染まる 1
休み明け。エリザがいつものように朝早く執務室へとやって来ると、机の上には手紙の束や便箋が乱雑に置かれていた。隣のルカの席はもっとひどい有様で、資料で埋もれている。
一体休みの日に何があったのだろう。一日でここまで散らかるものなのか。
エリザはルカとオーガスタの机の片付けからはじめて、それが終わると手紙の仕分けに取りかかった。それが終わったところで、アーサーとルカが出勤して来た。
「おはようございます」
「おはよう」
「おはようエリザ。もう片付いてるな。昨日の一日で見事に散らかったんだが、さすがだな。助かるよ」
「ルカが散らかしたんだろ」
アーサーが呆れ混じりに言うと、オーガスタが出勤してきた。オーガスタはエリザを見るなり手をとって、昨日は大変だったのよとにっこり微笑んだ。
そのままオーガスタがエリザの手を撫で回していると、ルカが乱暴にオーガスタの手を払いのけた。
「やめろ」
「何よ痛いわね。乱暴者!」
「朝からやめてくれ。それより話があるんだ」
アーサーに言われて、一同はソファ席へと移動した。座るなり、早速アーサーが切り出した。
「先日の夕食の時に婚約者の件を相談したところ、父上や母上と一緒に決めていく方向で固まった」
「アーサー殿下はそれでよろしいのですか?」
「ああ。私だけではやはり判断出来ないからな。そういうわけで、今度はもう少し範囲を広げて、改めて候補者達を調査していく」
「範囲を広げて……?」
「下位の伯爵令嬢も視野に入れて、年齢も幅を広げる」
「高位貴族の令嬢は軒並みだめだものね」
「父上としては、私の誕生日までに婚約者を決めたいのだろう。それまであまり時間はないから早々に調査に取りかかってくれ」
「ちなみにそれはいつまで?」
「来週末のスケジュールは空いてるはずだ。そこで絞り込んだ候補者と茶会を開きたいと思っている。来週末までにある程度絞ってくれ」
「ちょっと待ってくれよ……急すぎる」
ルカが頭を抱えて唸る。
「調査するのはティント伯爵令嬢をはじめとした厳選した数名でいい」
「その厳選した数名を絞り出すのが難しいのよ!」
「だとしても、今週末までには終えてほしい」
今度はオーガスタが絶句して、白目を剥きそうになっている。
「来週末の茶会は父上と母上も出席する」
「まだ候補者が決まってもないのに茶会の準備もするの……?」
「だったら早く候補者を絞り込んでくれ」
「簡単に言わないでちょうだいよ!」
「特別手当は出す」
「絶対よ!その言葉忘れないでよ?」
オーガスタが念を押すと、アーサーは分かった分かったと手を振った。
「ともかくこれは決定事項だから、そのつもりで」
ルカとオーガスタは途端に元気をなくした。アーサーは涼しい顔で自分の席に戻ると、さっさと公務をはじめた。
エリザはアーサーの下までいくと、来月末にお休みをほしいことを告げた。
「私用がございまして、大丈夫でしょうか?」
「どうしても外せない用事なんだろ?それなら休んでくれて構わない。どこかに出かけるのか?」
「はい。父と……」
「そうか。ならば休暇届けを書いてルカに提出しておいてくれ」
「分かりました」
席に戻ると、ルカがいつ休むのか聞いてきたので、エリザは休暇届けを書きながら来月末にと答えた。
「忙しい時に申し訳ありません」
「暇な時なんてないんだから、気にするな」
エリザは笑って礼を言った。
「旅行か?」
「いえ……」
借金を返しにとは言いづらくてエリザが言葉を濁すと、ルカは察してくれたようで、分かったと言って休暇届けを受け取った。
ほっとしたエリザは手紙の代筆をはじめたが、とんでもない量の手紙の数に苦戦して、午前中で終わらせることが出来なかった。
それから、昼食を終えて六華殿へと資料を渡した帰り道、エリザは訓練所前で立ち止まった。訓練所では騎士が剣の稽古をしていた。エリザはアーノルドの姿を探した。
アーノルドに助けてもらった礼を言いたかったのだが、こちらが用がある時に限って姿が見当たらない。
オレンジ色の長髪を探して背伸びをして訓練所を覗いていると、背後から人の気配がした。振り返った先には満面の笑顔を浮かべたアーノルドの姿があって、驚愕して後退りすると、訓練所の柵に背中をぶつけた。
「あ、アーノルド様?!」
「なんだい?私の顔を忘れたのかい?それとも私の美しさにやられたのかな?」
「か、か、髪はどうしたのですか?!」
「切ったんだよ」
エリザは二の句が告げなかった。
アーノルドはオレンジ色の綺麗な長髪を、襟足からばっさりと切っていた。一瞬誰だか分からない程の変貌ぶりに、動揺して中々言葉が出てこない。
「前にエリザが言っただろう?短いほうがかっこいいと」
「まさか、それで切ったのですか?!」
「そうだよ」
「そんなあっさり!」
「言ったじゃないか。エリザに一番素敵だと言わせるとね。それに切ってみたら髪を洗うのは楽だし、身体が身軽になって視界が広くなった。エリザの言うとおりこちらのほうが私に似合っている。おかげで昨日から女性の使用人達が騒いで困ってるんだよ!」
ハハッ!とアーノルドはいつもの調子で前髪をかきあげた。気を取り直したエリザは、へえと素っ気なく答えた。
「そんなことよりも……」
「そんなことって、相変わらず君は冷たいな」
「先日は浴室を貸してくださってありがとうございました。おかげで助かりました」
エリザが頭を下げると、アーノルドはそうだと思い出したように言って、エリザの顎に手をかけて上を向かせた。
アーノルドは至近距離でエリザの頬をじろじろと観察している。驚きつつも、エリザは抵抗するタイミングを失って、されるがままになっていた。
「頬の傷もほとんど目立たなくなったね」
「化粧をしてるので」
「跡はまだ少し残ってるのかい?」
「ええ。でも本当に少しです」
「それならよかった。完全に治るまではもう少しかかりそうだが」
「いずれ治るでしょうから、大丈夫です」
アーノルドはさらりと頬を撫でて手を離すと、微笑んだ。
「親友が怪我のせいでお嫁に行けなくなったら大変だ」
「し、親友……」
いつの間にか親友認定されてしまったようだ。エリザは一度たりともアーノルドと友人関係になった覚えはないのだが、ここ最近はアーノルドの優しさに絆されてしまって距離感が近くなっている気がする。
それに、エリザは元々嫁に行く気はない。これに関しては余計なお世話だった。
「アーノルド!訓練中だぞ!いい加減にしやがれー!!」
「そんな所でイチャついてんじゃねぇ!」
「お前ばっかり!ズルいぞー!」
訓練所から騎士達が激怒する声が聞こえてきたので、エリザはその場から退散することにした。アーノルドは、エリザの姿が見えなくなるまで手を振っていた。
「それにしても、驚いた……」
まさかエリザの一言であんなにあっさりと髪を切ってしまうとは。これからは下手なことを言えない。何かあった時に、エリザのせいだと言われかねないと、肝に銘じた。
執務室に帰ってくると、アーサーは週に一度のピアノの稽古に行っていて、オーガスタは伯爵令嬢達の調査に出ておりルカ一人だけだった。
エリザが資料を手渡すと、中身を改めながらルカがぽつりと呟いた。
「そういえばエリザ。その、団長から何か言われたか?」
「何かとは?」
「いや仕事のこととか……」
「いえ……特には」
「そうか。それならいいんだ」
はあ、と答えたエリザは、不思議に思いつつ机に向かった。引き出しを開けて、羽ペンとインクを取り出すと、便箋を取りに席を立った。書棚の中から薄紅色の便箋を取って戻ってくると、ルカが何か言いたげにエリザを見ていた。
「あの……?」
「その、エリザ」
「はい」
「この間怪我をした時に、アーノルドの部屋を借りてそこで着替えたのか?」
意を決したようにルカに問われて、エリザは動揺して便箋を取り落とした。
なぜそれを知っている?!
慌てるエリザを見て、ルカは目を細めた。
「……着替えたんだな?」
「ええ、いや、あれはたまたまアーノルド様が助けてくださって、泥まみれだったので寮に帰るまでに廊下を汚してしまうだろうからと……。だからお言葉に甘えたんです……」
ちらとルカを見やれば、ルカは苦い顔をしてエリザを見据えていた。
……怖い。眼光が鋭い。なんか怒ってると、エリザは顔を青くした。
「ご、ごめんなさい。制服は洗濯係のメイドが綺麗に洗ってくれましたので、まだ着れます。怪我の治療費は消毒だけだからいらないと先生は言ってくれました」
「制服や治療費のことはどうでもいい。男の部屋にほいほい上がるのはやめろと言いたいんだよ。そのままアーノルドに襲われたりしたらどうするつもりだったんだ?」
「アーノルド様はそんなことしませんよ。私のことを女として見ておりませんし、そもそもあの人は女性に困っておりませんから」
面と向かって女性らしくないとぶつぶつ言われたし、さっきなんて親友認定されたし。
「そんなの分からないだろ。エリザは危機感がないぞ」
ピシャリと言われて、エリザは困って眉を下げた。
そんなこと言われても、この二十四年の人生の中で、一度だってモテたことはないのだ。男性に言い寄られた経験が皆無なので、危機感がなくても問題ないと思うのだが。
ともあれ、ルカは心配してくれているようなので、ここは素直に謝るのが得策だ。
エリザはごめんなさいと頭を下げた。するとルカは決まりが悪い顔になって、分かったならいいんだよと、エリザの頭をぽんと叩いた。
エリザはルカが心配してくれて、嬉しいような虚しいような、なんだかよく分からない気持ちになった。
こうして心配してくれるのは、ルカが上司だからで、それ以上の理由は何もないんだろう。そう思うと急に悲しくなってきた。
誰にも言い寄られなくていいから、この人だけに好かれたい。
頭の中でそんな欲が唐突に顔を出してきたものだから、エリザは隠すように頬に手を当てた。顔が熱い。なんてことを考えているんだ。
「どうした?痛むのか?」
ルカが心配そうに顔を覗きこんできたものだから、エリザは慌てて首を振った。
「そういえば怪我は治ったのか?見せてみろ」
「だ、大丈夫です!」
「いいから」
頬を隠していた両手をルカに掴まれて、そのまま膝の上に置かれた。ルカの手は熱くて大きくて、エリザの手が逃げないようにしっかりと握りこんでいる。
エリザの真っ赤な頬はさらけ出され、間近にはルカの顔。更に顔は熱くなる一方だ。
ルカは頬に傷が残っていないか真剣な表情で確認すると、大丈夫そうだなと呟いて、エリザの赤くなった顔を見て小さく微笑んだ。
「気をつけろよ」
「はい……」
ルカの手が離れていって、エリザはそれを名残惜しく思った。
ああ。いやだ。ルカへの気持ちが日増しに大きくなって、抱えきれなくなりそうだ。このまま溢れてしまったら、どうなるのだろう。
ルカに好かれたいだなんてもう思わないから、せめて好きでいることは許してほしいと、エリザは久しぶりに神に祈った。
――神様は、一度だってエリザの願いを叶えてくれたことはなかったけれど。




