朝早く起きすべての体力を持っていかれるような過酷なヨーガを全力でこなし、朝食を済ませると文官塔へすぐに移動。
シェリエルが出入りを始めた他の文官室に書類を届けたり、紙を裁断したり、テンプレートを複写したり、全員から業務内容を聞き取り一覧したり、たまにお茶を淹れ休憩を促したり、過去の書類を探すよう頼まれることもあったり、全員分の進捗を纏めた紙を居所の分からないベルガルを探し届けたり……
普通に大変だった。
メイドたちに大浴場の使い方を教わって、湯に浸かるようにもなった。
初めは溺れないかと緊張し、うっとりし過ぎてのぼせたりもしたが、今では一日の疲労を取ってくれる大事な儀式となっている。
そしてぽかぽかの身体で寝台に入ればスコンと眠りにつき悪い夢を見ることもない。
気付けば朝になっていて、また輝かしい充実した一日が始まった。
それがベネデッタの得た新しい生活だった。





