影武者と侍女 1
エリザはいつもよりゆっくりとお風呂に入り、念入りに身体を洗った。それから使用人食堂で軽い食事をしたが、ほとんど喉を通らなくて残してしまった。
自室へ戻ってみると、遊び疲れたのかすでにニーナは布団に潜り込んで寝ていた。
エリザの机の上には可愛らしくラッピングされた小包が置かれていて、お土産です!とニーナの丸い字で書かれたメモがあった。
開けてみると、城下で流行りの焼き菓子店のクッキーが入っていた。
エリザは早速食べてみた。さくさくとした触感に甘くて優しい味がする。少しだけ勇気が湧いた。
そしてあっという間に時刻は十時前。
部屋を抜け出したエリザは、重たい足を引きずるようにして、水明殿へ続く廊下を歩いていた。
両手を握りしめて祈るように歩くエリザは、絶望した顔をしている。まるで今から死刑台へ赴く死刑囚のようだ。
廊下に立つ衛兵が、エリザの顔を見てギョッとしていたが、どうでもよかった。
この状況を切り抜けるにはどうしたらいいのか、ただそれだけを考えていたが、皆目見当がつかない。なぜ自分が選ばれたのか。
未亡人だと思ったから。都合がよかったから。お金を出せば寝る女だと思った。そんなところだろうか。
途方に暮れながらも、気づけば水明殿の東の寝室の前までやって来ていた。
ここまで来たら逃げることは出来ない。それでもエリザの覚悟は固まっていなかった。
ぐらぐらの不安定な気持ちのまま、ドアノブに手をかけて離す。意を決して掴む、離すを繰り返していると、いつからいたのか衛兵がやって来て、エリザに声をかけた。
「あの、早く入ってください」
「え、あ、は……?」
「すでに中でお待ちになっておりますので」
「で、ででで殿下がですか?!」
「お静かに。誰かが来る前に中へ!」
さあ早く!と衛兵はエリザの気持ちなんて知らないとばかりに勢いよく扉を開くと、強引に中へと押し込んだ。
背中を押されたエリザは、つんのめって扉の前で膝をついた。背後で勢いよく扉が閉まる音がした。
ノックもせずに押し込むだなんてひどい。ひどすぎる。
というか私がノックしていないことになるから、私がマナーのなっていない侍女だと思われるのではないか?
「やっと来たか」
寝台の方から男の声がして、エリザはびくりと肩を震わせた。
いつまでもこのままではいられないと、震える膝をなんとか伸ばして立ち上がる。天蓋付きの寝台へと目をやれば、こちらに背を向けて座る男の背中が見えた。
肩につくくらいの淡い色の金髪を後ろで一くくりにして、生成り色の寝衣を着ている。
「こちらへ」
背を向けたまま言われて、エリザははいっ!と上擦った声を上げた。
心臓がバクバクと音を立てて、このまま口から飛び出てしまいそうだった。王子を目の前にしてようやく現実が見えて、頭の中が真っ白になった。
どうするのが正解なのか。
実は私は初めてなんです。初夜の時のリハーサルだと思って、どうぞ私を練習台にしてください。とでも言えばいいか。アーサーがどん引くのが簡単に想像出来るけれど。
それとも、何も言わずにことを進めればいいのか。しかしそれではエリザのほうが耐えられそうにない。
エリザは一応知識だけはあるが、アーサー相手に手とり足とり教えるだなんてまず無理だ。
正直に言うべきか。それとも黙って耐えるか。何が正解なんだ。ああ今すぐ逃げ出したい!
葛藤しながらも、恐る恐る足を動かして寝台へと近づく。このまま永遠に寝台に辿り着かなければいいのにというエリザの願いも虚しく、五秒で寝台にぶつかった。
「王妃から話があったんだろう?」
「え、ええ……そうでございます」
十五歳にしては低い声だと思いながらも、震える手をぎゅうぎゅう握りしめた。
「今回君は私の相手をしろと言われて来たのか?」
「は、はいっ!」
「君は自ら志願したのか?」
「い、いいえ!」
「なら王妃の腹心の部下なのか?」
「い、いやぁ……」
まるで尋問にかけられているような気分に陥ったエリザは、思わず本音を漏らしてしまった。
エリザは決してキャロラインの腹心の部下ではない。言ってはなんだが、尊敬も憧れの念も抱いたことがない。給金をくれる雇い主としか見ていない。王室崇拝とは無縁の薄情な侍女である。
「ならば弱味でも握られたか」
それとお金に釣られました。とは言えない。
「……ま、なんでもいいか」
ポツリと言って、突然アーサーが振り返ると、エリザの手を引いて寝台へと引きずり込んだ。
あっという間の出来事で、エリザが目を回しているうちに、寝台に仰向けに押し倒され、組み敷かれていた。
上から見下ろすアーサーの顔が間近に迫っている。アーサーがにやりと微笑むと、エリザは凍りついたように動けなくなった。
きりりとした眉に、強い意思が感じられる濃紺の瞳。スッと伸びた高い鼻。シャープなフェイスライン。口端を釣り上げてニヒルな笑みを浮かべたアーサーは、完璧な顔をしていた。
エリザの顔の真横についた手はすらりと長い。一見細身に見えるが、寝衣がはだけて見えた胸板は、鍛えているのか意外と厚くてがっしりとしている。色気すら漂っているものだから、エリザは思わず視線を逸した。
どこからどう見ても大人の男だった。
ん?…………大人の、男?
ぱっと視線をアーサーに戻す。頭のてっぺんから足の爪先まで眺めて、エリザは目を見開いた。
今、目の前にいる男はどう見ても成人した男性である。
アーサーはまだ十五歳で、先月エリザが王宮の庭で見かけた時は、男性にしては細くて、中性的な柔らかな雰囲気を漂わせた美少年といった感じであった。
だが、今目の前にいるアーサーは顔は似ているが男らしい顔付きをしていて、筋肉質な身体に至ってはまるで別人だ。
「だ、誰ですかッ?!ふ、老けてる!!」
「お前……失礼な奴だな。そこは大人の男だとか言い方があるだろ」
男はむっと眉根を寄せると、エリザの頬を軽くつねった。大袈裟に痛いと声を上げたエリザを見て、男はくつくつと笑った。
そして身を起こすと、エリザの隣にあぐらをかいて座る。慌ててエリザも身体を起こして正座すると、男はおもむろに髪の毛に手をかけて、ずるりと髪を引き抜いた。
「ひっ!!」
引き抜いたと思った髪は、かつらだった。男はふるふると頭を振ってから、寝台横のテーブルに無造作にかつらを置いた。
「やっぱりいくら似てても、アーサーじゃないってバレるよな」
襟足までの黒い髪をかきあげてエリザの方へと向き直った男が、同意を求めるようにな?と問いかけてきた。
「ど、どちら様ですか?!」
「アーサー殿下の秘書官をしてる、ルカ・ホーキンスだ」
聞いたことがない。反応に困っていると、ルカが説明をはじめた。
「俺とアーサーは従兄弟なんだよ。歳は十違うがな。アーサーの母親と俺の父親は兄妹でね」
「……ということは、ホーキンス伯爵家のご子息なのですね。だから顔が似ていらっしゃるのですか」
少し冷静さを取り戻したエリザが言うと、ルカはそうだと頷いた。
この国の第一王子はアーサーだが、母親はキャロラインではない。
国王と王妃は大恋愛の末に結婚したはいいが、二人の間に子供は出来なかった。
国王には兄弟がいない。国の行く末を憂いた周囲の勧めによって、側室を迎えることになった。
それが、アーサーの母親であるレベッカである。レベッカは側室になると、すぐに妊娠してアーサーを出産した。二年後には二人目にも恵まれて王女を出産しているが、難産だったため、その時にレベッカは亡くなっている。
「あの……それでどうしてここへ?」
「王妃から今日は大事な話があるからここで寝るようにと指示があって、何かあるなとピンときたらしい。アーサーは暗殺を疑って俺を影武者としてここにやったんだが、俺は違うと思ってた。あの王妃がそんなおっかないことするわけがない。……それとも暗殺に来たのか?」
「ち、違います!私はアーサー殿下に手とり足とり教えてあげて、と……」
自爆したエリザは羞恥で真っ赤になって黙り込んだ。それを聞いたルカは吹き出すと、爆笑している。
エリザは布団に突っ伏して泣きわめきたい衝動に駆られたが、なんとか耐えた。
「わ、私だって来たくて来たわけではありません!」
訴えるエリザを見て、ルカはようやく笑うのを止めると、目尻に浮かんだ涙を指でぬぐった。
「分かったよ。それでもあんたは難しい立場にいることは分かってるな?」
「私はただ、王妃殿下に言われて……」
「王妃が王子の心配をしてお節介を焼いた。……確かに王室に生まれた者にそういった教育が施されることは過去にあったんだろう。しかし今の時代そんなことは流行らないし、王妃が口を出すことじゃない」
エリザは黙り込んだ。そんなことを言われても、単なる侍女のエリザには、何と答えていいのか分からない。
今回のことを言い出したのは、もしかしたらジェーンなのかもしれないし、キャロラインなのかもしれないが、どちらにせよエリザは従うしかなかった。
「あの、私はどうなるのでしょうか。アーサー殿下に処罰されますか?」
「そんなことをしたら、王妃とアーサーが対立関係に発展して、ややこしいことになってしまうだろ。ただでさえ気を使い合う複雑な義理の親子なのに」
「それじゃあ……」
不安げなエリザを見て、ルカは考える素振りを見せてから言った。
「あんたには今夜ここでアーサーの相手をしたことにしてもらおう」
「で、でも、嘘をつくなんて!」
バレたらとんでもないことになるのではないかと思って、エリザはわなわなと唇を震わせた。
「今夜のことは極秘事項なんだ。アーサーとあんたがやることはやったと言ってしまえばそれで通る」
「で、ですが、詳しく聞かれたら?」
「二人とも緊張していて、記憶が曖昧ですと恥ずかしそうに言えばなんとかなるだろ」
「それで通用するでしょうか?」
「通用させてくれ。……さて、俺はこのことを手紙に書いてアーサーに飛ばす」
ルカは寝室に備えられた机へ向かうと、すらすらと手紙を書いて、窓を開けて手紙を飛ばした。手紙はまっすぐ夜の闇へと消えていった。
どうやらルカは魔法を使えるらしい。この国で魔法を使える者は限られている。
この国で最も有名な魔術師は、発明家のマーチン・ヴァロワ。
魔道力によって、一瞬で火をおこしたり、灯りをつけたり、上下水道を開発した人物である。彼の発明で人々の生活は激変した。
マーチン以外に魔法を使えるのは、王族と少数の貴族に、平民でも魔力を持つ者が極少数だ。程度の差はあれ、彼らのほとんどは国家魔術師として、マーチンの下で働いていると聞いたことがある。
エリザは未だかつて魔法を使える者を見たことがなかった。
物珍しそうに見ていると、窓から飛行機の形に折られた手紙が、綺麗に弧を描いて飛んできた。
ルカが拾い上げて手紙を読み終えると、手紙は青い炎を上げて燃えてしまった。ルカは手の中の灰を窓から払い落とすと、驚いているエリザを見やった。
「アーサーの承認も得た。王妃との間に変に波風を立てたくないから、そうしてくれと」
「そうですか……」
「そういうわけで、今夜はここで寝てくれ。俺もアーサーに変装してここに来ている以上、ここで寝るが」
「えっ……?!」
「王妃殿下の息のかかった衛兵が見張ってるんだから、今出て行くわけにはいかないだろう」
「それは……そうですね。アーサー殿下はどこにいらっしゃるのですか?」
「東の塔に隠れてる。早朝、俺はアーサーのふりをして出て行く」
「分かりました」
とは言ったものの、ルカとこの寝台で一緒に寝ろというのか?
エリザは思わず室内を見渡した。ソファがないか探したが、あいにく一人用の椅子しか見当たらない。
キョロキョロするエリザを見て、ルカが寝台に腰掛けると言った。
「安心しろ。床で寝ろとは言わない。隣で寝ろよ」
それは全然安心出来ないのだが。
疑わしげにルカを見やると、呆れた目で見返された。
「あんたみたいな痩せっぽっちは好みじゃない。手なんか出さないからぐっすり寝ろよ。大体あんた、きちんと食べてるのか?」
いつもはぐっと我慢するのに、エリザは余計なお世話ですと吐き出して、今度こそ寝台に突っ伏した。