遅れてきた感情
「エリザはもう大丈夫だ」
アーサーが執務室に入ってくるなり言った。ルカは慌てて駆け寄ると、アーサーの両肩を掴んで勢いよく聞いた。
「どんな状態だった?!」
「もう落ち着いて話が出来るまでに回復していた。ヴァロワ伯爵が、後は薬を飲みながら副作用や後遺症がないか一ヶ月程経過観察をして、それをクリアすれば退院出来るだろうと言っていた」
「副作用や後遺症は、今のところ出ていないんだな?!毒は体内から抜けきったのか?!」
「そのようだ。後遺症も残る可能性はほとんどないそうだ」
それを聞いたルカは、ようやくアーサーから手を離すと、安堵のあまり力が抜けてその場に膝を折った。座り込んだルカに、いつの間にかやって来たオーガスタが、よかったわと心底安心したように呟いて、ルカの背中を叩いた。ルカは力なく頷いて、それに応えた。
「エリザは大丈夫だと言ってたの?」
「ああ。自分のことよりも私達のことを気にしていたよ」
顔を上げると、アーサーが目を真っ赤にしているのに気づいた。エリザと話をしてきて、泣いたのかもしれなかった。オーガスタもまた、涙ぐんで言った。
「エリザらしいわね……」
ルカは胸が詰まって何も言えなくなった。
エリザが回復したと聞いて、安堵と喜び、不安と心配が一気に津波のように押し寄せてきて、自分でも感情の制御が出来なくて困った。
自分の目でエリザが元気な姿を確かめないと、完全に安心することは出来ない。心配で心配で仕方がなく、今すぐにでも飛んで行きたい衝動に駆られた。
「すぐにでも面会は出来るのか?」
「今日はもうダメだろう。それにまだ落ち着いたばかりだ。負担をかけたくない。明日以降面会出来るかヴァロワ伯爵に頼んでみるよ」
「そうか……」
ルカはぐしゃぐしゃと頭をかいて項垂れた。
エリザが毒を盛られて倒れた時、必死に応急処置をしたが、毒を飲み込んでしまった後では何もかも遅かった。
エリザが意識を失った時には心臓が止まるかと思った。声が枯れる程名を呼んでも意識を取り戻すことはなく、力なく横たわったエリザはピクリとも動かなくなった。
蒼白になった顔を見下ろして、ルカは気が動転した。早くしないとエリザが危ない。
ルカは必死の思いでエリザを抱え上げた。気を失っているにも関わらず、軽々と抱えることが出来て驚いた。
以前怪我をして意識を失ったエリザをおぶったことがあったが、その時よりもずっと軽く感じて、ルカの顔は真っ青になり胸に鋭い痛みが走った。
駆けつけてきた医者や騎士が運ぶからと言っても、ルカは自分が運ぶと言って譲らなかった。
エリザは一刻を争う状態だった。マーチンに助かるのか聞くと、この状態では解毒出来るかどうか分からないという。ルカは絶望しそうになった。
治療室へエリザを運び終えたルカは、その場に留まることはもちろん許されず、外で待っていろと追い出された。廊下で待機している間、ルカは座ることも出来ずに治療室の扉をただ見つめ続けた。
駆けつけてきたデヴィッドに、せめて座って待とうと言われても、ルカは返事もしなかった。
しばらくすると治療室の前には、アーサー付きの使用人達が集まってきた。皆エリザを心配して駆けつけてきたのだ。
神様どうかエリザを助けてください!
エリザを助けてくれるのならば、どんなことだってする。悪魔に魂を売ったっていい。自分の命を捧げても。とにかくエリザを助けてくれ!
ルカはこれまでに神に祈ったことなど無いに等しかったけれど、この時ばかりは本気で神に祈った。それはきっと治療室に集まった誰もがそうしただろう。
それからどれだけの時間が経過したのか、すっかり夜が更けた頃に治療室の扉が開いた。そこから現れたマーチンがもう大丈夫だと告げた。思えばあの時も、安堵と喜びと不安と心配とで、どう反応していいか分からなかった。
そして一夜が明けて、マーチンから治療は順調だが毒が抜けきるまではしばらくかかると言われた。
アーサー付きの使用人達は仕事どころではなかった。エリザが心配で、仕事をする間もそわそわと落ち着かない。
アーサーもまた、エリザが倒れたのは自分のせいだと自分を責めていたが、そんな中でもしっかりとマリアへのフォローは忘れなかった。
スープに混入した毒がマリアとエリザのスープ皿にしか入っていなかったことが分かるなり、マリアへの警護を厚くして、自分を叱咤して毒を混入した犯人の調査を開始すると宣言した。
その時ルカは、正直それどころではなかった。何も手がつかずに、治療室の前まで行ってはその場にうずくまったり、面会に行ったデヴィッドに様子を伺っては、安堵して心配してを繰り返していた。
治療室へ向かったある日、マーチンと出くわした。エリザの様子を根掘り葉掘り尋ねるルカに、マーチンは何度も心配をするなと声をかけた後、苦笑混じりに言った。
「君は彼女の恋人なんだね?恋人を気にするのは分かるが、私を信用して任せてくれないか?」
「恋人というわけでは……私はエリザの同僚で……」
言いかけて口を噤んだ。
ルカの脳裏にエリザの言葉が蘇った。
エリザは心から好きになった人には幸せになってもらいたいと言った。例え相手が自分でなくとも、ルカには心から愛する人を見つけてその人と幸せになってほしい、と。
それは告白だった。初めて聞かされるエリザの気持ちに、驚くと同時に確かな喜びがあった。
けれどその時のルカには、心から心配して気遣ってくれたエリザの気持ちが嬉しかったからなのか、エリザの気持ちを受け入れたいと思ったからなのか、判断がつかなかった。
ただ突然の告白に動揺して、曖昧に頷くしか出来なかった。今思えばなんて情けなかったろう。
翌日、何事もなかったかのように振る舞ってくれたエリザにほっとしつつも寂しさが募った。隣に座るエリザを気にかけながら、どんな言葉をかけたらいいのか悩んで、結局いつもと変わらない同僚のように振る舞った。
女性に対してこんな風になったのは初めてで、そんな自分に戸惑った。
もしかしたら、自分はエリザに気持ちが傾いているのではないか。だとしたら、この先どうするべきなのか。
頭の中がごちゃごちゃになって整理が出来ないでいるうちに、事件が起こったのだ。
「……そうか」
黙り込んだルカに、マーチンが思いついたように呟いた。
「君の片想いか……。これは野暮なことを聞いてしまったね。でも本当に彼女は大丈夫だから、私に任せてくれ」
安心させるようにルカの背を優しく叩いて、マーチンは去って行った。一人取り残されたルカは、その場から動くことが出来なかった。
マーチンの言うとおりだった。
目を閉じれば、エリザの顔がはっきりと浮かんできた。慌てふためいたり、泣きそうに顔を歪めたり、困った顔や、照れたように笑った顔を思い出すと、笑みが溢れて愛しさが込み上げてきて、会いたいと切なくなる。
他の男と話しているのを見るだけで苛立ちを覚え、元気がないと心配になり、きちんと健康管理をしているのかと不安になって、うるさいくらいに口を出してしまう。
毒を盛られて倒れた時は心臓が止まるかと思い、死ぬかもしれないと想像しただけで、もうダメだった。
今だってそうだ。何度マーチンに大丈夫だと言われても気が気じゃなくて、何も手につかない。
「俺は……バカだ……」
ルカは壁を叩くと、その場に頭を抱えて座り込んだ。エリザがこんな状況になって、初めて自分の気持ちに気づくだなんて。
いつからか分からないけれど、マーチンが言うように、きっとルカはエリザに片想いをしていたのだ。そんなことにようやく気づくなんて、あまりに遅すぎる。
「情けない……」
ルカは呟いた。そして、決意した。
エリザに気持ちを伝えよう。けれど、今はまだ他にやることがある。まずは、エリザをこんな目に合わせた犯人を捕まえる。そしてそれが終わったら、エレノアとのことを話し合おう。
ルカは頬を叩いて立ち上がると、肩を怒らせてアーサーの下へ向かった。そして、ようやく捜査に加わったのだった。
それからはあっという間だった。
犯人が捕まり裏取りをはじめたところで、エリザが落ち着いて話が出来るまでに回復したと報せを受けたのだ。
ルカはその晩、面会の許可が降りたら、すぐにエリザに会いに行こうと決めていた。
しかし、翌朝実家から連絡が入ったことによって、考えを改めることにした。
エリザに今すぐ会いたかったが、まだ問題は残ったままだ。このまま感情に身を任せるよりも先に問題を解決して、憂いを取り除いてからのほうがいい。
きちんとけじめをつけてから告白しよう。
そのことをアーサーに相談すると、はじめこそ驚いていたが、エリザのことは任せて思うようにしろと背中を押してくれた。万が一の時は味方についてくれるとも。
ルカはアーサーに感謝して、エリザに会いたい衝動を必死に抑えた。そして、決意を新たにした。




