12.商談と実験
数日後、ディディエの言う商人がやって来た。
「よく来たね、ライナー」
ライナーは顔を上げると、視線はシェリエルの頭に固定されたまま石になってしまった。
シェリエルまでどうしていいか分からず一緒になって固まっていると、ディディエがいつもに増して含みのある声をかける。
「驚いた? この事は他言しないように。もし漏らしたらお前もお前の家族も友人知り合い故郷の村まで全て消すよ」
「お兄様はわたしを何だと思っているのですか」
少しむくれる彼女の声に驚いたのか、ライナーが我に返ったように姿勢を正す。
「ご挨拶が遅れ失礼致しました。私はベリアルド領内で商人をさせていただいております、ライナーと申します。以後お見知りおきを」
「シェリエル、マルゴット先生にも習っただろう? 貴族の子は本来洗礼を終えるまで余程身近な貴族以外には存在を隠すんだ。平民なんてもっての外だよ。この髪色じゃなくてもね」
普段顔を合わす使用人も限られていて、髪色に驚かれることも無いので忘れていた。
そういえば、わたしの髪ってこの国に無い色だった。
ライナーが驚き、ディディエが警戒するのも仕方ないのかもしれない。
やっと席につき、初めての取引が始まった。
「ディディエ様、本日はどういった物をお求めでしょうか」
「今日用があるのはシェリエルなんだ。この可愛い僕の妹の頼みを聞いてやってくれ」
人形やドレスの入った木箱をライナーの後ろに控える従者が広げ始めた。
「今日お願いしたいのはわたしの物ではないのです。それはしまっておいてください」
「左様でございますか。では一体……」
「ライナーは香油も取り扱っていると聞きました。それもベリアルドでも一二を争う品質だとか。どこで作っているのですか?」
「私どもの工房で作っております。今や香油はベリアルドの名産になっておりますので」
ライナーによると、ここベリアルド侯爵領では領地として有名なものが無いらしい。
言葉を選びながらの説明から見えて来たのは、コロコロと変わるベリアルドの政策と、不安定な領地でも逞しく生きる領民の関係だった。
セルジオの代ではディオールの趣味(という名の美への執着)により、商人たちが活気付いているという。
これはラッキーだ。だとしたら、思いの外早く手に入るかもしれない。
「では、香油はどうやって精製しているのですか?」
「それは……」
企業秘密というわけか。
ライナーは額に汗を浮かべ、きつく拳を握りしめる。商会の利益と貴族の怒りを天秤にかけているのだろう。
「植物油に香草を漬け込んでいます? それとも精油を精製してオイルに混ぜているか…… それとも別の方法が?」
「なぜそれを……? せ、セイユというのは……?」
ガッと目を見開いたライナーが前のめりでテーブルに手を付く。ディディエが軽く手で制さなければ、シェリエルのところまで飛んできそうな勢いだった。
「わたしにも少し知識があるのです。その様子だと漬け込みでしょうか。精油の作り方を教えるのでその方法を試してみてください。そして、その途中で出来る副産物を必ず取っておいてほしいのです」
紙に図を書きながら説明すると、先程までの萎縮した様子はどこかに吹っ飛んだようで、目をキラキラ輝かせながら子どものように見入っている。
これではどちらが子どもなのか分からない。
「蒸留は酒蔵などでやっているかもしれませんし、仕組みとしてはそれほど難しいものではないのです。出来た精油は直接手に触れると良くないので気を付けるように」
「酒蔵⁉︎ 油なのに…… いや、精油、精油は素晴らしい。これは……、ならオイルは……」
ライナーはカタカタと肩を震わせ完全に瞳孔が開いている。
「お、お兄様……」
「ふふ、面白いだろう? 平民のくせに商売に関して気が昂るとこうなるんだ」
ディディエが珍獣を見るようにニコニコと眺めていると、やっと正気を取り戻したライナーと目が合う。
「失礼致しました。すぐに、すぐに準備致します」
「精油の使い方は次回教えるので勝手に使わないように」
一応持ち逃げされないように保険もかけた。
「というかさ、これくらいなら僕にも出来そうなのに。わざわざ商会を通す必要ある?」
「もしお義母様のお気に召したらお兄様が一日中これにかかりになってしまいますよ? それに、民が潤うのは良い事でしょう?」
ライナーの顔色は青くなったり赤くなったり忙しい。
貴族の心得をしっかり勉強しているので敢えて商会に依頼した。
決して自分で作るのが面倒だとかいう訳ではない。決して。
いくつか商品をディディエに買ってもらい、頬を上気させたままライナーが帰って行った。
それから、ふたりでそのまま調理場へと向かう。
先日スイートポテトのレシピを教えてから、調理場は完全に遊び場になっていた。
甘い芋を探すのに手間取ったが、作り方自体は難しい物ではないので、最近ではスイートポテトとメレンゲがセットで作られるようになっている。
「それで? そのオイルで何をするの? マッサージ用の香油だよね?」
「シャンプー……洗髪剤を作ってみます。料理と同じようなものですよ」
この世界の石鹸はあまり泡立ちが良くない。
けれど、動画サイトで見た手作り石鹸と同じような物なので、たぶんいけるはずだ。たぶん。
石鹸を細かく刻み、お湯に溶かしてオイルを入れるだけ。湯洗いだけでは落ちない汚れも落としつつ、髪のパサつきも抑えられるだろう。
が、しかし。
石鹸が溶けない……なんで?
ひたすらかき混ぜていると、見かねたメアリが申し訳なさそうに口を開いた。
「お嬢様、石鹸は普通の井戸水には溶けませんよ?」
「じゃあどうやって洗濯とか洗い物をしているの?」
「魔法を使うのです。魔法で出した水だと石鹸が上手く泡立ちますから」
ほう? そんな裏技が……! ……ん?
「なら、石鹸は貴族しか使えないの?」
「どうでしょう? 考えたこともありませんでした」
「お兄様、こちらにお水を出してもらえますか?」
「いいとも」
『ドロー』
どこからか取り出した杖の先から呪文と共に水が出てきた。先ほどと同じように水を温める。
「お兄様の呪文は短いのですね。呪文ってすごく長いものだと思っていました」
「これはスペルだよ。初級は短いスペルを使うし、中級はもう少し長い呪文。上級とか特級になるともう儀式だから祝詞だね」
へぇ〜と感心しながらも、温めたお湯に石鹸を入れてみる。ゆっくりかき混ぜると、今度は上手く溶けてくれた。
液状になった石鹸に少し香油を垂らし、また混ぜる。思ったより香りが出ず、独特の匂いがする。
この世界の石鹸はちょっと臭い。精油の仕上がりを待つしかないようだ。
「今日これで頭を洗ってもらいたいんだけど、良い? メアリもお水出せるのよね?」
「ええ、もちろんです。お湯にするには魔力が足りないので、桶に溜めてから温めましょう」
「ありがとう、メアリ。あ、そうだ。お兄様こちらのコップにもう一度お水を出してもらえますか?」
出してもらった水はとくに普通のお水と変わらないように見える。
「これって飲んでも大丈夫ですか?」
「うん、大丈夫だよ。僕も生水は自分で出したものしか飲まないしね」
一口飲んでみると、普通の水だった。そう、普通の水なのだ。普段口にする水は重く、味が付いているわけではないのに口当たりが悪い。
この違いが石鹸の泡立ちに関係しているようだ。
そんな事を考えながら他にもディオールが作らせていた物を改造しているのでそれを見学に行ったり、あれやこれやと準備する。
「そういえば、ディディエお兄様はお勉強の方は良いのですか?」
「午前に終わらせたよ。シェリエルもだろう?」
「わたしとお兄様では勉強の量が違うのでは?」
「そうでもないよ。シェリエルは三歳までの分も急いで詰め込んでいるからね。本当はもう少しゆとりがあるんだよ」
そうだったのか。でもお兄様は内容もかなり難しくなっていると聞いているし、剣術や魔術がある分わたしよりも忙しいはずなのに……
ディディエの天才ぶりに触れ、今後ベリアルドの基準で教育が進んで行くことに不安を感じ始める。
——欠陥品、無能、役立たず。
無いはずの記憶がフラッシュバックし、一気に血の気が引いた。
頭の血液がすべて心臓に集まっているのかと思うくらい胸が苦しい。
が、すぐに温かい手がわたしの頭に降りて来て、冷めた頭にじんわり温度が戻っていく。
「ダメだよ、シェリエル」
「お兄……様?」
「いま、何か傷付いただろ? 僕が揺らしてないのに勝手に心を痛めないでよ」
何だそれは……
相変わらず鋭いディディエの洞察力に驚きつつも、なんだか可笑しくなってしまった。
「ふふ、お兄様の天才ぶりに絶望したのですよ」
「だったらいいや」
ディディエなりの優しさだろうか。
これまであまり積極的に勉強してこなかったけれど、自室に戻ったらちゃんと勉強しよう。
と、思うシェリエルであった。