2.おはようございます、眠り姫
それから件の会場に運ばれるまでの三年間。
シェリエルはただひたすら赤ちゃんライフを満喫していた。
娯楽はないがほとんど眠っているので退屈もない。
どちらが奴隷か分からないほど世話役の大人が世話をしてくれるわけで、毎日コツコツ出来ることを確かめていればあっという間に一日は終わってしまう。
……こんなに身体って動かないものだっけ?
と頭を持ち上げようとお腹にグッと力を入れる。
手足がバタバタするだけでちっとも座れやしない。
……あ、寝返りが先か。
と身を捩れば、血液が全身を駆け巡るように腹の底から熱くなる。
そしてゴロンと身体がひっくり返り。
……なるほどコツは掴んだ。
と、ゴロンゴロンしていれば急激な睡魔に襲われいつの間にやら夢のなか、というように。
前世の記憶がそっくりそのままあると言っても、赤ちゃんとしてやる事は他と大差ないだろう。
赤ちゃんしか得られない達成感を積み重ね、平和な日々を過ごしていた。
記憶そして思考力がある分、その効率というか何というかは他とはきっと比べ物にならないが。
思考力を備えた成長期の脳はぐんぐんスペックを上げ、視力がハッキリして来た頃には先のことを考え始めた。
その小屋はさすが奴隷育成小屋というくらい、不衛生で娯楽もなく劣悪と言っても良い環境だった。
十六歳のシェリエルが知る貴族の世界からすれば家畜小屋。
前世の某からすれば……
まあ、離乳食などどこも同じような物になるし(ミルクでグズグズにふやかしたパンや野菜を煮てすり潰したもの)、汚いだけでさほど不便は無い。
なのでここから逃げるという選択肢はなかった。
下手に動いて三歳児から見世物小屋に就職だとか、変態趣味のおじさんに飼われるだとか、怪しい魔術の実験材料にされるだとか、そういうのは困るから。
夢の通りであればきっと例の貴族の侯爵家に買い取られる。
その侯爵家というのが悪魔と呼ばれる家門であり、家族全員頭のおかしい怖い人たちなのでそれだけが問題だった。
……普通に生きていけるの、あの家。それにあの“先生”よ。人を道具のように使い捨てて殺すなんて酷いにも程がある。
教師各位は要注意。顔が見えなかったのが悔やまれる。
あとアルフォンス殿下とやらもダメ絶対。婚約などもってのほか。
魔法は…… 何とか使えるようなりたい。髪色のせいなのか夢では一切使えないみたいだったけど、プログラミングもほぼ独学だったし何とかなるでしょう。……たぶん。
と、貴族しかも侯爵家であれば、奴隷や平民よりよっぽど良い生活が送れるので、買われてから何とかしようと夜泣きもイヤイヤ期も逃げ出す計画も無しに、優秀な赤ちゃん奴隷として生活していた。
しかしそんな緩い日常のなか、また信じられないことが起こる。
またもや知らない人生の終わりを夢に見たのだ。
前世の記憶よりは曖昧で、未来の死の夢に近い感覚。
こことも前世とも違う、魔法も科学もない世界で、“私”は騎士だった。
主が磔にされ、火が投げ入れられた瞬間、自分を抑え付ける兵たちを薙ぎ倒し、火に飛び込んだ。
火事場の馬鹿力…… 剣の才しかない孤児の自分を拾い、育ててくれた我が主が困ったような笑みを零す。
「お前まで死ぬ必要はないんだぞ」
「……お守りできず、申し訳ありません」
やっとのことで振り絞った声は、案の定震えていた。
「あの世まで、護衛を頼む」
「喜んで」
優しく気高い主君を苦しませるわけにはいかない。
自身の培ってきた最高の剣技で、一瞬でも苦痛を感じないよう全神経を集中させ剣を振る。
腕に転がり込んできた主の頭が、穏やかに微笑んでいるのを見て少しばかり安心した私は、一気に自分の首を掻き切った。
そんな、二度寝したときに見る夢くらい短くて鮮明な記憶だった。
たったそれだけの記憶なのに、胸が擦り切れるような苦痛で泣く以外のことが出来ない。
前世や未来の死とは比べものにならないほど、死の間際の感情は苦しみに満ちていた。
怒りを、絶望を、どうすることも出来ない無力感を、心臓が張り裂けそうなくらい胸に溜め込んだ。
何度も深呼吸しながら感情を噛み殺し、その夢を反芻する。そうせずにはいられなかったのだ。
そして、数日かけてやっとその記憶を飲み込めた。
前世が二十七歳。未来の死が十六歳。あの夢は三十代半ばくらい。
……おかしい、たしか未来の夢は見れないはず。
まあ、未来で死ぬ夢を見ている時点で、もっと言えば前世の記憶がある時点でおかしなことには変わりないのだが。
経験したことのない三十代、しかも自分が男だったあの記憶は夢というには鮮明すぎる。
なにより、あれが自分なのだという感覚がある。魂に刻み込まれたというべきか、本能で理解してしまっている。
思い出したという感覚に近い。そう……
……あれは、わたしの前々世だ。
前世より短い最期の記憶。
男性としての意識がそれほど強く残らなくて良かったと考えられる程度には、この記憶も馴染んで来ていた。
そうしてわたしは自身の現世と前世と前々世の最期を知ることとなった。
出来ればもう過去の人生を、死を、体験したくない。
自分だという自覚がありながら、違う人格が混じり合う感覚は頭がおかしくなりそうだ。
わたしは誰だろう。何者なんだろうか。
自分という存在が酷く不安定に思えた。
そうしたハプニングに見舞われながらも、案外順調に育っていくもので。
ヨチヨチと一人歩き出来る頃にはたいして大きくも無い木箱から外を眺め、奴隷の子どもたちを観察した。
彼らの髪色は茶色。
この世界で平民は茶髪であり、貴族は髪に色を持つ。それは魔力を持つ証拠であり、加護のある属性の色が反映されている。
火の加護があれば赤に。魔力量の多い上位貴族であればパキッとした原色に近く、魔力量が少なくなるにつれ色が落ち、茶色に近くなっていく。
空、火、水、土、風、命の六属性。
空の加護を示す青髪などは下位貴族であれば褪色し切ったブリーチヘアのように灰っぽいくすんだ色になるが、年寄りでも白髪は存在しない。
平民含め、生物の色は魔力で構成されていて、魔力のない豚や鼠でさえ茶の色を持つ。
それで、白い髪の“シェリエル”は世界の理から外れた不気味な欠陥品だとか神に愛されなかっただとか散々蔑まれるのであるが。
「こんにちはー」
返事はない。
ゆっくり虚な瞳が持ち上げボーッと涎を垂らしているだけなので、彼らが差別主義者であるという可能性は低い。
だからと言って世話係の女性に話しかける気にはなれなかった。“行き先”が変わると困るので。
そうこうしているうちに、あっという間に三歳になっていた。
そしてついに出荷の日。
隙間のない木箱に詰められ、聞き慣れない男の声に「本当に泣きもしないな」「気味の悪いガキだな」などと言われながら、件のオークション会場に運ばれたというわけである。
◆
会場にはそれなりに人が入っているようだった。
だんだんと入札を示す光は減って来たが、それでも闇の向こうで蠢くような気配は濃くなっている。
司会の男は懐に入る金を興奮気味に吊り上げていた。
「では大金貨一枚…… まだ複数人いらっしゃいます! 刻みますよ、大金貨一と小金貨一、二……、十、二十! ああ、なんて日だ! こんな夜はもう一生ないでしょう! 大金貨で刻みます、二……、三…… えええ、では五……」
結構な大金だった気がする。そこらへんの知識が全然無いのが困りものだ。
まあ夢ってそういうものだし。
摩訶不思議な夢であっても見ている間はそれを常識として理解するが、詳細はボヤけているのがほとんどだ。
ここは大人しく買い手が決まるのを待とうと大人しく座っている。
——いや、待って。なんかおかしい。大丈夫そう? 空気おかしくない?
男の声は上擦っている。相当な値段になっているらしく、そこまでして自分を手に入れたいという人間が複数人いることにゾッとしたのだ。
幼女趣味の変態貴族や怪しげな魔術に全財産つぎ込むような頭のおかしい人だったらどうしよう、と急に不安になってくる。
光る記号がふたつになり、男はまた細かく刻み始めた。どうやら激戦らしい。
男はだくだくと汗をかき、ごくりと喉を鳴らしてから切りの良い数字を発する。
片方の記号が消えた。
どうかまともな購入者でありますように!
違法な闇オークションで白髪の幼女を買う人間などまともであるはずがないのだが。
それからまた木箱に詰められゴトゴト揺られ、狭い暗闇でいつのまにか眠ってしまった。
相当な高値が付いたからか、運び込まれた時より運搬が丁寧だったのもある。
次に目を覚ましたのは暗い木箱の中ではなく、ぼんやり灯りの魔導具を灯した馬車の中だった。
革張りの椅子に揺れも少なく、それだけで持ち主がとんでもなく凄い人、ということが分かる。
向かい側では薄っすらと笑みを浮かべた美形の男性が窓の外を眺めていた。若く見えるが二十代半ばくらいだろうか。癖のある真っ青な髪から横顔が覗いている。
じっと観察していると、その男も視線に気づいたのか横目でちらりとこちらを見た。
「おはようございます、眠り姫」
整ったパーツはきちんと笑みを作っているのに、それがどうにも恐ろしい。
「おはよう、ございます……?」
えー、怖ッ。わたしが普通の三歳児だったら不安で泣き喚いてたところだ。
いや、普通の三歳児ならこの不穏な笑顔に気づかないか。でも子どもは本能で感じ取ると言うし…… まてまて、とりあえず落ち着こう、わたしはそこらへんの幼女とは違うんだから。
「はじめまして、シェリエルと申します」
男はグワっと目を見開き歪に口角を吊り上げる。
「どこでその名を? 今までどこにいたんです?」
「なまえは…… いつのまにかそうよばれていました。いままでいたところはわかりません」
ふむ、と考え込むような素振りをしながらも、目だけはジッとこちらを見たまま動かない。
正直めちゃくちゃ怖い。こんなことならずっと窓の外を眺めていて欲しかった。
「教育は受けていました?」
「いいえ、とくには」
彼は目をまん丸にして「ほぅ……」と言った。
これまで奴隷として育てられた三歳児がそれなりに会話をしているのだから。普通に考えれば教育でどうにかなる話ではない。
けれど、これが夢の通りならば彼にはこれで通じるはずだ。
「言葉はどこで?」
「生まれてからすこししておぼえました」
「なるほど、ベリアルド家の人間に間違いなさそうですね」
ベリアルド家…… 良かった、夢の通りだ。……良かったのか?
夢では存在として認識していても顔は覚えていなかった。
とにもかくにも、ニコニコと笑うこの男が悪魔と恐れられるベリアルド侯爵家の人間で、今のところ夢の通りになっていることだけは確かだった。