影武者と侍女 2
隣で眠るルカからは寝息が聞こえていたから、きっとぐっすりと眠ることが出来たのだろうが、エリザは眠れない夜を過ごした。
持ってきた懐中時計が午前三時を指すと、エリザは寝室を抜け出して廊下に出た。廊下には、エリザを部屋に押し込んだ衛兵が立っていた。
無言で目の前を通り過ぎるエリザを、ちらりと衛兵が見やったが、何も言わずに見送った。
自室へ戻ると、ニーナを起こさないように寝台へと潜り込んだ。せめて少しでも眠ろうと目を閉じたが、やはり眠れなかった。
そのまま起床時間になると、ニーナを起こしていつも通りの一日がはじまった。エリザは一睡もしていなかったが、きびきびと動いて淡々と仕事をこなした。
昼食の時間になり、エリザはニーナと共に使用人食堂へ行った。
エリザは昨夜も朝もあまり食べることが出来なかったので、あっという間に昼食を平らげてしまった。
エリザが食器を下げていると、侍従のウィリアムに呼ばれた。ニーナはまだ昼食を食べ終えてなかったので、ゆっくりしてと言い置いて、食堂を出た。
ウィリアムは、ニーナの前では靴の確認作業について話があると言っていたが、廊下に出るなり王妃が呼んでいることを伝えた。
エリザの背中に嫌な汗が伝う。
昨夜の出来事を聞かれるのは間違いない。エリザはイメージトレーニングをしながら、長い廊下を歩き続けた。
「昨夜はどうだった?」
エリザに挨拶をする間も与えずに王妃が尋ねた。直球すぎる言葉に、エリザは思わず室内を見渡した。もちろんジェーンとキャロラインとエリザしかいない。
「このことはここにいる私達とアーサーだけの秘密だから大丈夫よ」
いや、ルカも知ってます。
「あ、あの……あまりにも緊張していて、記憶がおぼろげでして……」
「アーサーも緊張していたでしょうね」
「は、はい……」
脳裏にすやすやと寝息を立てて眠るルカの寝顔が浮かんだ。ルカは緊張するどころか、ぐっすりと眠っていた。
悔しいくらいに無防備で、それでいて本当にエリザに指一本触れてこなかった。まったく相手にされていないことは明白で、エリザは女性としての魅力がないことを突きつけられた気がした。
「申し訳ありません。うまく言えなくて……」
「いいのよ。妙なことを頼んでごめんなさいね。これはお礼よ」
ジェーンが封筒を渡してきた。エリザはそれを受け取ると、その厚みに驚いて固まった。
「よく頑張ってくれたから、ね?」
何も頑張っていない。だって本当に何もしていない。
それでもエリザは丁寧に封筒を二つ折りにすると、スカートのポケットに突っ込んだ。落とさないようにしっかりとねじ込む。
「きちんとあの薬は飲んだかしら?」
「はい」
本当は一粒も飲んでいないけど。
「まだ残ってると思うから、うまく出来るようになるまで、毎週末に東の寝室へ行ってアーサーの相手をしてあげてちょうだい。アーサーには私から言っておきますから」
え、ええええ!?やっぱりそうなるの?!
エリザはその場で絶叫して逃げ出したい衝動に駆られたが、お金を受け取ってしまった手前、断るに断れず曖昧に頷いた。
「目の下に隈が出来てるわ。昨夜は遅かったろうに、朝から仕事で疲れたでしょう?少しゆっくりしてから仕事に戻るといいわ」
ジェーンに言われるがまま、エリザはのろのろと書斎を後にした。
廊下に出ると、扉の前で控えていたウィリアムが、心配そうに顔を覗き込んできた。
「エリザ、顔色が悪いですよ」
「大丈夫です。でも、女官長から休憩をいただいたので、少しゆっくりしてから仕事に戻ります」
「そうですか。無理をしないでくださいね」
「ありがとうございます。では失礼します」
ウィリアムは本気で心配してくれているようだ。エリザはなんだか申し訳ない気持ちになって、さっさとその場から退散すると、裏庭へと向かった。
昼休憩が終わる時間帯なので人はいなかった。ここぞとばかりにエリザは長椅子へと腰掛けると、背中を預けてだらりと力を抜き、空を見上げた。
雲ひとつない初夏の真っ青な空が広がっていた。目を閉じて、スカートのポケットをまさぐる。
封筒の中にはどのくらいのお金が入っているのだろう。ここでは見られないので、触って厚さを確認してみた。
ぶ厚い。何もしていないのに。こんなにもらって大丈夫なのか?
絶対大丈夫じゃない。バレたら大変なことになる。
もしかしたらクビになるだけでは済まないかもしれない。父共々国を追われる身になったりして。
そうしたら借金はどうやって払えばいいのだろう。他国からお金を届けるのは難易度が高い。いい方法はないものか……。
「眠れなかったからって、ここで寝るなよ」
エリザは考えにふけっていたため、突然した声に飛び上がった。誰もいないと油断していた。
ばっと振り返ると、エリザを呆れた様子で見下ろすルカがいた。ルカは辺りを見渡すと、誰もいないのを確認して言った。
「王妃に呼び出されたろ?うまく言い訳出来たか?」
「ええ……なんとか」
「それで、金でも受け取ったか」
「な、え、あ……」
動揺丸出しのエリザに苦笑したルカは、エリザの手がスカートのポケットに入ったままなのを見て察したようだった。
エリザは慌てて手を引っこ抜いて膝の上に置いた。
「それで、何を言われた?」
「その……毎週末相手をしてあげてほしいと……」
「まったく。何考えてるんだかな」
呆れたルカはため息を吐くと、エリザの隣に腰掛けた。長い足を組んで、エリザを横目で見やる。悔しいくらいに、見た目は本当にいい男である。
「アーサーのところにも手紙が来てな。同じことが書いてあった。王になるには必要なお勉強なんだそうだ」
「お、お勉強……」
「本当に好きな人とロマンティックな初夜を過ごす時のための練習だとよ。むちゃくちゃだよな。……アーサーはもちろん嫌がっている。が、面と向かって王妃に意見することも出来ない」
「それじゃあ……」
「ないとは思うが、あんたが王妃の放ったスパイではないと言い切れないし。暗殺の可能性がゼロでない限り、また俺が影武者になって寝室へ行くことになるだろう。……これは王妃が飽きるまで続くだろうな」
エリザは、涼しい顔をしているルカに詰め寄った。
「困ります……!ずっと嘘をつき続けるだなんて!」
「だけどあんただって断れないだろ?金も受け取ってしまったんだし、嘘をつき通すしかない」
「それはそうですけど……まるで私が二重スパイみたいじゃないですか。私はそんなんじゃないのに……」
単なる侍女に、無理難題を突きつける王妃やルカ達。どうしろというのだ。
彼らの望みを叶えてやれる程エリザは暇ではないし、度胸もない。こんな状況がしばらく続くと思うと、それだけでストレスを感じる。
俯くエリザに、ルカはふむと顎に手を当てて思案した。
「確かにあんたには酷な話だな。だから、そうだな……こっちも巻き込んだ迷惑料を払おうか」
迷惑料と聞いて、現金にもエリザはぱっと顔を上げた。
「少し調べさせてもらったんだ。デヴィッド・ハーディス子爵の一人娘、エリザ・ハーディス嬢。十六歳から侍女になって八年目。かつて婚約者がいたが、戦争で亡くしている。籍は入れていないが、結婚式を挙げたんだって?大方都合のいい未亡人だと勘違いされて、白羽の矢が立ったんだろ?」
「どうして……」
「昨夜アーサーに調べてもらったんだ。侍女になる時に簡単な身辺調査はするから、このくらい調べるのは簡単だった」
「そうですか……」
エリザは気まずくて視線を逸らした。
「家族はハーディス子爵だけか?」
「そうです」
「ハーディス子爵は政治的にもどこかの派閥に所属していると聞いたことがないし、常に中立の立場だ。そこも目をつけられた要因だな」
そうかもしれないが、一番の要因は侍女からチップをもらっていたことだと思う。ただ単に弱みにつけこまれただけだ。
「運が悪かったな。だが、ハーディス家は借金を抱えてるんだろ?ならばこれを機会に稼いでやろうくらいの気持ちで腹をくくれ」
「そんな無茶な……」
さすがのエリザもそこまで肝が座っていない。だがルカは、なぜ?と片眉を上げて不思議そうに言った。
「王妃とアーサーの両方から手当てをもらえば、大きな収入になるぞ。しかも、あんたはただ何もせず寝てればいいんだ。いつもと寝床が代わるだけだろ」
「そんな簡単に言いますけどね。私はあなたとは違うんです!」
「なら次は本でも持ってくるんだな。俺も仕事の資料を持ち込むことにする。寝るまでお互いの好きなように過ごせばいいさ」
何でもないことのように言うルカを、エリザは恨めしい目で見上げた。
なんだよ?とルカに問われて、エリザはプイとそっぽを向いた。なんだか無性に腹が立ってきた。
なぜルカはこうも冷静でいられるのだろう。自分だって今回のことがバレたら大目玉をくらうはずなのに。エリザが隣で寝ていても、平気で眠れてしまうなんて。
無駄に綺麗な顔をしているし、魔法は使えるし、実家はお金持ちの伯爵家だし、きっと女性に困ったこともないんだろう。余裕がある人はこうも違うものですかね!
ふんと鼻息荒く立ち上がったエリザは、分かりましたよ!と大声で言った。ルカが目を大きくしてエリザを見上げた。
「それから一つ言っておきたいのですが、私はあんたではなく、エリザ・ハーディスです」
「ああ……そうだな。悪かった。エリザ」
「よ、呼び捨て……」
「俺のほうが歳上だし立場も階級も上だからな。それに、俺は堅苦しいのが嫌いなんだよ。公の場でない限り、口調は荒いが気にするなよ」
「かしこまりました。ホーキンス卿」
「嫌味か……。ルカでいい。じゃあ俺はそろそろ行く。今日はゆっくり寝ろよ」
エリザを置いて、ルカは颯爽と去っていった。エリザも懐中時計を見下ろして、そろそろ行かなければと裏庭を後にする。
長い回廊を歩きながら、エリザはふと足を止めた。
そういえば、ルカはぐっすり寝ていたはずなのに、なぜエリザが眠れなかったと知っているのだろう。
「あ、目の隈かしら」
化粧をし直さないといけない。エリザはあくびを噛み殺して、歩を早めた。