金勘定する侍女 3
今日はニーナはお休みの日で、昨夜は城下に買い物に行くと張り切っていた。
寝台で未だ夢から覚めないニーナを置いて、エリザは物音を立てないようにそっと部屋を出た。
それから毎朝の仕事を淡々とこなし、昼前に宝石職人がやって来たので、紅茶と茶菓子を出してしばし談笑した後で、ネックレスを預けた。
一週間もあれば修繕出来るというので、来週の同じ時間に持って来てくれることになった。
宝石職人を見送ったエリザは、その足で使用人食堂へ向かい、簡単な昼食を取ってから、ジェーンの書斎を訪ねた。
ジェーンは、エリザが入ってくるなり言った。
「実はドレスはもう届いているのよ。検品をエリザにお願いしたくてね。それから王妃殿下も見たいと言ってるの」
「さようですか。では王妃殿下がいらっしゃる前に検品してしまいますね」
「……そうね」
ジェーンはエリザを見て薄く微笑むと、さっと全身に視線を走らせて、書斎を出て行った。
その後を追いながら、エリザは内心訝しんでいた。
何かおかしなことを言っただろうか。それともなんて地味な侍女なのだと改めて思ったのだろうか。
……まあ、なんでもいいか。
メイドに転職した場合は給金がいくらもらえるのか計算しながら、衣装部屋へと向かった。
ジェーンは衣装部屋に入るなり、入荷したばかりのドレスをエリザに見せた。
クリーム色のシルク地に、スカートの裾と袖に金糸の刺繍が入った、控えめだが質のいいドレスだった。揃いの帽子にも金糸の刺繍が入っていて、つばの部分に薔薇の花飾りが付いている。
どちらもシンプルなデザインだから、汚れやほつれがあったらすぐに分かる。検品はすぐに終わりそうだ。
「では早速……」
「ちょっと待ってちょうだい」
ドレスを手に取ろうとしたエリザを、ジェーンが制止した。顔を上げると、ジェーンはちらと衣装部屋の扉に視線をやって、黙り込んだ。
エリザが困惑していると、廊下の方から足音が聞こえてきて扉をノックする音がした。ジェーンが扉を開けると、中に入って来たのはなんと王妃のキャロラインだった。
「後は私が付き添いますから」
ジェーンが付き添いのウィリアムに言うと、ウィリアムは素早く室内に視線を走らせてエリザに目を留めたが、すぐに頭を下げて扉を閉めてしまった。
衣装部屋にはジェーンとキャロラインとエリザが取り残された。
エリザは侍女のくせに、久しぶりに主人の姿を目の前にして固まっていたが、ようやく我に返ると頭を下げた。
「エリザ。いつも私の衣装を管理してくれて助かっているわ。ありがとう」
突然の労いの言葉に驚き顔を上げると、キャロラインはそっとエリザの手を取った。
間近で見るキャロラインは、四十代とは思えない白いすべすべの肌をしていた。顔のどこにもしわがなく、二重の切れ長の目は淡い緑色。左の目尻に泣きぼくろがあり、薄い唇は綺麗な弧を描いている。
長い金髪は、艷やかで綺麗にカールされていて、手には傷一つなくきめ細やかで透き通るように白い。
美しい。ただその一言に尽きる。
だから、皆こぞってキャロラインを敬愛する。
「身に余るお言葉、ありがとうございます」
「堅苦しいのは止めてちょうだい。今日はドレスを見に来たついでに、あなたに話があるのよ」
「話……?」
思わずジェーンに目をやると、ジェーンは扉の前で小さく頷いてみせた。
それだけでエリザは嫌な予感がした。
「エリザ。あなた、仕事を引き受ける代わりに侍女達からお金を受け取っているんですって?」
エリザは無言でキャロラインを見た。
「本当だとしたら、あまりいいことではないと思うのだけど」
…………終わった。侍女生命、完全に終わった。
「ええ……ええ……」
もはやエリザの口からは、ええしか出てこなかった。
ドレスの検品なんて嘘で、本当の目的はこれだったのだ。
エリザはこのまま白目を剥いて気絶してしまいたいと思った。そして目覚めたら夢で、ああよかったと言ってホッとしたい。
現実逃避をしている場合ではないのは分かっているが、まさか王妃直々に追求されるとは思ってもみなかった。
いずれ辞める日が来ると想像はしていたが、覚悟はしていなかった。チップをもらうことも、もう少しバレずにやっていけると過信していた。後悔先に立たずとはこのことだ。
「エリザ」
キャロラインが優しくエリザの手を握りしめた。
「あなたが表に出ることなく、裏方に徹して頑張っているのは私の耳にも入っておりました。あなたがいてくれるから、私はいつも綺麗でセンスのいい衣装を着ていられるのよ」
本当に助かってるわと、キャロラインは微笑んだ。エリザは背中に大量の冷や汗をかきながら、ええ、いや、はあ、としどろもどろに返事をした。
「だからね。こんなことであなたを解雇したくないの」
「ええ……えっ?」
まさかの解雇なし?
エリザに一筋の希望の光が差し込んだところで、キャロラインが笑みを深くした。
「そこで、今回のことは大目に見る代わりに、あなたにお願いがあるの」
「お、お願い……ですか?」
「そう。あなたにはね、今夜仕事を終えてお風呂に入ったら、水明殿の東の寝室へ行って欲しいのよ」
水明殿とはアーサー王子の居殿であり、多数の寝室と私室、図書室や書斎がある。東の寝室は王子の寝室の一つだ。
「あ、あの……なぜ……?」
「あなたにはね。アーサー王子の相手をして欲しいの」
エリザは固まった。
「アーサーは今年で十六歳。そろそろ婚約者を選定する頃だわ。結婚して、いざという時に何も分からないのでは、お相手を困らせてしまうでしょう?私はアーサーに恥をかかせたくないのよ。その時のために、手とり足とり教えてあげてほしいの」
手とり足とりって、そのままの意味ですよね。
そのままの……って嘘でしょまさかそんなバカな!
「エリザは戦争で夫を亡くした未亡人なのよね?籍は入れてなかったのかしら?式は挙げたのよね?初夜も済んでいるのでしょ?……まあ、どちらにせよ今は独身だし恋人もいないと聞いてるわ。それにまだ若いから適任だと思うのよ。あまり年上だとアーサーも気後れしてしまうでしょうから、あなたくらいが丁度いいと思うの」
若いって二十四歳ですよ。微妙な年齢ですよ。
「だからエリザにお願いしたいのよ」
「お、お待ちくださいませ……!私は王妃殿下の期待には応えることが出来ません!私には無理でございます!そもそもこんなことをして、アーサー殿下のためになりますか?」
「これはアーサーの将来のためなのよ。女性を知らずに結婚して、初夜で恥をかくなんてあんまりですものね」
「ですが、それにしても私には出来ません!」
「ちょっと色々教えるだけよ?」
ちょっと色々どころの話じゃない。
エリザは慌てに慌てた。出来ないと首を振り、プロに任せましょうと提案しても、外部に漏らされたら困ると言って、キャロラインも引かない。
いやだ。いける。無理だ。大丈夫。
押し問答が果てしなく続く。
埒が明かなくなったところで、ジェーンが口を挟んだ。
「エリザ。断るならば解雇するしかないわ。王宮で働くことが出来なくなってもいいの?」
エリザは押し黙った。
王宮で働けない。つまりそれはメイドとしても雇ってもらえないことを意味する。
「それに、あなたのお父上にも迷惑がかかるかもしれないけど……いいのかしら?」
それはなんて名前の脅しでしょう。
エリザは呆然として天井を見上げ、床を見下ろし、固く目を閉じて、緩やかに首を振った。
「もしもエリザが引き受けてくれるのならば、侍女からお金を受け取っていたことは不問とし、これから先も見過ごしてあげるわ。それに、特別手当も出しましょう」
エリザはジェーンにトドメの一言を刺されて、ついに観念した。
「……何時頃伺えばいいでしょうか?」
「そうね。十時には必ず行ってちょうだいね」
ジェーンに言われて、今回のことを思いついたのはジェーンなのではないかという考えが、エリザの脳裏に過ぎった。だとしても、もはやエリザがどうすることも出来ない。
お願いするわねと言って、キャロラインはようやくエリザの手を解放すると、小さな小瓶を手渡した。中には白い錠剤がたくさん詰まっていた。
「妊娠したらいけないから、それを飲んでちょうだいね」
ははあ。これは避妊薬……。しかし多くないですか?まさか一度で終わらない感じですか?そうなの?嘘でしょ?まさかねぇ……。
エリザは怖くて聞けなくて、無言で小瓶をポケットに突っ込んだ。
そしてジェーンとキャロラインを見送ったエリザは、その場にうずくまった。
「……なぜ引き受けたのよ私!」
こんな状況でも、特別手当に惹かれたことは否めないのだけど。
それにしたってエリザからアーサーに教えてあげられることは一つもない。
なぜならば、エリザの結婚生活はたったの二日で終わったから。
エリザは結婚式を挙げた翌朝、戦争に向けて旅立つ夫を見送った。そして一月後に夫が戦死したと報せが届き、エリザは未亡人となって元いたハーディス家へ出戻った。
しかしその後、実は籍を入れていなかったことが判明した。エリザは未亡人でもなんでもなく、ただの仮初めの花嫁だった。未亡人もどきである。
なんにせよ、エリザにはキャロラインの期待に応えることが出来ない。
「こっちが教えて欲しいくらいよ……」
盛大なため息を吐き出して、エリザは仮初めの夫、リスター・ランズダウンを思い出した。
リスターの出兵が決まり、戦争に行く前にせめて最後に結婚した姿が見たいと願ったのは、ランズダウン伯爵夫人だった。
隣国と開戦したのは、リスターが王立学園の騎士科を卒業して、騎士見習いになって半年が経過した頃。そして、出兵が決まったのはニ年目の十七歳の時だ。
西の国境線上での戦争は、戦火が国中に広がることはなく、開戦から終戦まで平民が徴兵されることはなかったが、軍人や騎士はもちろん見習いも問答無用で戦争に駆り出されることとなった。
リスターは伯爵家の長男であることから、本来は出兵を拒むことも出来たのかもしれないが、自分よりも跡継ぎに相応しい優秀な次男がいると、騎士団に入る時に家督は弟に譲ると宣言していた。
そういった経緯もあり、軍人として国のために少しでも役に立ちたいという本人の希望もあってか、リスターは最前線に派遣されることが決まった。その時点で生きて帰れないだろうことは、本人も家族も悟っていた。
だからランズダウン伯爵夫人は、必死になって結婚してくれる令嬢を探した。
そして、ハーディス家が領地を担保に借金をしたことを聞きつけて、縁談を持ち込んだのだ。
結婚してくれる代わりにお金を出すという、ランズダウン家の申し出を受けたのは、他でもないエリザだった。すでにその頃ハーディス家は多額の借金を背負っていて、少しでも家のためにお金が欲しかった。
父のデヴィッドは反対したが、エリザが無理を言って通した。
こうして、会ったこともない二人の縁談はまとまった。結婚を了承した日からリスターが出兵する日まで、すでに一ヶ月を切っていた。
初めてリスターを目にした時、エリザは平凡な外見をしているなと思った。
濃い茶髪に、灰色の目をした優しげな青年は、凡庸な外見の自分とお似合いだと思った。
リスターも同じことを思ったのか、私達はお似合いだと思うと、開口一番に笑った。二人は握手を交わし、そのままランズダウン家の庭を散歩して回った。
恋愛も見合いもすっ飛ばして結婚する二人だったが、不思議と昔から知った馴染みのように自然と手を繋いで、お互いについて話して歩いた。
幼い頃から騎士に憧れて、念願叶って騎士見習いになれたこと。家は優秀な弟がいてくれるから大丈夫だと、あっけらかんと笑うリスター。
エリザもまた、ノースグリンのことや母のことを話して聞かせた。
そして二人はその場で婚約して、衣装合わせをした。
大急ぎで用意した純白のドレスはエリザには少し大きくて、当日までになんとか手直しをすると、ランズダウン伯爵夫人は約束してくれた。
そして結婚式当日。
レースをたっぷり使ったプリンセスラインのドレスを着たエリザを、リスターは綺麗だと言って褒めてくれた。エリザは嬉しくてのぼせてしまいそうだった。
式がはじまり、指輪を交換して誓いの口づけをした。
照れくさそうに微笑むリスターは幸せそうだった。あの時のリスターの笑顔を、エリザはきっと一生忘れない。
そしてその日の夜、寝台に腰掛けたリスターは、エリザに背を向けたまま言った。
「私は明日にはいなくなる。一晩だけの夫婦になるために、君はここまでしてくれた。それだけでもう充分だ」
「だけど……」
「私のことはすぐに忘れて。君には本当に愛する人を見つけて幸せになって欲しいんだ。だから、今日は手を繋いでおしゃべりをして過ごそう」
リスターは子供のように笑った。
二人で寝台に並んで寝転ぶと、手を繋いで朝までくだらない話をして笑い合った。
そして翌朝、エリザはリスターを見送った。
そして、夫はこの世から去ってしまった。
その後、ランズダウン家から、籍は入れていないとの報せを受けた。リスターがエリザを想って固辞したのだ。リスターは夫ですらなかった。
ハーディス家は一度は受け取ったお金を全額返したが、ランズダウン家は何度も受け取ってほしいとハーディス家にやって来た。
デヴィッドもエリザも決して受け取ろうとしなかったので、ランズダウン家はついに強引に借金を立て替えてしまった。
受け取ってくれないのならば、せめて無利子で貸すというランズダウン家の申し出を、デヴィッドは最終的に受け入れた。
そして半年後、二年に渡る戦争は、両国共に決定的な勝利を得られないまま和平交渉へと移行すると、新たな国境線を設けた条約が締結された。
終戦が告げられると、ハーディス家は領地を手放して伯爵位を返上した。
それ以来、エリザは恋をしていない。
リスターに恋をしていたのかさえ分からないまま、今に至っている。




